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少食の自分を許したら食事が楽しくなった話

小学校3年生の頃から中学を卒業するまで、私にとって給食の時間は拷問だった。

大勢で全員がほぼ同じ量を、同じ時間で食べる。
食べ残しは「悪」とされ、給食の時間が終わり、みんなが昼休みに入ってからもその場に残らされ、食べるよう指示される。

当然ながら、一人一人体の大きさも、必要とするエネルギー量も違う。
それなのに、みんな「同じであること」を求められ、それ以外(特に残すこと)は許されない。
私は「食べられない側」だったからか、小さいながらも常にこのことに大きな疑問と憤りを感じていた。

幸い私の通っていた小学校と中学校は、ある程度の時間が過ぎたら残りは残飯として捨てても良いことになっていた。
しかし、テレビや本などでは「食べきるまで残らされた」や「吐いてまで食べさせられた」ところもあるようで、それを知った時は大変ショックを受けたものだ。

私が給食嫌いになったのには、ある二つの恐怖症が関係している。

一つは「会食恐怖症」。
誰かと一緒に食事をすることに対して、強い不安感や緊張感を抱くこと。

そして二つ目は「嘔吐恐怖症」。
吐いてしまうことを恐れ、十分に食事が出来ない、食事場面を恐れてしまう状態。

(これらの言葉の意味を調べていて知ったのだが、これらは「社交不安症(SAD)」の一部としてみなされているのだそうだ。これについても後日知識を深め、共有したい)

私はなぜか大勢の人がいるなかで食事をすると吐き気を覚える子どもだった。
きっと、残さずきれいに食べなきゃいけない…というプレッシャーがそうさせたのだと思う。
だけど、吐くこと=汚いことであるから、みんなで食事中は吐いちゃダメ、我慢しなきゃと必死に自分に言い聞かせていた。

悲しいかな、そう思えば思うほど不安感は大きくなり、ますます食べられなくなるというのに…

この頃の私には人間の三大欲求である「食欲」は恐怖でしかなかった。

お腹が空かなければいいのに…
だけど空かなきゃ食べられない…
本当はみんなと一緒に「美味しいね」って笑って食べたい、ただそれだけなのに…

家族でさえも一緒の空間で食べると気持ち悪くなってしまう、そんな自分が大嫌いだった。

しかし、ついにそんな私にも転機が訪れた。

「食」が楽しいと思えるようになったのである。

きっかけは、高校に進学しお昼が「お弁当」になったことにあるように思う。

自分の食べられる量、好きな量を食べられる…

たったそれだけのことなのに、「ご飯食べたくない…お腹なんて空かなければいいのに…」から「食べることってこんなに楽しくて幸せなことだったのね!」へと劇的に変化した。

これには「許す」ということが大きく関わっているように感じる。

少しの量しか食べられない自分を許す…
残してしまう自分を許す…

これまで「みんなと同じ量を食べきらなければならない」「食べ物を残す自分はダメなやつ」という思いが強くあった。

そのことが重圧となり、頭も心も体も、全身が食事に対する拒否反応を示していたのだろう。

お弁当は人それぞれ違うから、「みんなは出来るのに自分だけ出来ない」など、人と比べて落ち込むことや焦ることがない。気楽なのだ。

そうやって少しずつ食事の重圧から逃れた私は、高校1年生の夏には友達との食事を楽しめるようになっていた。

これまではカフェやレストランに入っても「食べきれるもの」を第一に探していたし、「食べきれなかったらどうしよう」と思うことでますます食欲が減退してしまっていた。

だからこそ自分の欲求のままにメニューを選べることや、苦しむことなく純粋に友達との食事や会話を楽しめる、そんな小さなことがこの上なく幸せだった。

自分を許すことで幸せが増える。

もちろん、人生には踏ん張る時も必要だ。
そうすることで自分を何倍にも成長させられるだろう。

だけどそれで自分を消耗して壊してしまうようなら、いったん「出来ない自分」を許してみてほしい。

「食」を諦めた私がお弁当によって変わったように、何か新しい解決策がみつかるかもしれない。

これは自分への戒めでもあるが、

もっと自分に優しくなろうよ。

(ちなみに今は人並の量を食べています。いや、たまにそれ以上…かも…?)

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