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亡き王子のためのキューバ(後編)|Travelogue

<前回からの続き>

桐子:キューバの地方旅行で記憶に残っていることはありますか?

志村ま:マタンサスへは鉄道を使ったんです。木の硬い椅子でした。グアグア(バス)という選択肢もあったような気がするけど、きっと蒸気機関車(うろ覚え)に乗りたかったんだね。

グアグアといえば、市内線は二連結なんだけど、これは一つのエンジンでより多くの人を乗せられるようにということみたい。とにかく市街地ではどのバス停も激込みでしたね。

で、マタンサス駅にはバスもタクシーもなくて、移動は馬車だったんです。1994年だよ! 半世紀くらい時代がずれてる感じでしたね。そういえば、なんか石畳の道を通ったような気がするな。

ホテルに着いたら、小さなホテルだけど1階がバーみたいな場所になっていて、ギターを抱えた渋いおっさんがいたな。誰も彼もが観光客を見たら金ヅルだと思っている感じで、このおっさんにも「日本から弦を送ってくれ」と言われて、住所を渡された。今思えば、送ってみておくんだったな。その後の展開がおもしろそうだから。

指が長いキューバ人

いや待てよ。なんか送った気もするな。シンプルなお礼の手紙が1枚届いて、それで終わりだったような気がしてきた。劇的な変化がなくてしょんぼりしたような記憶です…

桐子:マタンサスって聞いたことないですけど、いったいなにして過ごしたんですか?

志村ま:なにしたんだろうね(笑)。少し離れたビーチに泳ぎに行ったことはおぼえてる。行きはトラックの荷台にみんなで載せられて。みんなって言うのは、たぶん日曜だったんだろうね、家族連れとかが多かったんだ。けっこう成長した子どもたちと一緒に海水浴に出かける家族像が新鮮でしたね。

右からパパ、ママ、次男、長男と予想

でも帰りはバスに乗り遅れたんだったか交通手段がなくて、歩きで帰ってたんです。でもどうにも遠いから、途中で自転車に乗った高校生くらいの男子を捕まえて、乗せてくれって無理やり頼んだ。ペソがなかったからドルを渡したけど、すごく素っ気なかったのが、他の大人たちと違ったね。「そこ、喜ぶところ!」って言いたかった(笑)。

桐子:バラデーロは有名なビーチリゾートですけど、訪問の目的は?

志村ま:有名だから行ったんじゃないかな。他の観光地は遠かったからね。でも天気が悪くて泳げなかった。確かハリケーンの余波だったと思います。今ならターポン釣りとかしてみたい場所だよね。

他になにしたかまったく記憶にないですね。帰りはツアー会社のバスに便乗してハバナに戻った。途中の緑の渓谷で休憩したけど、そんなことをおぼえてるくらいだから、バラデーロではなにもしなかったのかもね。ビーチを眺めているだけみたいな。

桐子:キューバに行く前と後の印象の違いってありますか?

志村ま:帰ってきてから村上龍の『KYOKO』(1995年)を読みました。正直あんまりピンときませんでしたね。カブレラ=インファンテの『亡き王子のためのハバーナ』(日本語訳1989年)も読みました。1940~50年代の革命前の自由なキューバが舞台です。

ボクのキューバ体験にもっともフィットしたのは、レイナルド・アレナスの『夜になるまえに』(日本語訳1997年)かな。とにかくカストロ政権が嫌いなことがわかります。あと、社会主義とゲイって相性いいのかなとも思った。マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』を連想したからかな(主人公の一人が社会主義運動の政治犯の物語)。

キューバはけっこうカルチャーショックでしたね。ボクの社会主義のイメージワードは経済的には「自給自足」で「悠々自適」だったんですが、観光客とふれあう人たちは一様にお金にギラギラしてましたからね。それにカストロの経済政策にはみんな不満たらたらでしたよ。でも社会主義であることに誇りを持ってる人もいて、結局、人それぞれなんですね。要は気の持ちようです。

でもそうか、今からもう30年前になるんですね。そう考えると、「失われた30年」って長いですね。なにしてたんだか…(嘆息)


そんな初老のため息を、シクラメンズが歌うブルースはやさしく包み込むのでした。あの日のガットギターのおっさんが歌うトローバのように。


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