論67.声は鍛えられるのか~強化とバランス

〇歌とヴォイストレーニング
 
筋力が足らなくて結果を出せない人が筋力をつけたらよくなります。しかし、歌を聞いたことがなく、歌ったことのない人が、発声を中心としたヴォイストレーニングをしてみても、歌には大して効果はないでしょう。
喉の手術やマッサージだけをして、オペラ歌手やミュージカル歌手になれると考えたら、おかしなことです。
そこは、具体的にヴォイストレーニングとして、どういうことをするのかによります。
 
 
〇筋トレとヴォイトレ
 
圧倒的な心身をもつ、つまり筋トレなどで鍛え抜いているアーティストたちがいます。すると、スポーツのように筋肉を鍛えたら歌が上手くなると思う人もでるでしょう。確かにスポーツやダンスは、筋肉がないことには勝負になりません。
しかし、歌い手のなかでは、皆が皆、アスリート並みの筋肉をもっているわけではありません。病弱な人や持病を抱えて歌い続けている人もいます。
そのときだけの身体能力で実力の試されるアスリートやダンサーと違って、歌の場合は、過去の業績や名声によって支えられるので、なかなか比較しにくいともいえます。
 
 
〇個別に考える
 
世の中に出るときには、人並み以上の集中力や体力というのは、あった方がよいのは確かです。その上で、それがない人もいるし、体力や筋力が劣っているから不可能だと考えることはありません。
実際にステージや歌唱において、かなり体調が悪く、あるいは死期も迫るなかで、それを感じさせずに完璧なステージをこなした人もいます。
ただ、それも一夜にしてできたものではありません。
これからという場合、それを維持する場合、キャリアとしてすでにテクニカルに習得している場合は、分けて考えねばなりません。その完成度、また演出によるサポートなどケースによっても大きく違います。
 
 
〇アスリートと声
 
声も、体を楽器として使うものである以上、相当に身体能力そのものと結びつきが深いのですが、アートという表現からは、区別して考えるところもあるでしょう。
アスリートの場合、体から声を出すことは案外とマスターできているものです。いろんな理由があります。競技そのものに声を使う場合もあるし、試合や練習中に声を出します。スポーツは、肉体的な作業であるので声は欠かせません。大抵は、普通の人よりもずっと大きな声をたくさん使うことになります。
これは、当然のことながら、体の筋肉だけではなく、喉の筋肉も呼吸の筋肉も鍛えるわけです。メンタルも強く集中力もつきます。
 
 
〇鍛えたら声が変わるのか
 
日本人の場合、一般的には、日本語という言語の性格や、それを使う生活環境もあって、海外の人ほどお腹から強い息は声を出すことは少ないです。地域差や個人差がとても大きいです。
確かに心身を鍛えたら有利になることは確かでしょう。しかし、それも、これまで鍛えていたのか、これからどう鍛えるのかによっても違います。
ヴォイトレや声楽で、呼吸法などを勉強するよりも、スポーツをする方が早くより強く習得できると考えられる場合もあります。目的と現状がどの程度かにもよります。
 
 
〇総合的なトレーニング
 
すべてのトレーニングは総合的に関連するものです。ある分野でのトレーニングよりも、より研究も進んで実績のあるような分野でのトレーニングを取り入れた方が効果が上がるのは確かでしょう。
素質に恵まれて何もせずにトップクラスになった選手のいるようなマイナーな競技では、そのままでは次代の人たちを育てられないことになりやすいものです。
 
 
〇海外のメソッド
 
欧米などで脱力やリラックスといったもの、メンタルタフネスに関するものなど、いろんなノウハウが日本に入ってきました。アレクサンダー・テクニックなどもその一つです。海外から様々な身体技法メソッドが入ってきたのです。
しかし、野口体操など、あるいは日本の古武道からの流れの中でみると、それらは日本人が編み出したものほどの精密さと実績をもつほどのものは少ないのです。少なくとも、日本人にとっては。
 
