書けないということ
邪魔しているものを見つけて消し去るのではなく、
そのものである事で、そのものが消え去っている。
それは分かっているよ。
という感想を持つ方も多いと思います。
それでも、それを実践しているという実感がある時には、
既にそうではなく。
一瞬前にそうだったことを後から認識しているに過ぎない。
この違いを見失うのはとても簡単です。
そうなると、何が悪いのか、
永久に気づかずに彷徨い続けることができそうです。
指摘された問題点を手掛かりにするのも、
似たような状況を生むかもしれません。
指摘された問題点は、その瞬間の問題点の一部(断片)を
指摘したものでしかないことが、しばしばあります。
それを全てだと思いこんで、いつまでも対処し続けることは、
次の瞬間から新たな問題を生むこともある。
それが問題点だと認識できた時点で既に怪しい。
そもそも指摘した方も、そんなつもりで言っていなかったり。
認識で捉えられる範囲に収まる程度の問題点なんて、
そもそも問題にするほどの値打ちがあったのかどうか。
このあたりのことは、既に指摘されたことを
言い換えているだけのような気がしてきたので、
日記が書けなかったことの核心に迫りたいと思います。
誰かの日記を読むと、
その時、自分の中にあったものに作用して、消える。
書けそうだと思っていても、
時間があるときに書こうとすると、その間に消える。
書くなら、すぐに書き始めないと賞味期限が切れてしまう。
まさに生ものですね。
2016/7/23 下里 康志