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ホワイトな学校へ#32 寄り道⑦ わすれられないおくりもの~父のこと

前回お話したように、父は研究授業の10日前、心筋梗塞で亡くなった。
58歳になるひと月前の、57歳だった。

その日のこと

母は旅行に行っていて、妹はスキーの板を買いに出かけていた。私は指導案と格闘していた。
午前中父はどこかへ出かけ、昼過ぎに帰ってきたら気持ちが悪いという。苦しそうに何回も吐きそうになる。「昨日飲み過ぎたかな。」などと言っていたが、近所の人が救急車を呼んでくれた。私もこの時は、いつもの飲み過ぎだろうな、ぐらいに思っていた。
救急車が来ても、なかなか受け入れ先が決まらなかった。
救急隊員から、大きな病院でかかりつけ医はないのか聞かれたが、父は病院嫌いでこれまで医者にかかったことがなかった。実は、健康診断も受けたことがなく、「健康診断なんか受けて、どっか悪いところがあったらどうすんだ!」というのが、父の持論だった。母も私たちも、悪いところがあったら治すだけでしょ!と説得したが、頑なに拒否し続けていた。

やっと、病院が見つかり、私は、父と一緒に救急車に乗った。後で知ったのだが、心筋梗塞の発作は、吐き気を伴うらしい。当時の救急車には、まだAED が搭載されていなかった。救急車の中でも何度か発作が起きた。父はその度、体をくの字にして苦しそうだった。
病院に着くやいなや、「ドン」と音がして、医師は、電気ショックを行ったようだった。何回かうめき声がしたが、その後は医師が心臓マッサージを始めた。そのうちに母が到着し、私たちは診察室に通されたが、すでに父の心臓は止まっていたのだと思う。
一部始終見ていた私は、もうだめなんだなと思ったが、突然この状態を見た母はあきらめきれず、心臓マッサージを続ける医師の隣で、父に「がんばれ、がんばれ。」と励まし続けている。何時間経ったか忘れてしまったが、医師は何人も交代して心臓マッサージを続けていた。医師が交代する瞬間手を放すと、心電図は止まってしまう。
私は、母に「もう、あきらめよう。」と言った。


先進的な考え方

父は、自分が高校生の時に父親を亡くし、自分は働いて弟二人を大学に行かせた。私たちには、これからは女性だって、大学に行って、仕事をもって働くべきだ、と言っていた。だから、私が小学生の時、塾に行って勉強しているというだけで喜んでいたのだと思う。
父の祖父つまり私の曾祖父が、師範学校の先生をしていたようで、その話を何度も聞かされた。私に将来は教員になってほしそうだった。私が教員を目指したのも、父からの刷り込みがあったことが大きいと思う。
女であるからという理由での制約がなったことが、今の自分につながっている気がする。(遅く帰ったときは、すごく怒られたが…)


多趣味

父は、百科事典とか文学全集とか、いろいろな本を買ってくれた。
多趣味で、何でもできた。オーディオとかドライブとか釣り、ゴルフ、スケート、卓球…。脱サラして製本工場を始めたときは、その工場を自分で建てた。
後でわかったことだが、家を建て替えたローンがあって生活は楽とは言えず、母が一生懸命節約しても、父がいろいろなものを買ってしまうことを、母はすごく怒っていたようだ(後に、母が認知症になって実家を片付けたときに、出てきた母の日記に書いてあった(^_^;)
そのローンは、父が亡くなる直前に完済していた。

クラシックの新しいレコードを買ってくると、私たちを呼んで聞かせてくれた(というか、聞かされた)。
ピアノを習い始めたら、ほどなくピアノを買ってくれた。スチールギターだのウクレレだのの楽器もあった(ハワイアンか?)。

釣りは、小さい頃から何度も連れて行かれた。私たちを連れて行けば、口実になって行きやすかったのだと思う。車酔いがひどかったので気乗りはしなかったが、着いてしまえば、海や川は楽しかった。ハゼ釣りに行くと、メゴチという魚が釣れ、ぬるぬるするので下ごしらえをするのに母は大変だったと思うが、天ぷらにすると、とてもおいしかった。

確か私が中学生、妹が小学4年生の時、私たちにはフィギュアスケートのスケート靴、自分はハーフスピードのスケート靴を買ってきて、近くのスケートリンクの年間会員のチケットを買い、毎週のように連れて行かれてスケートを教えてもらった。父は、名古屋で仕事をしていた時、スピードスケートで国体に出たらしい。一位かと思ったら、周回遅れだったという笑い話を聞かされた。実際に、父は、スケートの教え方はうまかったし、テレビで見る選手のようにミズスマシの如く滑っていた。

家族で温泉に行ったときは、高校生で元卓球部の私と中学生現役卓球部の妹相手に、浴衣でガチ卓球をやった。
大学生になったら、ゴルフを教えてくれた。ゴルフは叔父の方が上手だったが。そういえば、水泳も、小学生の頃、父や叔父に教わったのだった。

父は、町内会の仕事にすすんで参加していた。父が中心になっていた頃は、町内会でいろいろなイベントを企画して、とてもにぎわっていた。
正月になると、入れ替わり立ち代わり人が訪れた。客間のあたりで待機して、人が来るたびに挨拶をすると、お年玉がもらえた。

お酒は、毎日、よく飲んだ。主にウイスキーだったと思う。それから日本酒も。
酔うとだいたい陽気になるが、カニを食べながら飲むと、悪酔いしていた。


余談

父が亡くなって、いろいろなことが一段落したころ、母の姉の息子、つまり私の従兄が改めて謝りに来た。
父が亡くなる数か月前、母の父(私の祖父)が亡くなった。そのお通夜の席で、父は悪酔いして大騒ぎした。怒ったその従兄が、「うるさい、だまれ。次はお前だ!」と父に悪態をついた。そうしたら、本当に死んでしまった。
私たちはそんなことはすっかり忘れていたが、従兄としては夢見が悪かったのだろう。
気の毒なことをしました。


わすれられないおくりもの

私の性格は、完璧に父に似たのだと思うが、体質だけは気を付けなくてはいけない。もちろん、私の場合、健康診断は毎年受診し、どこも悪いところはなく、無事57から58歳を超えた。
父は亡くなる直前、なぜか『銀河鉄道の夜』を読んでいた。私たちは何となく憚られ、未だに敬遠して読んでいない。特に、57歳の時には読まないように気を付けた。今度は妹が、57歳から58歳を気を付ける番になった。引き続き、『銀河鉄道の夜』は読まないように。

いいことばかり書いているが、反抗期の時は、御多分に漏れず、ずいぶん反抗した。しかし、こうしていなくなってしまうと、いいことしか思い出さないから不思議なものだ。

国語の教科書に載っている『わすれられないおくりもの』とは、こういうことなのだろう。アナグマさんは、森の動物たちにたくさんのものを残したのだ。

父が亡くなって、人生には限りがある、だから、今日という日を悔いなく過ごそうと思うようになった。
いつ死んでもいいように、ではない。生き続けるためにできる限りの努力をしたかどうか、悔いが残らないようにするのだ。

毎日、退勤する前に、一日を思い返す。今日も一日、やりきったなと思えればそれでいい。

私も、ほんのわずかでも、誰かに何かを残せたらいいな、と思っている。
このnoteもその一つ。


次回は、寄り道⑧ 女子の方が優秀なのか です=^_^=

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