 
〇舶来品好きの日本人
 
私たちには当たり前だったようなことが、改めて向こうの方からそうしたノウハウとして示されると私は複雑な思いをするのです。それをノウハウとして、先生になるというような人たちが、プロデュースして、日本人に教えます。
日本なら5千円で得られるようなノウハウを5万円、10万円で売るのです。
海外に習いに行く人たちにも、そういうことがいえます。
その場合の多くは、権威筋の名前にお金を払っているのです。そこで習ったとか、勉強したとか、卒業したとかをプロフィルに入れるためです。
他の分野はともかく、ヴォイトレでは、その人の出す声を聞いてみたら、よいでしょう。本場の先生や指導者のレベルとは全く比べ物にならないことがわかります。
それがわからない人が学びに行くのですから、それは、それでよいのかもしれません。
 日本の伝統芸や和食などを3日や1週間、外国人に教えて免状をとらせるようなことと思えばよいのです。
大半は、国際友好とビジネスに過ぎないのです。
 
 
〇レベル、質の問題
 
こういったことに踏み込むと、日本のクラシックや声楽、ミュージカル、劇団、その他、音楽関係のスクール、コーラスなどに対して、また、邦楽だけでなく日本の伝統芸能に受け継がれてきた家元制度についても否定的な見解となりかねませんので、やめておきます。
それぞれに成り立ってきた理由と支えられている意味があるから続いているのですから、それについては、また長い歴史のなかでの判断に委ねるしかありません。
何も天才たちだけが世界をつくり、動かしていくわけではないのですから、そういうなかで切磋琢磨して、場をつなげていくことも必要です。
ただし、日本で結果が出ないこと、一流の人材が育たないことについて、考えさせられることはたくさんあります。
そこは人数が多いとか組織が大きいとか長年続いているとかいうことではなく、真摯に反省し、本質的なところでの改善を続けていかなければいけないと思います。
 
 
〇身体を鍛えれば鍛えるほど、声が出てくるのか
 
体が弱い人は、身体を鍛えれば、ある程度、声は出てくると思われます。しかし、あるところからは、それは相関していかないでしょう。また、どんな声でも出ればよいということではないでしょう。
 
むしろ、歌やせりふの声などに支障が出たときに、体がそうでなかったときよりも弱っていることは、第一に考えられることです。あまり運動しなかったり、声を出していなかったり、歳をとって老化してきたり、声はそういうことと結びついているからです。
 
ですから、常に生活習慣をチェックして、理想的な心身状態を保つことがとても重要です。声は、不規則な生活、食事での腸内環境の悪化、精神的たるみ、運動不足、過労や冷え、ストレス、過度の緊張などにストレートに大きく影響されるからです。
 
 
〇「喉が閉まる」ということ
 
発声で喉が閉まるのは、生理学的にいうなら、舌根が上がったり軟口蓋が上がってなかったり、口の中、特に、奥が狭いような状況でしょうか。
本来は、発声のときに喉が詰まっていない、喉で声を出しているような感覚でないことに対して、それを妨げているような不快で安定しない、その後の声の状態が悪くなるようなことを予感させるような感覚を指すのです。
 
このことと、「喉で力づくで声を出す」ということが、声を鍛えるというときに、混同されていることがとても多いのです。しかし、全く別次元の問題です。
 
あなた自身がそれを理解したいなら、日常の生活のなかで、喉で声を出していないというような状況を思い出してください。大声で腹の底から笑っているときに、喉が開いていて大きな声が魅力的に響いているような状態です。
 
 
〇理想的なヴォイトレ
 
スポーツなどをやって適度に体がほぐれ、心がリラックスしているときに、声を出してみたら、とても自然にうまく響いたときなどが近いでしょう。
その状態で、声を自在にコントロールできたり、何時間使っていても喉が疲れたり、声が詰まるような異常が起きないというふうに感じられる状態です。理想的なヴォイストレーニングは、ほぼ全てそういう状態の声を使って行われていると思ってください。
つまり、10中8、9は、そういう声で行われていないのです。
その声というのも声楽の裏声やコーラスの声というふうにイメージされると違うところがあります。
しかし、理想的に出されている声では、その分野も含めて、今述べたような条件は叶えられていると思われます。
逆に、生理学的条件が全て伴っている声がベストとは限りません。個人的な差が非常にあります。求められる音色や声量によっても大きく異なるわけです。
 
