愛をとりもどせ!――神から人へ、愛の物語『ミルチ』

〈Spoiler alert!ネタバレ注意!〉
本稿には《ミルチ》、《バーフバリ》シリーズ、《RRR》、《K.G.F》シリーズの本編に関わる内容が含まれていますので、予めご注意をお願いいたします。


愛をとりもどせ!――神から人へ、愛の物語『ミルチ』

 遅刻しそうになって食パンをくわえて走れば道の角で転校生にぶつかり、汚職にまみれた悪しき地方政治権力は印籠を以て屈服せしめられ、ヒーローの変身の間にはどんなヒールも攻撃しない。トラックに轢かれれば異世界に転生し、ポーションと名のつくものは体を癒やす。創作物には「お約束」がある。王道と言い換えることもできる。それを守るのもいい、あえて破るのもいい。そこが創作者の腕の見せ所であろうが、守るにも破るにもその前提となるお約束が創作者と観客で共有されていなくてはならない。お約束と呼ばれるアイディアは説明されずとも既に自明であり、あえて創作の冒頭で語られることも説明されることもない。それぞれの根幹にある文化に深く根付いた不文律である。
 ゆえに、新たな文化圏の作品を深く理解する上でその文化圏の自明なアイディアの理解は不可欠である。あるいはその逆で、そのアイディアを知ることによってその文化の一端を知ることもできよう。異なる文化圏では首を傾げるほかないはずの文脈にうなずくことができたとき、私たちは愛する作品の当事者になれるのである。その無上の喜びはまたひとつ深く作品を愛せた証明のようで誇らしく、さらに我々の知識欲を駆り立てる。言外の文脈を深く知る喜びのため、新たな言語を学ぶ人もいるだろう。神話を学ぶ人もいるだろう。食べたことのない料理を食べに出かける人もいるだろう。歴史を学ぶ人もいるだろう。その土地を訪れることもあるだろう。そうして文化の理解が広がることを思えば、創作物のもつ力は良きにつけ悪しきにつけ計り知れないものだ。
 筆者は2023年4月にとある作品を通じてインド映画に初めて触れた。骨太の物語と異文化の洪水はとめどない知識欲を湧き上がらせ、それは日常生活のスタイルと本棚の一角を大きく変えてしまうものだった。カレー?ダンス?サリー?カースト?近くて遠い、知っているようで何も知らないインド。登場人物たちのことをもっと知りたい。深く知りたい。彼らの心を、信念を、生活を、歴史を。心のおもむくままに知識欲を満たしているうちに、特に南インド映画と呼称されるジャンルの虜になった。知識まっさらな人間が10本以上一気にインド映画に触れた結果見出した王道・お約束とはなにか。言うまでもない華麗なダンスに、これまた言うまでもない神話・宗教的な世界観・価値観。そして強い家父長制を背景にする親と子の結ぶ約束の重さと、復讐劇。ダンスは言わずもがなとして、これらの要素をひとつひとつ検討していきたい。
 南インド映画はインド人口のおよそ8割を占めるヒンドゥー教そのもの、ヒンドゥー教的価値観や習慣が暗黙の下敷きとなっているものが多いようだ。あらゆる強く正しき主人公たちがインドで人気の神であるヴィシュヌ神やシヴァ神を彷彿とさせる描写には枚挙にいとまがない。《RRR》のアッルーリ・シータラーマ・ラージュはラーマ王子の超常的な力と矢の尽きない矢筒を以て神性を体現し、《ヤマドンガ》も舞台からして直接的だ。藤村シシン(2018)は『ユリイカ』での対談で《バーフバリ》シリーズを「古代では歌と数本の弦のみで語られていたシーンを、映像と音楽とアイデアによって、現代のわれわれが表現するとこうなるんですよとアップデートしている。」[1]「神話や叙事詩をいま映画という新しい竪琴で語り直している」[2](筆者要約)と評している。特にS.S.ラージャマウリ監督の作品はその点の魅力において大きな評価を得ているといえる。
 「親との約束」は、物語において強い動機づけとなっており、重要な役割を担う。それは主人公たちに迷いが生じたときの道標であり、あるいは彼らの使命からの逃避を許さない重い呪いとも言えよう。《RRR》のラーマは英国の苛烈な支配に反抗するゲリラを率いる父と今際の際に結んだ約束を胸に、使命を果たすべく心を押し殺して親友を捕らえに立ち上がる。《K.G.F》シリーズでは貧しく女手一つで息子を育てる母親がラジャ少年、後のロッキーに「どんな風に生きてもいい。でも、死ぬときは王でありなさい」と言い聞かせる。ラーマは父の遺言など聞かずに警察などやめてシータと二人で穏やかに暮らせなかったのか?ロッキーは王でなくなったとしても《K.G.F CHAPTER2》のラストのような行動はとらなくてもいいのではないか?しかしそれは不可能な選択肢だ。彼らには生き方の指針としてきた「親との約束」という呪いがあるからだ。
