見出し画像

小林秀雄、意味不明

私は小林秀雄が嫌いである。

なので、小林秀雄が好き、と人に言われると、この人とは気が合わなそうだ……と思ってしまう。
そういう、自分にとってのリトマス紙的作品は多くある。

私は難解なものが嫌いなわけではない。寧ろ、自分に興味のある思想、分野では、わからずともわかるまで何度も読む。
然し、小林秀雄の場合は、難解、と、いうよりも意味不明で、読んでいて、一つとして感銘を受けたことがないので、苦手なのである。

私はモーツァルトは好きではないし、詳しくない。なので、この本を読むべき資格がないのかもしれない。然し、モーツァルト、という、語源が好きなのである。モーツァルト、魔笛、この二文字の詩的な響きにクラクラとしてしまう。

然し、そんな気持ちで読んだこの本は、私には意味不明だった。申し訳ない。私は馬鹿なのである。なので、小林御大が言わんとすることが耳を素通りするのだ。もはやそれは嫌いな教師の説教に値する。

小林御大は骨董の類が好きなのだという。結構じゃないか、私だって毎週なんでも鑑定団を見ているのだ。その点、小林御大とも気が合うだろう。そういう意味では、川端康成も大の骨董好き、これはトリオで話し合えばさぞかし盛り上がりそうだ。然し、恐らく、小林御大が語りだす骨董の深みは私には意味不明な念仏に聞こえ、川端康成はいつの間にか藝術の美から女の美の話に移ろうことだろう。会話が成立しない。

そういえば、川端康成は『住吉』連作(MISHIMAが命名)において、毎回毎回、藝術の話を導入に持ってきて、気づいたら自分の話をしている、という、そういう母恋小説を延々と、それこそ死ぬ間際まで書いていたわけだが、この話も絶望的につまらなかった。いや、後半、この夢幻能的構成の小説が自身の話に及ぶ段では素晴らしく美しい筆致を見せるのだが、それまでは、奈良絵本がどうのとか、シャイム・スーティンがどうだとか、池大雅がどうだとか、そんな話をずっとしている。そんな話をしていると思ったら、急に、双子の娼婦と4P乱交する話になっているという、そんな展開だ。

私はこの『住吉』連作の中ではやはり『しぐれ』が一番好きだ(なんせ、あの、世界のMISHIMAも「なかんずく『しぐれ』が一等優れている」と褒めているじゃあないか※人が、特に大家が褒めているから良いという考え方は見直したほうが良いでしょう)。
なんせ、友人と、双子の娼婦との4P、どっちがどっちかわからなくなる、そんな退廃的4Pを書くのである。それを、まさかの絶筆作品の『隅田川』でも持ち出してくるのだから、おい、YASUNARI、お前さん、どんだけ4Pしたかったんだってばよ!と驚くばかりである。

そういえば、小林秀雄は、対談でも意味不明だった。何故意味不明か、それは私が馬鹿だからかもしれないが、まぁ、一読して心に何も残らない、こんなことはそうはない。

まぁ、私は小林秀雄が嫌いなわけで、そういう人は多いようだ。

他にも、どうしても苦手!という作家やアーティストはたくさんいる。

然し、嫌い、嫌い、というのは、ある種好きの裏返し、というではないか。実は好きなのかもしれない。と思ったが、然し、それもまた暴論だよな、とも思う。
普通にムカつくし不快だし嫌いってだけで、好きの要素などない場合だって多いだろう。

まぁ、小林秀雄、つまりは、モーツァルト、つまりはサリエリ、それはもう『アマデウス』なわけだ。
私が『アマデウス』を初めて観たのは中学生の時、音楽の授業で観せられたのである。たまに、授業なのか教師の趣味なのか、それが定かではないことがある。然し『アマデウス』はいい映画だし、良い授業だった。いっそのこと、全部映画を観せてくれるだけでよい。

こんな胸の谷間を見せる映画を中学生の授業で見せるなよ。

授業。それに近しい本を小林秀雄でもあるのを発見!

小林秀雄の写真はいつも格好をつけている。たまにはカニピースとかしてる写真で表紙を飾ってくれよ!(この時代はないよな)。

この対談集もまた、すごい眼圧で睨みつけてくる。あ、と思ったら壺見てるのかな。そう思ったらなんかかわいい写真だな。

まぁ、何れにせよ、小林秀雄、意味不明。この言葉は、私に取り、川端康成の『仏界入易、魔界入難』に相当する、まさに、人生における教訓のようなものなのである。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?