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マイノリティ・価値観と交流の難しさ

昨日自分と似た悩みを共有できる人と会って、私の中でもやもやしてたものについて、
「ああ、他の人でもそういうことあったんだな」という知見を得られた。

自分の在り方、表現の仕方、内面的な感覚と、世間一般的に当然のこととされていることとの大きなズレ。
100%「悪い性格」や「ひねくれた在り方」のように解釈されることも多いと感じているし(これは親のせい。そして私がぼっちすぎたせい。さらにいえばやっぱりそういう人たちに触れすぎたせい。もはや自分の中で拡大解釈されている恐れすらある。)

そうでなくても、こちらの真剣な悩みに対してちょっと軽々しいなと思ってしまう扱いを受けることにどうしていいかわかならいこともある。
何と言ったらいいのか。相手は励ましのつもり、でも、それを聞いた私からすると、「この人「人」っていうもののことを一体何だと思ってるんだろう。エンタメか何かかしら」みたいに批判の気持ちを持ってしまうような。

いや、ふつうに言うとかなんとかすればいいんだと思う。
そういうものを無遠慮に言って、それで、結果互いに酷いものを投げ合う様ばかりを見すぎているので私にはとてもできないんだけど。
となるともう極端な話人間をやめるしかない。さもなくばフラッシュバック地獄だ。
大脳での情報統合なんか簡単だ。問題はそちらではなく、海馬と偏桃体のほう。
生命の危機や活動の危機から生命というのは逃れたいものだ。
それは私の意思とは関係がない。

ことさら人と人との感覚や考え方、持っている知識の交流というのは難しいものだと思う。発信したメッセージが違う形に翻訳されて、それがまったく修正することができずに、よくないものとして受け取られ続けてしまう様。
それが相互に起これば最悪。
そこに殊更固執してはいけないんだと思う。
マーケティング一つ取ったって、ターゲット層はその関心や購買意欲の濃淡で分けることができる。

何の話だっけ、そう。
全体的に生きづらい、感覚の共有がしづらいと否応にも感じてしまうのを、共有できる人間というのは得難く、幸福なものであると。
簡単にものを言える力のある人たちを、眼前で自分と同じ姿をした別種を相手に戦える人たちというのを無視して、
私には私のロールモデルが必要だと、頑なにそう思う必要があるらしい。
今の理想を語るなら、
世界のすべてと、生き物たちというものと、そして人間の活動のその広がりや変遷、近況というのを私は知って、そうしてずっと戦っている人々に、私は報せたいようなのである。

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