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書店パトロール㊱ 異界送りされた夢を見た

文庫コーナーをなんとはなしに見ていると、川端康成のコーナーが目に付く。その中に、『川端康成異相短篇集』なる文庫本が。

いつもの新潮とは違う、まぁ、一軍ではない、異様な作品を蒐めた短編集だ。
中には『白い満月』が収録されている。『白い満月』は伊豆時代の作品で、私も好きな作品だが、霊的なもの、もっといえば、死の匂いが濃厚に満ちた作品で、病で衰えた主人公の身体の骨を噛めそうだという女の言葉が綴られて物語は幕を閉じる。

伊豆時代、の作品、というのはやはり有名なのは『伊豆の踊子』であって、あれも傑作だが、基本的には伊豆の踊り子の旅芸人達は蔑まされた存在であって、主人公は彼女たちと行動を共にするが、基本的にはYASUNARI本人なので、孤児となり、世の中に対して厭世的かつ虚無的な心地を持っている。
だからか、そういう境遇の人達が琴線に触れたのだろうが、YASUNARIは孤児、そして愛する女、未練で未練で、死ぬまで未練のHATSUYOにも振られて、自暴自棄である。

そんな哀しいYASUNARI、これはもう完全に『伊豆の踊子』とは川端版『ブレードランナー2049』であり(そういえば、『DUNE』PART2は北米で既にオープニング3日間で8100万ドルの記録。大体130億円くらいか。とんでもないね)、KとはKAWABATAのKだったのである。
そういえば、康成は『ブレードランナー2049』でもおなじみの雪を舞台にした『雪国』を書いているではないか……。いや、それだけではない!『舞姫』や『花のワルツ』(これはなんか会話しながら踊りだす珍シーンが合ったナ)ではバレエ大好き、レビュー大好きなYASUNARIの乙女チックなダンス趣味を入れ込んでいたが、『ブレードランナー2049』でも、冒頭、繁華街でバレエダンサーのホログラフィーが流れていたぞ……(まぁ、あれはロシアンシネマに対しての文化的なオマージュのような気もするが)。

皇帝はクリストファー・ウォーケンだ。ホドロフスキーのDUNEではサルバドール・ダリだったが。

私は恐ろしくなった。全てが符合する。完全に。YASUNARIはブレードランナー……。

『伊豆の踊子』を筆頭に、YASUNARIは伊豆ものを山のように書いて、さらには浅草もの、東京もの、京都もの、鎌倉もの、とだんだん住む場所が作品に反映されるわけだが、然し、初期の頃から、『伊豆の踊子』のように、弱い立場の女性が人生の無情、非常、徒労に立ち向かうその悲しみと虚無の中に美しさを見るYASUNARI的、高等遊民的な作風が確立している。
川端康成の話は、基本的に聖女と野生の娘、その2パターンが基本路線であり、それを上から目線で慈しむのが芸風なのである。その頂点として『女性開眼』があるような気がする。

まぁ、そんなことはどうでもいい。とにかく、YASUNARIがブレードランナー的であること、これが重要なのである。ブレードランナー的な作家は、何か本質を掴んでいる作家であることは間違いないのだから。

と、安部公房の遺作とやらが初の文庫化、という帯文に目を奪われる。

パラパラと見る。むむ…字がでかい。小学生の読むような、少年文庫のような文字数だ。無理やり文庫に仕立てているようだ。
然し、安部公房、である。大江健三郎か、安部公房か、或いは古井由吉か。
まぁ、個人的には古井由吉に軍配が上がるが、共通して言えるのは、全員が意味不明な難しい文章ばかり書いており、眼鏡をかけている、ということである。
と、古井由吉の本も発見した。

この帯を読んで欲しい。

「恐怖が実相であり、平穏は有難い仮象にすぎない。何も変わりはしない。」

全く持って意味不明である。帯の時点でこの感じ、恐ろしい本である。
私は馬鹿なので、こういう難しい文章を読むと頭が痛くなる。

「恐怖が実相であり、平穏は有難い仮象にすぎない。何も変わりはしない。」

まるで何かの呪文のようである。若しくは、映画に出てくるセリフのようだ。

「恐怖が実相であり、平穏は有難い仮象にすぎない。何も変わりはしない。」

何度も繰り返すうちに、なんだか癖になり、意味がわかるようになってきた……ような気がする。

そんな馬鹿な私は『あかね噺』の第10巻を購入し、528円を支払う。
もう10巻である。まぁ、早ければ秋、もしくは来春にはアニメになるのだろう。

「恐怖が実相であり、平穏は有難い仮象にすぎない。何も変わりはしない。」

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