 
〇ハスキーな声について
 
風邪をひいた声は、ハスキーな声とは違います。不安定で耐久性を欠くからです。ハスキーな声というのは、避けられたら避けた方がよいのですが、それが魅力であったり、そこが最も価値があるとか、高い能力を発揮できるという人もいます。
声を演奏上の音の素材として考えるのであれば、ハスキーかどうかよりも、それをどのぐらいコントロールして使えるかということの方が問われるのです。
ただ一般的に、共鳴や声域、声量に対して不利という条件があるために、ヴォイトレで意図的に目指す目標とすることは、よくないでしょう。
 
 
〇普段から低い声で話すと
 
普段から高い声で話すと高い声が出やすく、低い声で話すと低い声が出やすくなると思います。ただ、その低い声自体がとても不自然で違和感を与えるようであれば、日常のコミュニケーションには、あまり向いていないでしょう。
また、無理して低く出すのでは、喉が疲れたり、鍛えられるよりは固まってしまうようなことが考えられます。試みとしては、いろんなことをやってみてもよいと思いますが、日常的に使うよりは、トレーニングの時間で区切って、低音強化の練習で行うことにとどめましょう。
 
 
〇腹筋のトレーニング
 
腹筋トレーニングや腹式呼吸法のトレーニングを否定する人が、トレーナーに増えたように思います。安易にそういうものに頼りすぎたために、バランスを崩しているよう状態をよく見るからでしょう。
腹筋を鍛えたり呼吸法をマスターしないと声が出ないとか、歌が上手くならないと思い込んでいるために、ふしぜんになっている人たちもいるからでしょう。
しかし、あなたにとって、必要だと思えば、すればいいと思います。
必ずしも誰もが必要とするメニュということではありません。しかし、一般的にしない方がよいというようなことでは、ないのです。ふしぜんを自覚して、トレーニングとして行ったあと、切り替えることです。疲れた腹筋や習得の中途半端な呼吸法で歌唱するのは、無理だからです。
 
 
〇トレーナーのアドバイスへの対処
 
トレーナーは、あなたの状況を見て、今めざすべき目的を邪魔していることが起こっているようなときには、アドバイスをするでしょう。
トレーナーは、いろんなものを勉強しているので、そこでやってはいけないようなことを考え、教えるときに、それを優先しすぎる傾向があります。つまり、表面上を整えるためにトータルバランス重視にアドバイスがなりがちなのです。
それは、受ける人がそういう知識を欲しがっている、新しいアドバイスに対して、教えられている実感と効果の上がったような実感を求めるからです。
ですから、栄養から体の管理、姿勢、やっていいこと悪いことといろんな情報を与えてくれるのです。
本当にしっかりと活動していくのであれば、そうしたアドバイスなどを無視しても成り立つくらいのタフさや、強靭さが必要なわけです。そこが理屈と実践の世界の違うところです。
 
 
〇理屈と実践☆
 
「これは声に悪いから飲まないほうがいいよ」と言われ、ウーロン茶を飲んだために、うまくいかないのであれば、それを飲もうが飲むまいが、うまくいきません。
「こののど飴で声がうまく出るよ」と言われて、そののど飴に頼るような人は、うまくいったところで、大した実績に結びつかないでしょう。
つまり、正しい診断とか、正しいメニュとか、正しいトレーニングなどが、客観的なものとしてあるわけではないのです。すべてはサンプルで、それをあなた個人が、どう取り入れていくのかです。
そこについて、必要であれば、トレーナーのアドバイスをうまく活かしていくとよいということです。
 
