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親友という百合の花、歌劇団の代理恋愛 

川端康成の小説に『親友』という作品があって、これは少女小説である。
これは川端康成幻の作品として、2017年に文庫で発売された。新潮の全37巻の全集にも掲載されていない作品だ。幻の作品として発売されたのだ。


取りこぼし、というのは偶にあって、まぁ、それは無論当然のことで、小説家は様々な雑誌に作品を書いて、その上で戦前戦中を経験した作家ならば、そのどさくさなどで消えた雑誌や出版社なども多く、小品などは作家自身も忘れてしまうことがあるだろう。

私個人の川端康成掌編の最高傑作だと思っている『名月の病』なども、素晴らしい作品だが全集には掲載はない。多分、新潮を古書で買わないと読めないはずである。
昨年も色々発掘されていたし、そういうのだけで補完本1冊が出来るだろう。

で、『親友』は、めぐみとかすみと呼ばれる二人の娘を描いた作品で、まぁ、少女二人の気持ちの交感を描いた作品なのだが、読んでいてとてもほっこり気分になる、平和な小説だが、恐らくYASUNARI的には二人の少女がただわちゃわちゃしているだけで萌え萌えだったのだろう。
可愛らしい作品で、枕辺に置いてゆっくり読むのがオススメの1品だ。

YASUNARIは異常に女性の描いた文章が好きで、女性の綴方(作文)の審査員とか赤ペン先生的添削連載をしたりと、まぁ、変態なのであるが、『乙女の港』という作品もあって、これはまぁ代作なのでYASUNARI作品ではないが、これはS(エス)と呼ばれる、当時流行ったという上級生下級生の疑似恋愛、疑似恋人関係を描いていて、三角関係の話だが、これは中原淳一のイラストが愛らしく、中原淳一といえば、数年前に高島屋で販売されたスーパードルフィーの人形はとてつもなく可愛かったが、まぁ、それはいいとして、本当の作者は中里恒子で、彼女はミッションスクールに通っていたので、実体験というか、リアリティのある世界の構築が出来たのであろう。
この時代は代作、というのがたくさんあって、名義貸し的な感じでデビューの一助になる側面もあったりなかったりとか。

かわいいだろ?ン十万円するんだぜ。髪はウィッグでね、意外と大きいのよ。
オスカルかっこいいなぁ。オスカル大好き。アンドレ?どうでもいいよ。

土台、YASUNARIはエリートである一高生とはいえ、女の園は妄想でしか書けないため、なかなか難しいのである。

康成は、とにかく女性が好きだったため、聖少女、或いは野生の少女(つまりは野の花、貧困の娘など)を書き続けてきたが、彼はカジノ・フォーリーなどに入り浸り、現代のメンタリティならば、アイドル大好きー!っていう感じで、然しタニジュン谷崎潤一郎のようなガチ勢ではなく、精神的童貞だっため、女性同士の仲良しに憧れる節が、或いは幻想があったのではないか。

女性同士、といえば、宝塚歌劇団なども、恰も少女小説を具現化したかのような夢である。それは、少女小説の夢である。
百合文学というジャンルが有り、まぁ、それはレズビアンの文学であるが、レズビアンとは元々は紀元前6世紀頃、古代ギリシャの詩人であるサッポー(或いはサフォ)から来ている。そのため、古代ギリシャでは同性愛をサフィズムと呼び、彼女が生まれ、そして最後に住んだレスボス島から、レズビアンが来ている。サッポーは美しい女性の弟子たちを愛したという。

バイセクシャルでもあるそうな。


宝塚歌劇団は百合文学ではない。百合文学も幅広いため、一概には言えないが、やはりそこには上級生と下級生の関係性である『エス』に親しい精神性、或いは、代理恋愛であり、偶像崇拝であり、精神的両性具有ヘルマフロディトスの世界である。

男性とは、本来的には女性には必要のないものであり、セックスを主とした男性とは異なり、恋心をこそ主とした女性にしか理解できない世界がある。

多くの女性は観劇が好きだが、多くの男性は観戦が好きである。また、男性は観るにしても、それは映画などの技術の粋が集められて、一つの決定稿として固定化された、理論化された藝術を愛していて、反対に女性は観劇など、その場の感情のやりとり、その人の視線、その人の声の高ぶり、など、予め約束されていない時間を愛している。
そして、その観劇などの藝術は、作られた感情とは言え、観客に向けられているが、スポーツにおいての昂ぶる感情は最終的には選手のものである。観客は賑やかしでしかない。
代理恋愛と、代理戦争の違いである。代理恋愛における乙女は清らかであり、男性は理想を体現していなくてはならない。そして、理想の男性というものは、必ずセックスを連想させるため、そこは取り除かれなければならない。そのために女性が置かれる。

推しに対する愛情もまた、そこには純粋な恋心の発露がある。それは、学生の頃、手の届かなかった先生や友達、或いは先輩への恋心の延長線上の嗜みである。

音楽は男女ともに嗜むが、それは音楽が原始セックスの胎動であり、どちらにも作用する。
観戦が好きな男性はやはり肉体のぶつかり合いにこそ本能的快楽を得る。そして、結果が一番であり、予め定められた結末を愛している。
男性はオチを識りたがるが、女性はオチがなくても構わない。それは全て、男性の射精のオーガズムには天井があるのとは異なり、定点的ではなく揺らいでいるからである。

少女たちの恋愛、乃至は女性同士の恋愛作品においては、セックスは重要視されない(それを描く作品も無論あるが)反対に、男性が作り上げる、男性に向けての百合作品はセックスこそが上位に置かれるため、そこでは心理の襞はおまけでしかなく、露骨に、肉体における性的な描写が捧げられる。
たくさんの女性たちが登場し、そこには美少女と美女が闊歩し、キャラクター性が重んじられるルッキズムの世界であり、最終的には彼女たちは性的な消費をもって結末をみる。
或いは、『不思議の国のアリス』もまた、一つの少女小説ではあるが、これもまた、永久少女を描いているとはいえ、性的な搾取の元に振り回される、悲劇の存在である。
また、谷崎潤一郎の百合小説『卍』なども、異様に肉感的である。いやらしさ、露骨さ、性的な匂いが、谷崎の文章から放出されている。


品の問題である。「品性は金では買えないよ、レオリオ。」とはクラピカの言葉であるが、上品さ、育ちの良さが百合文学には必要なのである。
それは、先程に書いたが、学生の頃、手の届かなかった先生や友達、或いは先輩への恋心の延長線上の嗜みという片思いの遊戯であること、その慎ましさである。

そういう意味では、YASUNARIの百合文学は品の良い感じではあるのだが、ただ、通常YASUNARIは魔界の文学がどうこう言って、女性の扱いが酷いのである。康成の作品は、冷静に考えるとほぼ全作品女性に対しての扱いがひどく、この辺りは実はタニジュンの方がまだマシである。ちなみに三島由紀夫は女に興味がない。

川端康成は、女性に憧れて、女性の作品が好きではあったが、彼自身はどこまでも男性的であったと思う。男性的だからこそ、骨董蒐集などという、男性的な最たるもののクダラナイ遊びに嵌ったわけである。




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