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谷崎潤一郎と川端康成 文学の奇蹟

谷崎潤一郎と川端康成は私の好きな小説家の二人なのだが、二人は非常に似た作家に思われる。どちらも、女性の美、そして日本の美をテーマとして描いている。
つまりは、そこである。女性の美、日本の美、というのは日本の文学としては100点に近しい素材である。
これが、如何に優れた文章であろうと、日本の薄汚さ、日本の闇、など書くと、一部以外には受けない。

ちなみに、今回の記事のタイトルは、なんかいい感じのタイトルは餌になると思ったので、私の嫌いな言葉を紡いで書いた。実際には、奇蹟など語る気は毛頭なく、ここから若干汚い話が始まるので(無論、表題の二人にも関係あるよ)、これは罠なのダ。嫌な人はここで帰ってつかあさいな。

私は川端康成は全集で読んだので、9割方の作品を読んだが、半分は覚えていない。『日も月も』とか『川のある下町の話』(これは本当は代作)とかも内容を覚えていない。私は一体、何のために読んだんだ?
いや、まぁ、だから代表作、という作品はなんだかんだで名作や佳作が多いのだ。埋もれてしまうのはそれなりの理由がある。
潤一郎は全体の5割くらいしか読んでいない。どちらも代表作はあらかた読んだ。

基本的には谷崎潤一郎と川端康成は美の化身を描くことに情念を注いでいたが、小説の書き手として決定的に異なるところがあるとすれば、構成力の差だろう。
潤一郎は抜群に作劇における構成能力が高い。反対に、川端は新感覚派だけあって、感覚勝負の人である。彼の作品は、三島由紀夫の言うところの、始まったと思ったら終わる、咲いたと思ったら終わる作品である。掌編短編の名手であるだけに、その瑞々しい描写、瞬間の切り取り、叙情の抽出は潤一郎を遥かに凌ぐ。
然し、構成能力は極めて低く、断続的に休載を挟みながら進めていく連載作品が多い。代表作の『雪国』は10年以上かけて磨き続けた作品である。
要は、飽きっぽいのである。胆力がない。
潤一郎は構成力のある物語を紡ぐのが抜群にうまい。そして、つらつらと長い文体も彼の味だが、あの長い長いねちっこい文体(大江健三郎はそれを遥かに凌ぐが)を延々と続けてなお、全体像が見えている。
全体を掴む、全容を支配する。これこそが小説家において最も必要なことである。物語を書く神は流されてはいけない。常に、宙空から物語を俯瞰で見つめて、要所要所でいかづちを落として読者を痺れさせるのである。
構成力の高さこそが、商業小説に最も必要なことではないだろうかと私は思う。藝術に重きを置くのならば、康成派でも構わないが、構成力は正義である。構成力の高さはそれだけで最強の武器になる。

さて、この二人は禍々しい小説も書くが、押井守の言うところの、世間の許容できる範囲の禍々しさなのである。押井守はティム・バートンの作品、例えば『シザーハンズ』や『チャーリーとチョコレート工場』などは世間一般が受容できる狂気だと評して、これがクローネンバーグだと変態として一般には受けず、デビッド・リンチになると、キ◯ガイになるため、完全に理解の外に行く(たまに受けたりもする)と言っていて、これは概ね正しい。

『インランド・エンパイア』は京都シネマで観たけどさ、全然意味分からなかったよ。でも、リンチ観てるだけで、なんか大人になれた気がしたんだよね。これも映画をファッションで観る、という一番ダメなやつさ。


なので、康成のロリコン趣味も、潤一郎のSM趣味も、どちらも世間的にはファッション変態としての箔程度にしか思われていない。特に、谷崎潤一郎はその耽美で一般受けしすい内容かつどことなく危険な香りを放っていそうなところが抜群に似非文学オタクに受けるのである。
冷静に考えると、御本人は妻君譲渡事件やその後の二人目三人目の妻、妻の家族を厭らしい目で見て妄想に耽るなど、完全にネジが飛んでいるとしか思えないが、それもまた味なのだろうか。

さて、問題はうんこである。
潤一郎は時々うんこネタを出してくるが、それも文章でのうんこなのでまぁそこまでキツイものはない。
谷崎はうんこネタが大好きだ。定期的にうんこネタをり出してくる、いや繰り出してくる。『少将滋幹の母』や『武州公秘話』、『過酸化マンガン水の女』に『春琴抄』など、うんこにまつわるネタを入れずにはいられない。極めつけは『細雪』の美しい三女雪子に最後の場面で下痢をさせて締めるという、なんとも酷い仕打ちを書いて興奮している男である。

康成はうんこが嫌いなのかもしれない。あまりそういう話を書かない。
康成は、嫌なものをフェードアウトする癖がある。『伊豆の踊子』でも踊り子の兄の梅毒だったことは省いている(ちなみに踊り子の薫という名前は本当にはこの兄の名前)。
これくらい書いたらわかるだろ、察せいよ、な世界がYASUNARITHMなのである。

ただ、まぁ許容できる範囲である。例えば、丸尾末広とかは変態漫画を描いているが、
有名な『少女椿』などは非常にマイルドな味わいであり、これもあんまり許容できる!という人はそりゃ谷崎川端のお二方よりは遥かに少ないが、それでもファッション変態としてはまだまだ許容範囲である。


然し、丸尾末広の短編集に『薔薇色ノ怪物』という作品集があるが、これはスカトロジーの極みである。

基本的にはエロ漫画であるが、不倫、身分違いの不貞(上流の奥様とその庭師とか)、S&M、人体破壊、性器切断、尺八、などなど、怖いものをすべて詰め込んで、丸尾末広の愛らしい少年少女がそこでフルボッキしているわけであり、完全に発禁本の類である。
極めつけは、『童貞厠之介』である。非常に汚い話になるので、「んま〜!そういう話は嫌いなの!私はうんこなんてしませんのよ!」という、そういう方はもう読まないで頂きたい。結構である。

『童貞厠之介』は昭和の始め、娼婦である母が公衆のぼっとん便所に赤ん坊を棄てる所から始まる。
まぁ、この時点で①完全に倫理が崩壊しており、②許されざる蛮行だが、創作ということで勘弁して欲しい。
で、厠之介はこの便所の中でたくましく成長していき、街の下で繋がった便所や下水の中をスイスイ泳ぎながら、ときにはうんこを食べて(てゆーか常に)、ときには女性を引きずり込んで犯し、ときには便所から上がり街を満喫したりする。
「ええい!けがらわしい!そんな漫画、家に置いておきたくもないわ!」とワナワナ震えながら言う方も多いだろうが、極めつけはラストの展開である。
これは読んでいただきたいので書かないが、基本的にはそういう短編がいっぱい載っている。
完全にアングラポルノであり、全てが狂っている。
然し、恐らくは今作を谷崎潤一郎が読んでいたら泣いていただろう。無論、感動の涙にむせび泣くのである。

潤一郎先生も、もっと躊躇なくSM雑誌に書いていたら良かったのに……。

何故なら潤一郎こそスカトロじー(自慰?)さんであり、再三、作品にその痕跡を残し続けている筋金入りだからである。

いずれにせよ、この二人は規格外の化け物である。
そしてどちらも成功者。

小説に重要なのは構成力、そして、日本の美、女性の美だ。これだけ覚えておけば間違いない(長井秀和風に)。


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