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小林よしのりを常に小林先生と呼ぶのは、おかしいのではないか?

小林よしのりを常に小林先生と呼ぶのは、おかしいのではないか?

小林よしのりを、いつも、「小林先生」と呼ぶ人がいる。

これがおかしいのではないか?というのが、以下の文章の趣旨である。

たしかに、漫画家に対して先生付けするのは、もはや慣習といっていいだろう。

たとえば、手塚治虫先生しかり、赤塚不二夫先生しかり。

漫画家としてのよしりんを呼ぶのに、小林先生と言うのは、そういう意味では構わないと思うのである。

しかし、言論家、文化人としての小林よしのりを、常に先生付けして呼ぶ人がいる。これはおかしいのではないか?

たしかに、よしりんは、博識で、達見なところがある。しかし、よしりんよりも、スゴいことを言う人はいるよ。

たとえば、卑近な例で恐縮だが、ボクの親父は、よしりんよりもすごいよ。

ボクの父に、よしりんを読んでいてわからないところや、疑問に思うことがあったときに、電話して聞くと、よしりんよりもスゴいことを言うので舌を巻く。

ちなみに、ボクの父は、自分の経歴を人に知られるのがいやな人なので、あえて書かないが、非常に華麗な経歴の持ち主で、ボクなんか、足元にも及ばない人生を送ってきた人間である。

なのに、

よしりんを、文化人としても、いつも先生呼ばわりするのは、かえって慇懃無礼な感じがするのだ。

そりゃあ、先生と呼ぶべき文脈のときもあろう。しかし、常に先生呼ばわりするのは、いかがなものだろうか。

そういう人はある意味、

よしりんに洗脳されているのかもしれない。信者になっているのかもしれない。

文化人枠で、よしりんを呼ぶときは、普通に、小林よしのりでいいのだ。そのほうが、慣習にあう。

もちろん、文脈によっては、文化人枠でも先生とつけるべきときもあるとさっき書いた。でもそれは、かなり例外的な場合ではなかろうか?

ちなみに、例えば、メンタリストDaiGoの動画チャンネルに課金している人を、「DaiGo弟子」と呼ぶことが通例になっているが、

「メンタリストDaiGo先生」とは呼ばないよなぁ・・・。

あれはなぜなんだろう。まったくもって、なぞだ!(笑)

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