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芸術の鑑賞について【基礎教養部】

今回は、穂村弘『短歌のガチャポン』およびセオドア・グレイシック『音楽の哲学入門』の2冊の本を題材にして、「芸術の鑑賞」をテーマにしてnote記事を書こうと思う。それぞれの書評については、以下のページを参照されたい。

短歌と音楽の共通点

ジェイラボの基礎教養部の活動として、各グループにつき1冊の本を選んでそれについてグループ内のそれぞれの人がnote記事を書くということは昨年度から行ってきたが、今年度からは本のテーマや関連性から複数のグループをひとまとまりのグループとして再編され、再編されたそれぞれのグループで複数の本について話し合って1つのテーマについてnote記事を書くという活動が追加された。今回は、上で挙げた2つの本について、「芸術の鑑賞」というテーマでnote記事を書くことになった。そこで、まずは2つの本についての共通点から考えることから始めようと思う。

「短歌」と「音楽」の共通点としてはどちらも「芸術」だと言えるということが挙げられる。だからこそ今回は「芸術の鑑賞」をテーマにしたnote記事を書くことになった。もう少し細かく共通点を上げると、以下の点が挙げられると思う。どれも「芸術」に共通する特徴である。

①ある程度型が決まっている
②時代の流れがある
③深い鑑賞を行うためには一定以上の知識が必要である

①ある程度型が決まっている

短歌については、57577の31音で構成されるという型が決まっている。たった31音しか使えないというのはかなり強い束縛であるが、たった31音に自分の感情などを表現するというのが短歌の魅力とも言える。

音楽については、今まで書いたnote記事で何回も書いている通りである。クラシック音楽で言うと、前回のnote記事で書いたように、「ソナタ形式」といった型が存在してほとんどの曲はそのような型に則って書かれている。J-POPでいうAメロ、Bメロ、サビみたいなものである。

型があるというのは音楽や短歌に限らず広く芸術について言えることである。例えば、美術では写実的な絵であったりキュビズムであったり、ある程度絵の描き方の型が決まっている。「スタイル」といっても良いだろう。そしてそのように型が決まっているからこそ、その型からはみ出した時の美しさみたいなものがある。例えば、短歌には字余り、字足らずというものがある。音楽で言うと、リストのソナタロ短調が例として挙げられる。普通ソナタは複数の楽章からなるがリストのソナタロ短調は1つの楽章からなり、その1つの楽章全体がソナタ形式のようにも複数の楽章からなっているようにもとれるというようになっている(二重機能形式)。これはソナタ形式という決められた型があってこそのものであり、通常のソナタ形式から外れていることはリストのソナタロ短調を名曲たらしめている所以の一つとも言える。

②時代の流れがある

クラシック音楽にはバロック時代→古典派時代→ロマン派時代→近代→現代といった時代の流れがあるというのは今までのnote記事で何度も触れてきた。短歌についてはあまりわからないが、時代の流れというものは絶対にあるはずである。

私は小学生・中学生の頃、百人一首にはまっており、今でも短歌といえば百人一首の印象が強い。そして、今回の題材の本『短歌のガチャポン』をパラパラと読んでみて、まず感じたのは百人一首の短歌のイメージと全然違うということである。百人一首と比べて『短歌のガチャポン』に載っている短歌はかなり自由なものが多いと感じた。短歌というものは日本語で書かれているものであるため、日本語の移り変わりとも密接に関係しているのかもしれない。

その中で特に衝撃を受けたのは次の一首である。

(7×7+4÷2)÷3=17                     杉田抱僕

穂村弘『短歌のガチャポン』p98

これは「かっこなな/かけるななたす/よんわるに/かっことじわる/さんはじゅうなな」と読む。数式で書かれたこの短歌は通常の日本語で書かれた短歌からするとかなり特異なものであり、日本語の言葉を含まず57577のリズムだけを用いたかなり変わった短歌である。このような短歌は百人一首の時代では詠まれなかった類のものであり、現代ならではの短歌とも言えるであろう。なんとなくクラシック音楽でいうところの「現代音楽」に通じるところがあるように思える。

