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成長主義を見直すとき──『資本主義の次に来る世界』読書感想文

資本主義は成長を必然として求める。しかし成長には臨界点がある。

資本主義の定着により、成長率を「指標」とすることが常態化し、それを追い求めることが私たちの「自然」になった。
しかし、本当にそれで良いのか? 私たちは、破滅への道を歩んでいないか?

資本主義の成長志向システムは、人間のニーズを満たすのではなく、「満たさないようにする」ことが目的なのだ。

扉より

私たちは「脱成長」の思考回路を手にしなければならない、というのが本書のテーマ。



脱成長とは

ポスト成長経済では、その一部は効率の向上によって成し遂げられるだろう。しかし、必要性の低い生産形態を縮小することも不可欠だ。
これが「脱成長」と呼ばれる概念で、経済と生物界とのバランスを取り戻すために、安全・公正・公平な方法で、エネルギーと資源の過剰消費を計画的に削減することを意味する。脱成長の素晴らしい点は、経済を成長させないまま、貧困を終わらせ、人々をより幸福にし、すべての人に良い生活を保障できることだ。それこそが脱成長の核心である。
では、実際には、どうすればよいのだろう。実に簡単なことだ。現在の経済学では、必要であってもなくても経済の全部門は常に成長しなければならないという考え方が支配的だ。そのような経済運営は、良い時代にあっても非合理的であり、生態系が緊急事態に陥っている時代にあっては明らかに危険だ。
その考え方から脱却し、成長させるべき部門(クリーンエネルギー、公的医療、公共事業、環境再生型農業など)と、必要性が低いか、生態系を破壊しているので根本的に縮小すべき部門(化石燃料、プライベートジェット、武器、SUV車など)を見極めるべきだ。

はじめに 人新世と資本主義(p.37)


支配階級のためにつくられた資本主義

ヨーロッパにおける創成期の資本主義は「国外の植民地化」「国内の農村の囲い込み」による、人間を所有物として扱う考え方と共に「発達・成長」した。

同じ圧力は都布にもかかった。囲い込みで村を追われ、都市のスラムで暮らすようになった難民は、低賃金の仕事を引き受けるしかなかった。難民は多く、仕事は少なかったので、労働者間の競争は激しかった。労働コストは引き下げられ、熟練職人の暮らしを守っていたギルド制は崩壊した。労働者は仕事を奪われることを恐れて、物理的限界まで生産するようになった。通常、1日に16時間働いた。囲い込み以前の労働時間よりかなり長い。

第1章 資本主義──その血塗られた創造の物語(p.62)

さらに、この流れを後押しするために、教会・資本家ら支配階級はデカルトらが主張した「二元論」を利用したのだと著者はいう。
ここで二元論と対になるものとして語られるのがアニミズムの存在論だが、それは下記のような考え方である。

物事の本質はどこか幽玄な場所にではなく、その物の内にある。あらゆる存在は魂を持ち、同じ精神を共有する

アリストテレス

資本主義の考え方とは馴染まない思想であることがわかる。
なぜなら、何かを所有したり搾取したりするには、まず、その何をものと見なさなくてはならない。あらゆるものが生きていて精霊や主体性を内包する世界では、万物は権利を持つ存在と見なされ、所有および搾取は倫理的に許されないからだ。

1630年代以降、この考え方(デカルトの物質論)が有学を支配するようになった。わたしたちは、教会と科学は敵対していたと考えがちだが、実際には、科学革命の立役者たちは皆、信心深く、聖職者と同じ目的を持っていた。それは自然から精神を剥き取ることだ。
啓家運動の時代に二元論は史上初めて主流になった。二元論は共有地の囲い込みと私有化に許可を与え、土地は所有されるモノになった。そして今度は、その囲い込みが、二元論を支配的な考え方にした。

第1章 資本主義──その血塗られた創造の物語(p.76)

