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現実に大団円はない──『阿Q正伝』読書感想文

魯迅という人

以前にこの本を読んで走り書きしていた感想を初めに。

中国における魯迅の影響力がここまでだとはまったく知らなかった(無知すぎる)。
魯迅は確かに国民党に対し反体制の姿勢をとっていたが、それは当時の政権に対する文学・思想弾圧に対する純粋な反抗であった(まだ浅学ながらそのように私には見える)。しかしそのような生前の活動があったことにより、毛沢東によって中国共産党イデオロギーの象徴としてその存在・作品が「都合の良いようにまつりあげられてしまった」感が否めない。
魯迅が55歳で病没したのは1936年。毛沢東はその頃から徐々に中国において確かな権力への道筋を辿りはじめる。
もしあと20年、30年魯迅が長生きしていたら。その後に生み出す作品の傾向も、彼の中国での扱われ方も、違うものになっていたのだろうと思う。
『狂人日記』と『阿Q正伝』ぜひ読みたいと思う。

自分の読書メモより

で、今回読んだのがこれ。

作品の感想

魯迅の描く人物は、性別、身分、性格など作品ごとに属性がばらばらだ。語り口もそれぞれの主張に合わせて変化させているのか、かなり違う。
登場人物はみな──狂人も、愚か者も、子どもを愛する無知な母親も、自分の正義を疑わない金持ちも、言い訳ばかりの教師も──それぞれに明確なモデルがいるんだろうなと思わせるほど内面描写がリアル。

そして、魯迅の文章はシニカルでどこか厭世的なのに、人のそばにいることをやめない優しい人のものだと感じさせる。
今回の読書は『野草』に次いで2冊目だが、私はとても好きな作家だ。

魯迅の作品は革命の時代を反映した主張に溢れていて、
タイトルの『阿Q正伝』の本来の意味は、当時の中国人でないと理解できないと思う。

私にわかるのはせいぜい、
無学で向上心がなく虚栄心ばかり強い阿Qの、落ちこぼれることが決まりきったような人生の悲哀。

「実」を知ろうともせずに妄言飛語に惑わされる周囲の人。
そこに生まれ付いたら変えようのない絶対的な身分の差異。
這い上がるための手段は罪を犯す以外の選択肢が用意されておらず、
罪を犯した自覚すらない阿Qと、
上塗りするようになすりつけられる罪と、
静かだが容赦なく刑を決める酷薄な役人。
名もなき罪人の死に向けられる世間の言葉のあまりの軽さ。

ハッピーエンドは想像できない救いのないシチュエーションばかり。

本当にこういう時代だったのか。
本当にこういう時代だったのだろうと思う。

ああダメだ、これでは革命など夢のまた夢。という嘆息と、
いや、きっと未来への道はある。という人を信じたい心。

中国に対する愛と憎しみ。作品から魯迅の心の揺れ動きが見えるようだ。


同じ本に収録される、辛亥革命後にある学校で起こった頭髪に関する事件(辮髪を切り落とした学生が退学などの処分を受けた)を書いた『髪の話』の下記のセリフも当時を生きる人のリアルな心境を感じる。
革命期にあっても「飛び火を避け当たり障りなく過ごしたい」というのが大半の人の正直な心中なんだろう。

いまきみたち理想主義者のあいだで、女も髪を切れとか何とか騒いでいるが、一文の得にもならずに苦しむだけの人間をたくさん作り出すんじゃないかね。
髪を切ったために入学できなかったり、学校から除籍された女がげんにいるじゃないか。
革命は結構だが、武器がどこにある? 働きながら学ぶ主張は良いとして、工場がどこにある?
やはり髪を切らずにいて、嫁入り先を考えるんだな。すべてを忘れるのが幸福なんだよ。自由とか平等とか、そんな言葉をおぼえさせると、一生苦しみの種だ。


他に、幼少の頃に身分の差を超えて結んだ友情が時を経て儚くも崩れる『故郷』もとても良かった。
ラストのフレーズがすごく良い……

思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる。


#読書感想文
#魯迅

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