短歌と音楽について述べたが、それ以外にも美術など、芸術全般にわたって時代の流れ、スタイルの変化というものがあるというものがあると言える。

③深い鑑賞を行うためには一定以上の知識が必要である

今回の『音楽の哲学入門』を含めて今までに書評およびnote記事で(しつこいくらい)書いてきたように、(特にクラシック音楽について)深い鑑賞を行うためには一定以上の知識が必要である。上の①と②で述べたようにある程度型を知っていないと音楽を聴いている時に迷子になってしまうし、②で述べたように時代の流れというものがあり、聴き方の"コツ"がどの時代に書かれたものかによって変わってくる。

では、短歌についてはどうであろうか?私は、短歌についても深い鑑賞のためにはある程度の知識が必要だと思う。そもそも短歌は日本語で書かれているので、日本語について知っていなければ正しく味わうことができない(その意味では、クラシック音楽は西洋での音楽なので、日本人にとってハードルが高いのは当然といえば当然なのかもしれない)。

『短歌のガチャポン』では、短歌とともにその解説が書かれているが、解説がなければ理解しにくいような短歌がそれなりにあった。もちろん日本語で書かれているのでなんとなくわかるものだが、解説を読んで「そういうことなのか」というようなものが多くあった。それは私が短歌についての知識と経験が足りていないことに起因するものだと思う。

美術の鑑賞についても同様である。美術館で絵を見た時も、絵だけを見たというの印象と隣に書かれている解説を読んだ後の印象は違うことが多々ある。深い鑑賞のためには一定以上の知識が必要というのは芸術全般に言えることだと思われる。

芸術の鑑賞方法について

以上のことを踏まえて、今回のテーマである「芸術の鑑賞」について考えてみよう。

芸術にはある程度型、スタイルというものが決まっており、時代の流れというものがあり、それらの知識がある程度なければ深い鑑賞ができないということを述べた。ただし、それは「深い鑑賞」のためであって、「正しい」「間違っている」ということを気にせず自分が楽しむだけであれば、知識がなくても楽しむことはできる。そして、クラシック音楽で顕著なように、「知識がなければ鑑賞することはできない」という認識が広まっていることはハードルの高さにつながっていると思う。

もちろん、芸術の鑑賞にはある程度「正しい」「正しくない」というものがあり、「正しく」鑑賞するためにはある一定以上の知識が必要である。しかし、「正しい」鑑賞の仕方が厳密に決まっているわけでもなく、ある音楽のどこで「この部分のメロディーが美しい」と感じるかは人それぞれであり、「正しい」鑑賞の中でも自由度はかなりある。つまり、「正しい」鑑賞の中で「自由」に鑑賞できる。そのバランスは経験値がないと分からないので、まずは知識のことはあまり考えずに音楽であれば曲を聴く、美術であれば絵を見る、短歌であれば短歌を声に出して読んでみる、といったところからスタートすべきだと思う。そして、その中で自分の中で「いいな」と思うものがあればその作品を中心としてその作品が書(描)かれた(詠まれた)時代背景であったり作者・作曲家、スタイルについて調べてみたりして知識を得ていくのが良いと思う。

結局結論としては6月の『音楽の哲学入門』についてのnote記事で書いたものと同じところに行き着いたが、まとめると、「まずは色々な作品に触れてみる。そしてその中で直感的にいいなと思ったものがあればそれを中心として知識を得てより深い鑑賞を行う。それを繰り返し行うことである程度鑑賞方法に”慣れ”て正しい鑑賞ができるようになる。」ということである。ある程度慣れてきて正しい鑑賞ができるようになったら、普段あまり触れないような作品についても触れてみることで、新たな発見をしたり知識の幅、深さが増してより自分の中での芸術鑑賞が熟成されていくだろう。

芸術の鑑賞で最も大切なのは「楽しむ」ことである。様々な芸術に触れてみて自分が「いいな」と思ったものを中心に楽しんで鑑賞することを心がけたい。

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