 
〇過保護になりがちのアドバイス☆
 
ですから、トレーナーのアドバイスも全てを真に受ける必要はありません。そういう考え方があると思って、それを参考に、自分で実践して判断していけばいいのです。
私の場合は、いろんな人を扱っているので、たとえば、姿勢が悪くならないために、「カバンを片側の肩にかけず交互に掛けたり、背負ったほうがいい」というようなアドバイスも学んでいます。
しかし、もし片側だけにカバンを持って、そのために体が歪むような体しかないのであれば、大した活動はできないと思います。ですから、フィットネスジムをおすすめします。
 
 トレーナーがアドバイスすることで自分がより自由に楽になるならよいのですが、「○○はだめ」のように、不自由にきつくなるのなら、よくないと思っています。トレーナーは、アーティストをより自由に動けるように力をつけさせるのですから。
 
 
〇全ては、バランスなのか
 
確かにステージや作品ということであれば、バランスというのは最低限、整えておかなくてはならないことです。しかしバランスがよいだけのものに魅力を感じるものでしょうか。それは、目的でしょうか。
このバランスという観点だけからみると、トレーニング自体を否定せざるをえなくなりかねません。もちろんバランスをとるトレーニングというのはあります。
しかし、トレーニングというのは、意識的にある部分を機能強化させるようなこととして、私は使っています。そうでなければ「毎日、柔軟体操かヨーガをしなさい」と言えばよいでしょう。
バランスは、あるレベル以上に完成されたアスリートには、その機能を最大に安定させ、発揮させるのに必要なことです。
心身をそこまで鍛えあげていない人には、まず、強化トレーニングです。その際、バランスは一時くずれてもやむをえないのです。
たとえば、私がバランスをとったところで、オリンピックの競技に出られるのでしょうか。アスリートと声を使う歌やセリフは問われるものが違うので、一緒くたにはできないのですが、基本的な考え方には通じるところがあります。
 
 
〇偏りすぎないことと正論
 
トレーニングで気をつけるべきことは、偏りすぎないことです。そのことだけが目的だと思って、そこに全集中しないこと、そこでバランスということばを使うならよいでしょう。トレーニングで、バランスが一切壊れてはいけないとか、少しも偏ってはいけないとなると、大きく変えることができません。少なくとも、早く強くするようなことに関しては、難しくならざるをえません。
もちろん、そういう立場のトレーナーもいて、その正しさもわかります。つまり、急がずに時間をかけてゆっくりと少しずつバランスをとりながら高めていくならよいでしょう。
 
しかし、何事も時間で区切られているのです。甲子園に出る選手が、なぜ1年生のときにあれだけ体力を鍛え上げていくのか、あるいはプロ野球に入った後、ファームで筋力トレーニングをするのはなぜか、時間が待ってくれないからです。この点に関しては、同じではないでしょうか。
それでも理想としては、とことん、時間をかけ、ていねいにこなしていくことであることは確かなことです。人生は、高校3年間よりずっと長いのですから。
 
 
●強化とバランスへの私論
 
私は、小さい頃から歌っていて、うまい人が多いなかで、10代後半で本格的に始めて、すごく遅いと思っていたのです。今では時代状況が違いますが、追いつけ追い越せということがあったからこそ、声楽にまで手を出し、基本にこだわって、10年以上かかって声から変えてきたわけです。  
そういう必要のない人や、歌っているなかで、そのまま理想的なヴォイストレーニングがなされてきた人たちがたくさんいるのも知っています。
私は、そうではなかったのでトレーニングに頼らざるを得なかったのです。効果を上げるために早く急いで部分的に意識を集中して強化をしてきたわけです。
一方で、バランスというのは、実際のステージに立ってみれば、感覚と体があれば、とれていくはずのものです。スクールなどには発表会があって、半年くらいでまとめあげて発表する、つまりバランスをとるわけです。そこまでの部分的な強化での偏りを調整し、総合して使えるようにしていくのです。ただ、半年や1、2年では早すぎるのです。
 
