人の人たる所以(上)
人の人たる所以は
(i) 言葉を使うこと
(ii) 道具を使うこと
(iii) 火を使うこと
とされています。
しかし、動物行動学の書物を紐解いてみると、これらの条件を全て満たすのが人であるという主張は、十分な説得力がないように思われます。
これらの条件を持つ他の生き物として、
シャチ等は数十等単位のファミリー内で幾つかの言葉を使って互いにコミュニケーションを行っています。
チンパンジーは木や石を道具代わりに使います。
ミツバチはスズメバチを集団で襲い熱(45℃)で焼き殺しています。
従って三つの条件をすべて満たすのが人であると主張してみても十分な説得力はないように思われます。
私は、
“人の人たる所以は、人が外界に象徴的な存在、すなわちシンボルの存在を認めるところにある”
と考えています。
このことを印象的に示す例として、万葉集に次のような歌が載せられています。
この歌の作者は、“さざれし”(シンボル)が、もはや“君”(実体)と不可分な存在になったことを詠んでいます。
この歌に詠まれている君とさざれしの不可分の関係こそ、シンボルの本質そのものを示すと言えるでしょう。もともと“シンボル”は、ギリシャ語のシュンボロンに由来し、二つに切断された断片のぴったり重なり合う二つの存在を意味しています。
この歌の作者の手元に、仮に、千数百年がタイムスリップして、“君”そっくりさんのロボットが与えられた場合、作者は勿論、大きな喜びを得るでしょう。しかし、豊かな心性を育むという点においては、実体とシンボルの間には適切な距離が必要ではないでしょうか。
生き生きとした“君”のロボットが身近な所に存在するというような状況になると、作者の心理には微妙な変化がもたらされるのではないでしょうか。
この例に限らず、一般に、実体とシンボルとを隔てる適切な“差”が、人類の長い歴史の中で人の心性を発展させてきたと私は強く思います。
例えば、積み木を重ねて、これを自動車と見たり、あるいは家と見たりした幼児期の行動を誰もが記憶しているでしょうが、実はこんな行動が人の心に豊かな創造性をもたらす源泉であると思います。この意味で幼少期におけるスマホ、テレビ映像などの接しすぎには危険な要素が孕まれていることを考えねばならないでしょう。
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