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吉田修一『国宝』、それは岩本虎眼へと至る道

『国宝』を読み終える。

2018年に刊行された吉田修一の作品である。これの文庫を最近ちまちまと読んでいたのだが、ようやく読み終えた。

歌舞伎の話であり、来年映画化される。主演は吉沢亮さんで、共演は横浜流星さんである。

無論、ニコラス・ケイジ主演の『ナショナル・トレジャー』ではない。

前篇の青春篇、後篇の花道篇とあって、800ページの大著である。

吉田修一、と、言えば、映画化された作品が多くあって、私も、小説は読んでいないのだが、『悪人』、『怒り』、『横道世之介』は観た。
全部映画館で観ている。だから、意外に私は吉田修一映画のファンなのかもしれぬ。

で、『横道世之介』は傑作で、残りの2本の『悪人』も『怒り』も、まぁ面白かった。『悪人』に軍配が上がるが、この2本、どちらも李相日監督で、次の『国宝』も同監督、つまりは、吉田修一作品専属とも言っていいほどの関係性であり、全部二文字タイトル、というのはなかなか面白いなぁ、と思いつつ、李相日監督は、やはり、個人的には、2004年の、村上龍原作の『69』が大好きだ。まぁ、これは、私が『69』の小説も好きだし、あの、1969年の時代、というのが好きなのかもしれない。まぁ、私はこの時代にカスリもしていないため、本当に同時代を生きた人からは叩かれているのかもしれないが。
村上龍があとがきで、これは楽しい小説である、と言うように、本当に楽しい楽しい小説だ。映画版も楽しい。

ここでニコケイの『60セカンズ』を置いたのは、『69』とは何ら関係がないのだが、このエロパロディ映画で『69コカンズ』というのがあって、それを思い出したからに他ならない。

で、前置きが長くなったが、然し、この前置きは一切が不要であり、これから『国宝』の感想を書こうと思う。無論、ネタバレもするが、まぁ、たかだか3000字しかない文章、大したことは書いていない。

800ページもある、長い長い長い長い小説、これは、稀代の女形である、三代目花井半次郎の人生絵巻であり、まぁ、70年とか、それくらいにも及ぶ人生を、時系列順に並べた構成であり、やはり人に歴史あり、なので、様々な事件のオンパレードである。

主人公の半次郎こと喜久雄は、登場時が14歳くらいだが、まぁ、ヤクザのドン権五郎の御曹司で、任侠の血を受け継いでいるし、彫物もバッチリで、その上、美男子、という、まぁ、物語の主役になるために生まれてきた男だ。

彼には兄貴分であり、親友であり、懐刀的であり、臣従として徳次という好漢がついており、この二名がメインキャラクターである。

その二人に加えて、後に喜久雄がお世話になる女形二代目花井半次郎の息子である俊介が加わる。天才と天才がしのぎを削る熱い展開か……、
さぞ凄いバトルが……と、思うと、初めは「やるんかい、ワレいてまうぞ」、的な感じであるが、すぐに仲良くなり、一緒に花街に遊びに行く仲に。なので、こう、なんというか、そこに激しさとか、ある種の怨念めいた人間関係の情熱というものは、あまり感じ取れない。喜久ちゃん〜、俊ぼん〜、とそんな関係性である。

また、今作は半世紀以上に及ぶ物語のため、時代はピョンピョン進む。特に、30代に入ったらすごい速度だ。まぁ、人間、歳を重ねれば重ねるほど、時間の体感が早くなるので、それと一緒なのかもしれない(違うか)。
なので、青春篇は下っ端感があるが、花道篇は地位も実績もある感じである。

長大な物語のため、一つのエピソードの展開が早く、盛り上がりそうになるとそこで打ち止め、次の話へと移行する。気持ちが置いてきぼりである。
美味しい、盛り上がりそうな、感情のスパークのシーンは、基本書かれない。描かれない。出来事がただ淡々と綴られていくのである。これが究極まで突き詰められれば、年表小説になるのだろうか。そう、『武士沢レシーブ』のように。
いや、ある意味、より空想を飛躍させるという意味では、年表作品の方がよっぽど良かったかもしれない。