 「復讐」もまたどこの文化圏でも物語の骨子になる要素だ。さるかに合戦、ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』、古今東西ありとあらゆる作品の強い動機となる。南インド映画もまた復讐が題材となるものが多い。北村匠平(2018)は「テルグ語映画は基本的に村落部の教育レベルがそれほど高くない観客に向けて製作されるため、物語はシンプルでメロドラマ性が顕著、復讐系のバイオレンスが好まれる傾向にあり、悪役との暴力シーンも多く描かれている。」[3]と評している。《バーフバリ》シリーズもまた復讐がそれぞれの登場人物にとって強い動機だ。バラーラデーヴァにとっては母の愛、国民の愛、ひとときは王座をも奪われた従弟であるアマレンドラ・バーフバリへの復讐(あるいは、圧政はアマレンドラを選んだ国民への復讐とも言えるかもしれない)、デーヴァセーナは最愛の夫を奪われ尊厳を踏みにじられた25年間の復讐を炎に灯しながらその歩みを止めず、クンタラ王国の面々にとっては国を奪われ美姫を虜囚とされた屈辱への復讐、各々が各々の復讐のために躍動し物語と運命の歯車を回していく。
 ここでやっと、《ミルチ》の話をしよう。《ミルチ》は2013年の映画で、2015年の《バーフバリ》よりも少し遡る作品だ。しかしキャストは《バーフバリ》シリーズのファンの心を揺さぶる面々で、強い縁を感じずにはいられない。我らが王プラバースはミラノでショルダーキーボードをひっさげ、スッバラージュが怖い怖いお兄さんを演じ、アヌシュカ・シェッティはおてんばなお嬢さんとして闊達に微笑む。知らぬのですか?と姑シヴァガミを煽ったあの顔はどこへやら、ここでは姑との関係は至極良好だ。サティヤラージが父としてプラバースを寝かしつけるシーンなどはそれだけで涙なしに見られなかった。ついでにセートゥパティ役のケーシュ・ヴァーレは街中で女性に絡む不良役だが、幸いにして指も首も無事である。さらに言えば《RRR》ファンからするとN・T・ラーマ・ラオ・ジュニア主演《ヤマドンガ》で記録神チトラグプタ役を演じたブラフマーナンダムが本作でもコメディリリーフとして出演していることも心憎い。
 さて、《ミルチ》は神話的で、親が子に呪いをかける復讐劇だろうか?《ミルチ》は、これらのお約束の一部をあえて破ることによってファンの心を鷲掴みにしてくれる、美しき人間讃歌であると強く訴えたい。
 《ミルチ》ではプラバース扮するジャイは人間離れした肉弾戦の強さを誇る。その姿はまさしく神の御業である。いわゆるファクション映画よろしく血なまぐさい抗争のなか、妻子と離れその歯止め役として身を投じる父と再会したジャイは、父と村を守るべくその無類の強さを存分に振るった。初めこそその様子は隠されていたものの、「男らしい」暴力を禁じられ力を持て余していた父の周囲の男たちは息子の強さ、「男らしさ」にカリスマを感じてすらいた。しかしジャイはその力を振るう暴力と怨嗟の渦の中で、最愛の母を喪うことになる。ここでサティヤラージ扮するジャイの父親であるデーヴァは復讐を望まない。生まれなければよかったという強い言葉を使ってまでジャイを非難し、男たちには復讐を禁じ、やっと再会できた最愛の息子を村から放逐するのである。デーヴァは、妻は暴力の恐怖によって村を去ったのにも関わらずお前が村に再びもたらした恐怖によってこの世を去ったのだと息子を断じた。たとえ自分が死んでも村には戻るなと言い捨てて。これはここまで見てきた「王道」からすれば衝撃的な差配である。神の力を以て邪悪なる敵に正義を執行し、復讐を成し遂げて爽快なハッピーエンドではないのか?暴力を執行し敵を薙ぎ倒すジャイと、村の男たち、また彼らの反撃に爽快感を感じる視聴者をも含めて、デーヴァは「けだもの」と称し一刀両断する。なぜ?どうして暴力に気持ち良くなってはいけないのだ?敵を屠れ。復讐せよ。やられっぱなしでいいのかカッタッパ?正当なる復讐のための暴力が許されないことにジャイも男たちも、そして私たちもやり場のない復讐心を片手に立ち尽くすほかない。