この考え方の浸透と共に、国内の農民たちは、植民地の先住民らと同様、所有物として扱われることが一般化していく。

支配階級は農民の祭りを苦々しく思い、彼らの「勝手気ままな行動と自由」を非難した。農民の生活様式は、資本を蓄積するために必要な労働とは両立しない。必要を満たすだけの労働では到底足りない。労働は生活のすべてになる必要があった。
囲い込みはこの問題をある程度解決し、農民は飢餓を恐れて互いと競いあうようになった。だか、それだけでは足りなかった。囲い込みの結果、ヨーロッパには「貧民」と「浮浪者」があふれた。土地を追われ仕事を失った人々や、新たに誕生した資本主義的な農場や工場の過酷な環境で働くことを拒否した人々だ。彼らは物乞いや行商をしたり、食物を盗んだりして生き延びた。
この状況はおよそ3世紀にわたって、ヨーロッパ諸国の政府を悩ませた。増える一方の下層階級が政治的脅威になるのでは、という支配階級の恐れを和らげるために、国は労働を強制する法律を導入し始めた。

第1章 資本主義──その血塗られた創造の物語(p.79)

そして、その状況が常態化するにつれ、所有物として支配される側にも「当たり前」として受け入れられていく。


成長主義の罪悪

そのようにつくられてきた資本主義は、いまや地球の規模の危機を招いていると著者はいう。

もっとも、わたしは成長そのものが悪いと言っているわけではない。成長ではなく、成長主義が問題なのだ。成長主義とは、人間の具体的な必要を満たすためでも社会的目標を達成するためでもなく、成長そのもののために、あるいは資本を蓄積するために、成長を追い求めることだ。
成長主義が地球に及ぼしてきた影響に比べると、囲い込みや植民地化の影響は霞んでくる。

第2章 ジャガノート(圧倒的破壊力)の台頭(p.106)

具体的にいうとアフリカで実際に起こっている次のようなことだ。

数年、立て続けに千ばつに襲われ、国内の家畜の70%が死に、農村は壊滅的な打撃を受け、数万の家族が難民になっている。
〜中略〜
(COP16で合意された産業革命後の気温上昇抑制の目安である)2℃が妥当な目標として認められたのは、単に気候変動をめぐる国際交渉において、アメリカなどの列強の代表が強く押したからだ。サウス、特にアフリカの代表者は断固として反対したが、無視された。
〜中略〜
スーダンのルムンバ・ディアビンは、「わたしたちは自殺協定へのサインを命じられた」と述べ、「欧米とは500年あまり交流してきたが、不幸なことに今なお、わたしたちは『消耗品」と見なされている」と続けた。「消耗品にして、安い自然」とも言えるだろう。

第2章 ジャガノート(圧倒的破壊力)の台頭(p.124)

やるべきことはわかっている。パリ協定では、各国が自国の温室効果ガス削減の計画を提出した。
しかし、その達成が難しいという結論は早々に見えていた。つまり、クリーンエネルギーへの迅速な転換や温室効果ガス排出量の削減には、経済成長(工業生産)のペースを積極的にスローダウンする必要がある。しかし、成長主義に囚われた資本主義のもとではそれは難しいと考えられるからだ。

著者はBECCSを削減の通常シナリオに組み込んだ各国の戦略を例に、資本主義である限り「成長から逃れられない」この世界のあり方に言及している。

温室効果ガス排出量の削減の方法として期待される「クリーンエネルギー」も、決してクリーンではない。

太陽光や風は確かにクリーンだが、それらを捕らえるためのインフラはそうではない。クリーンと呼ぶにはかけ離れている。クリーンエネルギーへの移行は莫大な量の金属と希土類を必要とし、それらの採取は生態系と社会にさらなる負荷をかける。

第3章 テクノロジーはわたしたちを救うか?(p.146)

つまり地球を危機から救うためには、温室効果ガスの削減に取り組む以前に、そもそも成長目標のためだけに利用されるエネルギーの削減が必要なのではないか、と。ごもっとも。


結局、私たちに何ができるのか

地球を破滅から救うには「脱成長」が必要である。
著者のこの主張は正しく、非常にわかりやすい。

さて、地球を守るという壮大な命題のために、私たちは何ができるのだろうか。

そもそも、というところで。
私は最近引っ越しをしたが、余計なものを増やさないというスタンスで生きているにも関わらず、数年使っていなくてこれを機に捨てようと思ったもの・買い換えようと思ってまだ使えるのに捨てたものの量にうんざりした。みんな同じようなことを思ったことがあるのではないかと思う。
でも、その生活をやめられない。より安いものを求め、短期間での買い替えを前提に物を購入し、広告に煽られて主観的に価値を感じたサービスに飛びつき、すべて飽きて捨てる。
こんなに資本主義に染まっていて、しかもそれを意識しないほどに自然に受け入れている人間が「脱成長すべし!」などと声高に言えるのだろうか。