 
〇トレーニングでの偏り
 
トレーニングでおかしくなってしまうのは、その先の目標やそれを何に使うかということが明確にみえない場合です。普通は、歌い手や役者になりたいという目的で始めるのですから、腹筋だけを鍛えるとか、呼吸だけを強くするとか、声だけを大きくするというようなことが、目的にはなりません。一時的にバランスを崩しても、最終目標に至るプロセスで調整されていきます。
自主トレーニングだけで歌手になれると思うようなこともないはずです。
そういう意味では、今のYouTubeのように、すぐに作品を発表できる環境があることは、とてもよいことだと思います。隠れた才能が見出されることでしょう。独りよがりの才能が通用しないこともわかるでしょう。もちろん、メディアの特性での相性がありますから、実力本位とは思えませんが。
 
 
〇才能と養成
 
才能というのは、トレーナーが頭の中で考えているようなものを遥かに超えたところにあるものです。
つまり、「トレーナーに教わる」というのは、おかしなことであって、トレーナーという1つのサンプルをもとに、自分がそれをよりよく利用したら、そのトレーナーより早く上にいけるということです、だからトレーニングなのです。
スポーツ界を見ればわかるように、トレーナーとして必要なのは、過去のアスリートとしての成績ではなく、自分の経験をもとに自分よりも高いレベルの選手を育成した実績です。それは、たった1人でもよいし、まして複数の人を育てたのであれば、すごいことです。
 
 
〇高音での体勢
 
「高い声を出すときでも体が動かないのが優秀な歌い手か」これについては、体が動くとか動かないということではありません。
発声などにおいて、トレーニングとして習得するプロセスとしては、あまり反動をつけたり維持できないような姿勢で、その音をとることはすすめられません。偶然に出たとしても、再現性がないし、再現したとしても、そこに表現に応用できるだけのキャパシティが加わってくるように思われないことが多いからです。
 
もちろん例外もあります。トレーニングでマスターした高音と歌唱時の体勢が、ほぼ一致するのは、声楽やミュージカル、コーラスなどでしょう。
ポップスやエスニックな分野になると、表現やパフォーマンスの方から、体を固定させないこと、動かしながら高い声に限らず、声を出すこともあります。
トレーニングと歌唱との違いといえるかもしれません。何をもって優れているというのかにもよると思いますが、高い声や体の動きと優れていることを結びつけて考える必要はないと思います。
 
 
〇長期間レッスンすることでの偏向
 
長くいる人は、そのトレーナーのやり方に合っているわけですから、長くやればやるほど、そのトレーナーの癖がつき、その価値観で判断するようになります。
初心者であるほど、最初につくトレーナーの影響力が強く、そのトレーナーと同じような考え方で発声を得て歌うことになります。
トレーナーにとっては、すごく優秀な生徒、力を伸ばした生徒というのは、そのトレーナーの思うような伸び方をした生徒であり、多くは、そのトレーナーと似ているほど、そこを褒めたり認めたりしているのです。
そういうトレーナーは、他のトレーナーのところから来た生徒よりも、最初から自分が指導した生徒を好みます。また、自分だけが指導することにこだわります。
これが、他のトレーナーやプロデューサーなどがみたときに全く方向違いの評価であったり、そのトレーナーと同じ歌い方や真似事のようにとどまっていることが多い理由です。
わかりやすい見分け方としては、上手にみえるけれど、パワーや新鮮さに欠けるのです。これは、そうしたトレーナーの声にも当てはまることが多いです。テクニカルにこなしているだけなのです。
 
 
〇パワー、インパクト、器でみる
 
それは、いろんな発表会を見に行って、昔から感じたことです。トレーナーに認められた人ほどトレーナーとそっくりの歌い方なのです。
それは流派みたいなもので、そこの関係者とかファンなど周りの人が、それを好み評価するから、どうしてもそういう価値観に取り込まれてしまうのです。
ですから、私は、伝統芸能などの将来性をみるときに、初代から2代目3代目と比べ、大きく違えば大きな可能性があり、全く同じようであれば限界をみます。徐々に器が小さくなっていくのです。先代が偉大なほど、それを継承することだけが目的となります。伝統にこだわりすぎ、芸を写し取るだけで、創造をないがしろにしているのです。そして、先代の威光だけに頼る人ばかりの集団になっていくわけです。
日本では、その方が評価されますので、血縁だけの家元制などが残っているわけです。
 