三代目花井半次郎=喜久雄が主人公であるが、その終生のライヴァル的な立ち位置(の割にはパッとしない)俊介にも尺が割かれている。いるが、彼は悲劇に次ぐ悲劇に見舞われて、胃もたれしそうである。
喜久雄も悲劇の坩堝にいるが、然し、俊介はそれは喜久雄を遥かに凌駕している。後半は喜久雄は半分空気であり、俊介が主役的なものを背負わされている。まぁ、名家に生まれた正当な血統だが、それを凌ぐ外様の天才、というのは、どちらも主人公になりやすいが、前者は特に人の心を掴むだろう。後者も無論、今作では、血に恵まれずに、どこか蚊帳の外である、という悲劇は常に付き纏うが。

何れにせよ、血の物語である。喜久雄の父、娘、孫娘、俊介の父、息子たち、それぞれ血の宿命に縛られていて、舞台にいる時、稽古している時だけが対等のようだ。

今作の良いところといえば、長大な小説なので、物語が終わる時に、何か、ああ、終わったなぁ、と感慨深くなるところくらいである。
長時間付き合ってきたこの喜久雄という人間に対して、お疲れ様!喜久雄、お疲れ様!と声をかけてあげたくなること請け合いである。

然し、美しい二人の女形、という触れ込みに対して、今作最大の問題は、それが描けていないところである。
その点、映画はいい。吉沢亮、横浜流星といえば、美しい二人だ。観ただけで観客はそれが理解できるし、舞台美術や衣装も素晴らしいものが用意されるだろう。

然し、小説は如何にその美しさを描くかが勝負、読者に幻視させるかが勝負だが、それが成されていない。
要は、文章に色気がないのである。主人公の喜久雄に品格があると書かれているが、それも上手く言っているとは思えない。喜久雄はせいぜい意外と真面目、たまにやんちゃ、くらいの感じであり、まぁ、それもある種、あえて心情を省いた作劇なのかもしれないが。

後半に、俊介が喜久雄と徳次と初めて会った時、牛若丸が弁慶を引き連れてきたーというような一文があったが、それはとても良い!これを始めに持ってこいよ!と思ったわけである。ファースト・インプレッションで物語の彩りが大幅に変わるのだから。

最後の方に改めてそのように感じていた、と書かれてもさ……ってなもんであり、まぁ、ただの強がりの裏には本当はそういう風に見えていた、感じていた、というのを後からつまびらかにするその書き方もありといえばありだが、それは感情をさらっと言葉で出す、そのような方が効果的で、地の文で書いてもなぁ……。

私の好きな、これは落語漫画だが、『どうらく息子』においては、最終巻、あるキャラクターが、主人公に、「あんたが所帯を持つってから言うけどさ。あんたが好きだったよ。ほんとだよ。」というシーンがあるのだが、
長編漫画で、関係性をきちんと描いてきて、幽かにそれを匂わせてきた、そのような場合、そこでの独白は心に残るものだ。そういう意味では、今作でも、喜久雄が中国に旅立とうとする(この徳次の行動原理もよくわからんのだがー)、私にとって貴方は私の兄なのだ、とその、その一言が言いたいー的な、文章は良かった。あそこは良い。

まぁ、全体的に、前半の始まりはどこか御伽噺めいていて、後半の花道篇は悲劇の坩堝から国宝に至るまで、という感じで、後半の花道篇の方が面白い。ただ、前半にほぼ空気で背景もなかった春江というキャラクターが、急に後半に、え?主人公?というくらい存在感を出したのは意外、というか、前半にもう少し描写が欲しかったかナ。この春江とその父親の関係性も、何か映像化したときに思う浮かぶようなあるシーンがあるのだが、そこも陳腐に感じちゃったな。
基本、初めから映像化ありきのような筋立てで、まぁ、順当に作れば画面は綺羅びやかで人生の艱難辛苦、友愛、家族愛、芸道への愛、少しのバイオレンスなどがあり、そういうエンタメになるのだろう。

最終的に、喜久雄はある種の演技の境地、三昧境に入り、まぁ、『シグルイ』における、岩本虎眼先生ばりにあいまいな状態に入るわけで、私の脳内に、ただ、「いく、いく〜」という、虎眼先生の言葉が谺する、そんな読後だった。

『シグルイ』の伊良子と虎眼先生の死合は最高だったな。


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