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宗教に後押しされる社会の変化──『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』読書感想文


書籍データ

「プロテスタントの宗教的倫理観が、現代に通じる近代資本主義の精神を形づくった土台である」という論。
多数の文献から集めた根拠が本文中にも注釈にもこれでもかというほど書き連ねられており、ここまでまとめるのはめちゃくちゃ大変だっただろうな……と、単純に思う。

本書は下記のような著者の書きっぷりからも伺えるように、あくまで研究の途中経過なのだと受け止めている。

ところで、宗教改革が進められた文化的な時代の物質的な土台、ならびに社会的および政治的な組織形態、そしてその時代の精神的な内容は途方もなく錯綜した複雑な関係のうちにある。そこでわたしたちはまず、宗教的な信仰の特定の形式と職業倫理の間に、「選択的な神話関係」とでも呼べるものが存在するのかどうか、存在するとすればどこまでかかわっているのかを調べる必要がある。さらにこうした選択的な親和関係のもとで、宗教的な運動が物質的な文化の発展にどのように影響を与えたのか、そしてその影響の一般的な方向性はどのようなものであったのかも、できるだけ明らかにしたいと思っている。

この部分を明らかにするまでが、本書の役割である。

「資本主義の精神」は何から生まれた?

近代の資本主義の発展を支える経済活動の基本的な動機として、著者は「合理化のプロセス」を挙げている。

資本主義的な経済活動の特徴として、すべてのものを計数的な予測に基づいて合理化し、経済的な成果を実現することを目指して計画を立て、冷静に実行していく。

しかし、それだけでは近代資本主義を推進し定着させるための動機としては弱い。
人間の活動の後押しとなり、生活態度の変容にもっと大きな影響を与えるもの──それが宗教を土台とする倫理であり、そこに信仰がある限り、人々の生活だけでなく、その先にある経済活動にまで影響を及ぼすものであると著者は述べる。


「労働」に対する宗教的評価の変化

出来高賃金制を採用した場合、人間は自然、一定の給与さえ確保できれば「さらなる金」ではなく「その分の時間」をとる行動に出る。なので、資本主義においては賃金を引き下げ「一定の金を稼ぐまでの労働時間」をなるべく増やすという方法を採用するのがセオリーである。
しかし低賃金は長期的に見れば仕事の質の低下や不適者の選択につながる利益確保のためだけの施策となり、発展のための施策になるとは言い難い。

資本主義の発達には、労働者が責任感を持ち、かつ仕事をできるだけ効率化しながら同じ賃金を稼ぐにはどうしたら良いかを絶えず考え続けることが必要であり、仕事は与えられるものではなく「絶対的な自己目的━━天職(ベルーフ)であるという心構えのようなものが必要である。

これに貢献しているのが、宗教ではないか。というのが、著者の仮説である。

「天職」という思想は、宗教改革から生まれた。
それまでのカトリック的な教えによれば、労働は世俗的な日常の一部と考えられていたが、プロテスタンティズムはそれを「宗教的な意義のある道徳的な実践活動」として高い評価の対象に書き換えた。

カルバンらが主張した予定説においては、神に選ばれし者は既に決まっており「他者も、牧師も、神ですら助けてはくれない」。
多くの人間に「孤独」を与え、個人主義発生のきっかけとなったとも言われるこの説は、しかし人々にこのような考え方を植え付けたという。
「選ばれし者は顕在化しない。しかし、選ばれし者であることを示すためには善行(=利他的な労働)が不可欠である。みずからの救いは自分で作り出さなければならない」
━━ここに、プロテスタンティズムにおいて労働を「天職」として扱う論理が完成する。

資本主義的との親和性を備えた「禁欲」の思想

ピューリタンにとって労働とは、神が人間の生活の自己目的として定められた、すべての人に無条件に当てはまる「働かざるもの食うべからず」なものであり、労働の意欲に欠けているということは恩寵の地位が失われていることを示す兆候なのだという。

プロテスタンティズムの世俗内的な禁欲は、自分が所有するものをこだわらずに享受することに全力を挙げて反対し、消費を、とくに贅沢な消費を抑圧した。この禁欲はその反面で、財産を獲得することにたいする伝統主義的な倫理的な制約を、解き放つ心理的な効果を発揮したのである。利益の追求が合法的なものとされただけでなく、すでに述べてきたような意味で直接神が望まれるものとみなしたために、利益の追求を禁じていた〈枷〉が破壊されたのである。

つまり、この禁欲に代表されるプロテスタント的倫理観が、
実業家は形式的な正しささえ守っていれば、神の恩寵の内に利益を追求することができ、一方で労働者も選ばれし者であることを示すための善行として熱心に働くという資本主義発展のための土台を形づくったのだと著者はいう。

所感とまとめ

資本主義初期──現代と比較して宗教が人々の精神の中に深く根付いていた時代において、社会の変化は宗教の後押しがなければ成り立たなかったという論はとても頷ける。

ここからは完全に私見になるが、
時代が変化する際に、革新者たち(今回の場合は資本主義を中心的に推し進めた都市市民)が宗教に求めたのは、変化すること自体への「許可」と、変化に際して生じる可能性のある秩序の乱れを堰き止めるための「律」ではないかと思う。

そして、その矢印はウェーバーの言うように「宗教的倫理観の変化→社会の資本主義化」という一方向の流れではなく、「宗教的倫理観の変化←→社会の資本主義化」というように双方向に影響しあって成ったという論の方が、より頷けるなと思った。
社会の変化に応じてプロテスタントの教義の細かい解釈が変化し、解釈が変化することで社会の変化を加速するより一層の後押しとなっていったという流れの方が、人間が営むこの世の事象としてより自然に感じられるような気がするのだ。
(今時点で私は全くこの根拠部分が挙げられないので、特にプロテスタントの誕生と変遷について勉強しなければ)

この記事の冒頭でも書いたように、この研究はあくまで途中経過なのだと思う。著者も本書をこのように締めている。

この論文では、禁欲的なプロテスタンティズムがもたらした影響の事実とその方法について、その動機にさかのぼって調べようとしたのである。これからは、プロテスタンティズム的な禁欲が反対に、その生成プロセスにおいてもその固有なありかたにおいても、社会的な文化条件の相対によって、特に経済的な条件によって、大きな影響をうけていることを明らかにする必要があるだろう。

……やはりウェーバーさんも、この調査・研究の次の視点として、逆向きの矢印が気になっていたのではないだろうか。


[MEMO]
本書に引かれる『失楽園』の最終段を読んで、すっと腑に落ちるものがあり「今なら理解できるかも」と思った。今度読もう。

読みたいリスト↓

  • 失楽園|ミルトン

  • 資本論|マルクス

  • キリスト教綱要|ジャン・カルヴァン

  • キリスト教生活指針|リチャード・バクスター

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