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人の人たる所以を三つの条件から再考

人の人たる所以は、一般に
(i)  言葉を使うこと
(ii) 道具を使うこと
(iii)   火を使うこと

とされています[1]。本文では、上記三つの条件について考えてみましょう。


(i) 言葉について

 ヒトについで知能が優れるとされるクジラは、さまざまな形で会話をしていることが、多くの研究者によって指摘されています。また、クジラと並ぶ知恵者といわれるカラスも会話をしていると考えられています。
 文献[2]では、“クジラは音声をコミュニケーションに用いていることは事実である。「誰が」、「どこで」、「何を」といった情報を伝送できるものの、「いつ」、「どのように」、「何を」といった情報をやり取りしている様子はない”と記述されています。

 人間の知能の及ばぬレベルでの会話の可能性は残されているようで、文献[2]では、“サッカーのルールブックをテニスのルールブックに置き換えるのが無理なことのように、人間の言葉⇔クジラの言葉、という相互置き換えは到底無理なこと”と述べられています。
 一方、文献[3]は知恵者カラスについて、コミュニケーション能力が高く、鳴き方や音階で情報を交換していると指摘しています。

 私の目線で判断する限りでは、クジラやカラスの会話はいわゆるテクネーであって、ロゴスとしての言葉ではないと思います。しかしこれはやはり人間目線でとらえた考えでしょう。先程のルールブックの置き換えが無理という話と同様、人間の使う言葉と動物の使う言葉とは次元の異なるものである可能性は高いと思います。クジラやカラスの言葉にもロゴスの部分は残されているでしょう。

(ii) 道具について

 マッコウクジラ、ザトウクジラ、シャチなどの高等哺乳類は鼻から出す空気の泡で大きな“魚網”を作り、この魚網でニシンやイワシの群れを海面近くに閉じ込め、捕食しています。海中に空気の泡を材料とした泡で作った魚網という道具を製作していると解釈できるでしょう。
 シャチはこの魚網を100パーセント生かすためにコミュニケーション能力というソフトをうまく使っています。
 私もNHK番組でザトウクジラの記録映画を視聴した際、この模様を詳しく観察することができました。非常に興味深いシーンでしたので以下に紹介しましょう。

巨大なヒゲクジラの一種、成長すれば体長15メートル近くにもなるザトウクジラを観察してみましょう。彼らは家族単位のグループで協力し合って、ニシン等の魚の群れを囲い込みます。そしてリーダのザトウクジラが金属音に近い(アルト歌手の声域ぐらいの)音を出しつつ鼻から空気の泡を出て“魚網”を作り、ニシンの群れを巧みに海面へ追いやります。海面には泡からできた“魚網”の外縁である巨大な丸い輪が見事に浮かび上がり、その泡の輪の中に、ニシンやイワシの群れが閉じ込められます。リーダの発する金属音が5~8度高くなった瞬間、ザトウクジラの家族は泡からできた“魚網”に一斉に突入し、その中のニシンを一網打尽に食しています。

 ちなみにヒトが、“まだだよ、まだ、まだ、まだ…、よーしいけ”と叫ぶような場合、“よーしいけ”のところで3~4度自然に上がります。このことを考えるとザトウクジラの場合はサインというよりもヒトの言葉に近いレベルにあると考えられるでしょう。

  文献[4]によれば、生後9ヶ月の赤ん坊のコミュニケーション内容を6つに分け、それらのうちの二つ
(1)注意の喚起
(2)ものを入手したいという願望、要求

に対して、いわゆるメロディパターンは“語尾が上がる”と指摘しています。

 上記結果は、“まだ、まだ、まだ…、よーしいけ!”といったコミュニケーション内容の場合、メロディパターンにおいては9カ月の赤ん坊、そしてザトウクジラのすべてに、鮮明に共通していること、そしてまた、道具の使用能力がほとんど認められないわずか9カ月の赤ん坊の(ロゴスとしての)コミュニケーション能力が非常に高いレベルにあることを示すものとして理解できるでしょう。

 何れにしてもザトウクジラが製作する“魚網”という道具は、リーダーが駆使するメロディパターンというソフトウェアによって、初めて有効に生かされているということができるでしょう。道具+ソフトウェアによって、道具をより効果的に利用することは人間だけの特徴ではないようです。

 最も進化した鳥といわれるカラスもまた、注目すべき道具使用能力そして道具作成能力を有することは、よく知られています。
 カラスが道路上にクルミを置き、自動車にひかせて殻を割る行動は、全国で目撃されています[3]。
 因みに私も、カラスが自動車学校の道路にクルミを置いて、自動車にひかせて食べているシーンをNHKが放映した動物番組で視聴した経験があり、カラスの賢さに非常に驚いたことがあります。

 では、人にとって道具というのは、本来、どのような存在でしょうか。道具は人にとって単なるハードウェアなのでしょうか。

 以下では、このことについて考えてみたいと思います。話を分かりやすくするために『万葉集』にある歌に注目してみましょう[1]。
 万葉時代、命を絶たれる最期の地、紀州に護送される悲劇の皇子、有馬皇子が道中で詠んだ歌、

”家にあれば 笥に盛る飯を 草枕
        旅にしあれば 椎の葉に盛る”

(巻第二、142)

は、正にこのことを象徴する内容の歌といえるでしょう。護送される身である自分に対しては食べ物を直接手に取って食べるようなことが許せても、一縷の望みを託す“神”に対してはそのようなことはできない。家に居れば、美しい容器に祭ってあげるのであるが、道中の我が身にはできない。しかし、やはり、神に対しては、たとえ椎の葉であっても道具として使って差し上げたいという有馬皇子の心の動きに、感動を覚えます。このような心の動きが、ヒトの豊かな感性によってもたらされることに、大きな注意を払わなければならないでしょう。有馬皇子にとって椎の葉はハードとしての道具ではなくソフトとしての意味が非常に強い道具だったのです。

 原始宗教上の道具である石や木の存在が、人をして、宗教をより深くさせることに繋がり、そして、このことが更にヒトの能力を拡張するために生み出されるハードとしての道具に対し、“神”への反逆としての見方を古代の人達に与えたこともまた、ギリシャ神話によって明らかなことでしょう。

(iii) 火の使用について

 ローマ時代、シーザ父子に仕えた著名な建築家ウィトルーウィルスは火の使用そして言語の使用について

(1)火の使用は森林火事の燠の保護が始まりである
(2)火を保護するための協力作業の中で言語が誕生した

などと主張しています。(1)は現在の定説です[1]。
 人類500万年の歴史の中で、火の使用の始まりは150万年ぐらい前からと、推定されていますが、確たる証拠はないようです。
 火の使用が人であることの条件という主張は、火の使用以前の何百万年という時代を生きた人類は、人ではなかったのかという疑問につながるでしょう。火の使用が人としての条件にならないことは明白です。
 火の使用を“熱エネルギの利用”と定義すれば、ミツバチは天敵スズメバチを集団で襲って、熱(45℃)で焼き殺していますから、“火の使用は人のみ”という主張にも、100パーセント同意することは一般には期待されないでしょう。

 以上によって、言葉、道具、そして火の使用が必ずしも人の人たる所以にならないということが明らかでしょう。

参考文献
[1] 笠原正雄:『情報技術の人間学』,電子情報通信学会 (2007-02)
[2] クジラやイルカの知能,http://luna.pos.to/whale/jpn_zat_intel.html  
[3] 三重大学長のblog:“カラスに想いをはせる”学長通信「禿(とく)髭(ひん)学長の通信」2013年6月24日
[4] 正高信男:『0歳児がことばを獲得するとき』,中公新書,1995.


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