 
〇相関関係をつかむ
 
トレーニングの期間が大切なのは、いろんなことがうまくできなくて、いろんなことが影響していること、その相関を自分なりにつかんでいけるからです。
つまり、あることができるのはこういう条件があったり、あることができなくなるのは、こういう条件のためだというような因果関係の把握を自分なりにするのです。
これは、それなりのレベルに達してしまうと結構、応用ができ、あまり影響を受けないで、こなせてしまいます。いや、そういうプロセスがあったからこそ、こなせるようになったのですが、トレーニングによって強制的に早期に身に付けていくときに、その関係がよりクリアにわかるということです。
小さい頃から10数年かけて、しぜんと身につけてきた人には気づかないことに気づけるのです。
トレーニングを介することによって、たとえば、睡眠時間、食べ物、体調、風邪、満腹具合、いろんな条件が、自分の成果にどう影響したかをつかんでいくのです。
 
 
〇経験と気づき
 
とことん根を詰めた練習期間をもつことは、ストイックになることですが、そこでいろんな影響に気づくことになります。食べ物、お酒、日常のしゃべりすぎ、仕事の過労や、心身のストレスなどです。それは、自分自身にも他の人に教えるときにも大きな財産になります。
 
ステージなどの経験を数回でも踏んでいるのといないのでは、大きく違います。大きなステージを踏んだかどうかでも違います。
何百回、何千回、それをこなしていることで得られる知見もありますが、そういう場合は、もはや当たり前になっているので、むしろ数回、数年間のことからどれだけ多くのことを学ぶかが重要かもしれません。
 
 
〇トレーナーの思い込み
 
「食事を変えたら声が出た」とか、「のど飴で声が出た」と言う人もいます。どこまで本当かはわかりませんが、大体のことは、その人が思い込むだけの根拠があったとは思えません。
そういったことでは、その人の体質など、個人的なことに対しての経験と思い込みです。
教えるときに、そういうことをノウハウのように伝えるのであれば、何十名にもそれを試みて、それの効果を実証しなければならないはずです。
ヴォイストレーニングの分野は、未だ個人的な体験、経験に基づいた直感、思い込みによる指導がほとんどです。そういう話を10人ぐらいのトレーナーとするだけでも、相当、正されるのですが、なかなかそうした環境で、学べる人は少ないようです。
大体の場合は、同じような環境で同じようなタイプ、価値観の人が集まるので、そのなかで自分の体験の正しさを確認しているだけです。
本来は、自分と全く違うやり方や、自分で失敗したやり方において、成果が出ていたり、よい効果を上げたような話を聞いて、自分のやり方以外のものが、より当てはまるような人もたくさんいることを知って、学ばなければいけないのです。
 
 
〇正しさということ
 
自分が行動するとき、いつも正しいとは限りません。でも私たちは、いつもそれが正しいとなんとなく思っていくのです。
自分がそうしているのが必ずしも正しいとは限らないから、そのことを他の人に正しいと主張するのには、注意してかからなければなりません。
 
「私」「自分」を「人間」に置き換えて、「人間の行動」も同じだと考えてみると、正しくてこういう世の中になっているのか、正しくなくてこういう世の中になっているのか、ということです。
人間が行動した結果、こういう世の中になっているので、こういう世の中が正しいのか正しくないのかは、簡単には言えないにしろ、かなり間違っている部分があるのは、誰もが気づいているのではないでしょうか。
改善もされてきたと思いますが、その裏で、悪いままや改悪されているところも少なくないように思います。
 