本書の211ページに「大量消費を止める5つの非常ブレーキ」という章がある。挙げられる5つの方法は、下記の通り。

  1. 計画的陳腐化を終わらせる
    “売上を伸ばしたくてたまらない企業は、比較的短期間で故障して買い替えが必要になる製品を作ろうとする”

  2. 広告を減らす
    “バーネイズは心理を操作すれば、必要をはるかに超える消費を促すことができると指摘した”

  3. 所有権から使用権へ移行する
    “メーカーは誰もがガレージいっぱいに物を所有することを望んでいるが、その大半は容易に共有できる”

  4. 食品廃棄を終わらせる
    “理屈から言うと、食品廃棄を終わらせれば、現在必要とされている食料を確保しつつ、農業の規模を半分に減らすことができるのだ”

  5. 生態系を破壊する産業を縮小する
    “縮小を検討できる産業は多い。牛肉産業、軍事産業、プライベートジェット産業、使い捨てのプラスチック製品の製造、SUV車、マック・マンション……”

グローバル規模での脱炭素のお題目はそれを世界の潮流にする上でとても大事だが、やはりあまりに縁遠すぎて実感がわかない。けれど上記の、特に3〜4のようなことなら、私のような一般人にもできるのではないか。

まずは少しずつ少しずつ「捨てるのが嫌だな」「周りの人を犠牲にした仮初の豊かさは嫌だな」という自分の人間らしい気持ちに向き合って、「この買い物は無駄ではないか」「価格はやや高いけど質の良い製品を長く使おう」「他の人とシェアできないか」「リサイクルを活用できないか」と、日々の生活を改善していくしかないのかなと思う。

不平等さは人々に、自分が持っている物では足りないという気持ちを抱かせる。わたしたちは常により多くの物を求めるが、それは必要だからではなく、世間の人々に後れを取りたくないからだ。友人や隣人が多く持っていればいるほど、自分もうまくやっていると思いたいために、より多くを持ちたくなる。

第4章 良い人生に必要なものとは何か(p.186)

子どもたちを見ていると、私たちの世代以上に消費に慣れているなと思う。
「みんなが持っているから」「みんなと同じにしたい」
自分の欲望に正直な子どもたちだからこそ、その考えは行動に表れるのでわかりやすい。著者がいうように、要は周囲を取り巻く価値観がそうさせるのだろうと思う。

一方で、「他者とものをシェアすることがふつう」という感覚を後押しするサービスが一般化してきているなとも感じる。
例えば、中古市場を主戦場とするメルカリやブックオフは、企業利益と市場ニーズが噛み合ってサービスとしてしっかり成り立っているし。カーシェアやレンタルサービスなどの、使用頻度の低い物のシェアをサポートするサービスもどんどん増えている印象を受ける。

そういえば、外出先での打ち合わせの移動中に急に雨に降られた時、仕事のパートナーさん(20代男性)が、貸し傘をスマートに借りて現れていて、「そういう発想はなかったわ」ってなったことがある。
(その時のレンタル代は70円。ちなみに私は駅の売店で700円で購入。経済は回るが、お財布にも地球にも優しくない)

人と人との繋がりを感じられ、かつ利用者にとって利便性が高いシェアサービスがこれからの社会でもっともっと主流になっていけば、ひたすら消費を繰り返す生活を「かっこ悪い」とまではいかなくても「あまり気持ち良くない」という価値観や、ものを人とシェアすることを「かっこいい」とまではいかなくても「わるくない」という価値観が根付いていくのかもしれない。

そしてまだまだ私の周りには存在する「おさがり文化」なども、大切にしていって良いのではないかと思う。
長男は野球関連の道具やらユニフォームやら、長女や次女も服やらバッグやらを今まで大量に貰ってきたし、最近、うちも引っ越しにあたってセレモニースーツや制服を後輩に譲ったけど。
そういうところから生まれるご近所付き合いって「人と関わって生きる価値」を教えてくれる場だったりする。大袈裟でなく。

人から施してもらった分、自分ができることで返そう。

そういう気持ちで生きていけると、地球は少し長持ちするし、少し平和になるのではないかな。


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