 《ミルチ》の物語はミラノに始まりインドに戻り過去に戻り現在に戻るが、父デーヴァに非難され婚約者とも離れ、帰る場所には母もいない、絶望の底にあったであろうジャイの姿は描かれていない。彼がその後に成し遂げる愛に満ちた策謀こそが《ミルチ》なのだ。冒頭を思い出してみればミラノでマナサを不良から守るジャイは、指一本の暴力も振るわない。人間離れした暴力性を徹底して封印し、ジャイは人として友愛を語る。彼はここから一貫して暴力的な神性を封印して「人」になるのである。ヒンドゥー教のなかでも、神が神のままでは解決できない事態は起こりうる。神にも人にも殺せぬアスラのヒラニヤカシプを打倒するため、人獅子ナラシンハはヴィシュヌのアヴァターラ(化身)としてヒラニヤカシプを圧倒する。神にも人にも解決できない問題がそこにあるならば、それは強き人獅子が解決するのだ。
 ジャイは父の身を守る場面を除けば徹底して暴力性を封印し、父デーヴァの仇敵であるはずのマナサの家族たちに友愛と人の道を語ることで打ち解けていく。マナサたち一家もまた、女たちが怯えて窮屈に暮らし、村人も大切な家族が命を落とす恐怖に震えるただの人間であることが丁寧に描かれる。そこには討ち滅ぼすべき絶対悪などいない。それぞれのファクションの正義が相対化されていく。絶対的な正義と絶対的な悪などあるのだろうか?我々視聴者の価値観もまた揺らいでいく。ジャイとマナサ一家との絆はすっかり強まりいよいよマナサとの結婚話が持ち上がったとき、ジャイは自身の正体を打ち明ける。最後まで暴力を手放そうとしない宿敵ウマとぶつかり合うジャイはすべて語る。なぜかタイミングよくジャイの影に気付き現場に現れるデーヴァたちはご愛嬌だ。ウマに一方的に嬲られながらも手を出さなかったジャイは、彼が父デーヴァへの危害をほのめかしたときに暴力を解禁してウマを圧倒する。そして叫ぶ、「俺が以前の俺に戻ったなら10分で全員始末できる。あんたたちが母さんを殺したんだ。でも、俺はこの家に来てから愛をもってあんたたちに接してきた。あんたのせいで父さんと離れ離れになったのに、あんたのせいで愛を失ったのに、俺は!なぁ、どのぐらいだ?どんなに長い間みんながあんたのせいで泣いてきたんだ?復讐をこらえて、俺は平和のために父の村を去った。そんな俺をあんたはまだ殺したいのか? 俺がこの剣を使ったらこの場にいる誰より『上手い』だろうな。でも最後には剣しか残らないんだ、誰ひとり残らない。もし手を取ることができたらどうだ?愛したら、何を失う?愛をもって手を取るなら、ただ愛をもってその手を握り返されるだけだ」(拙訳)。愛する母を喪い、父との愛を失ったジャイが暴力を捨てて最後に取り戻したのはまた、愛だったのだ。神性を捨て、不確かな愛なるものに寄り添う人の形の美しさを私たちはこの作品を通じて味わうことができるのである。圧倒的な神もいいが、人間は、人の愛はもっと美しい。神々しい王であるバーフバリ父子を演じるプラバースも魅力的だが、愛を語り慟哭する人の子ジャイのプラバースもまた、どうしようもなく魅力的だ。
 末筆に言い訳がましくて恐縮ではあるが、筆者は冒頭に記した通り2023年4月に初めてインド映画を鑑賞し、本稿を2023年8月に書き著している。お気付きの方もおられるだろうが「ご存知」になって沼に落ちた類の人間だ。つとめてお行儀が良いふりをして記したつもりではあるが、本稿は単なる新規の悲鳴であり、インド映画愛好家の先輩読者諸兄におかれては、本稿の浅薄な理解や誤り、偏りのある引用について、ミルチ――唐辛子抜きでご笑覧いただければ幸いである。

●引用:
1.『 ユリイカ』(青土社、2018)、121p
2.同書、121-122p
3.同書、170p

●参考:
※天竺奇譚先生のご著書、本当にわかりやすくて勉強させていただいています。


天竺奇譚『いちばんわかりやすいインド神話』(実業之日本社、2019)

天竺奇譚「インド映画『RRR』予習&復習のためのインドの歴史とインド神話、時代背景などをまとめてみた(ネタバレなし)」

(参照 2023-08-22)

天竺奇譚「インド映画『RRR』を観て気付いたところをまとめてみたメモ。(ネタバレあり)」https://note.com/tenjikukitan/n/n3713173f021f?magazine_key=m54c0ea9b56fc

(参照 2023-08-22)




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