私は、キュレーターのように情報を収集して、区分けして、ある発想をもってつなぎ合わせ、新しい価値観を打ち出し、それをシェアしていこうとしているつもりです。
 
 
〇生きていくこと
 
生きている以上、いろんな問題にぶち当たっていくのであり、それに一つひとつ真摯に取り組んでいけたら理想ですが、なかなかそれは難しいものです。
興味のあるものか、逃れられず降りかかってくることに、ほとんどの人生は費やされていきます。生計の糧を得る、食べものを手に入れることなどは、その基本でしょう。
 
生きていくと、いろんな出会いがあります。その出会いから何らかの使命を感じとると、人生に1本通すようなことが根底に存在するのです。
 
先日、「何をすればいいか、よくわからない」と言う人に出会いました。私も「何をすればいいのか」などと考えだしたら、動けなくなるのでしょう。
今、目の前にあることをやり、降りかかってくるものを片付けます。それが何もないとしたら、降りかかってくるものがないのか、みないようにしているのか、気づかないのかと思います。
 
 
〇人間の生
 
私は、することがないときは、場に出て、人に接しにいきます。自らに降りかからせているのかもしれません。そういったものがモチベーションとなっています。刺激がないことには、不健康な状態になるからです。
 
「人は、1人では生きていけない」というような意味を、昔は、衣食住の面で理解していたのです。しかし、この社会とリアルに結びついているという、つながり感を喪失でしまうと、とても生きづらくなるということに気づかされてきたのです。
今まで、いろんなことが降りかかったり、いろんな人と絶えず、会ったりしていて、そういうことに気づく静寂、闇というものに、あまり接してこなかったからなのでしょう。
 
 
〇食べもの
 
食べるものは、体によいようにつくられているわけではありません。美味しくて甘いこと、加工に手間のかからないこと、食べやすいこと、見栄えのすることなど、マーケットでの都合でキレイとか、おいしそうということで選ばされているのです。
お得だとか、安いなどというのもその一つです。それは、生きていくために大切な食べ物を体の声を聞いて判断しているわけではありません。
日本のように、形や大きさが揃っていないと売れない、見た目のよさが商品の決め手となると、そのためにわざわざ不必要な工夫がなされます。わざわざ健康を害するようになっているのです。
盆栽などを鑑賞するような日本人の審美眼の厳しさをもって、頭で食べ物を選別する、腸の欲するものに従った判断をしていないのは、愚かなことです。
 
 
〇添加物
 
添加物については、ずいぶん気をつける人が多いのですが、日本では海外で使用禁止のものも当たり前のように使われています。少量なので害がないと言われていますが、結構たくさん食べていたり、そういったものが組み合わさったときにどうなるのかなどは、公にされていません。
もはや、体に毒が入るのは当たり前のことです。それを解毒すること、それができるように、ミネラル、ビタミン、微量栄養素などをしっかりと摂ることが大切なのです。
 
 
〇健康は食から
 
健康な状態というのは、何らかの不調を感じないことです。ですから、治ったというのは、自分自身が気にしなくて済む状態に回復したことと思われます。
どんなものを食べても大丈夫とか、あんまり食べなくても生きていくことができるという耐久性を求める方が根本的な理想に近づくような気がします。
食を勉強していると、声やヴォイストレーニングみたいなものにも、正しいなどというものはないし、そういうことを主張することの馬鹿らしさもわかってきます。
 
常に勉強をして、自分に合った方法をつくり上げていくことが大切なのです。
 
 
〇心の病
 
特に、精神医学の方から出てきているような病名に関しては、チェックしていないだけで多くの人がそれに当てはまるのです。
社会に適応できていないから発達障害といわれるのですが、その原因には、全く触れられていないのです。名付けられなければ、そうではないわけです。私もあなたも名付けられたらそうなる、そういったものを病気というのは、大きな問題だと思います。
心の病気というのは、原因が科学的には立証できず、いじめや親との死別などといった辛い体験などというようなことにされます。いわば、つくられた病気です。
それに対しても、いろんな薬が出ているのです。その薬があるがために病名が一般に広まり、その病気だといわれる人たちが大勢出てくるのです。薬だけでなく検査そのものも害のあるものが多いことは、今更、言うまでもないでしょう。
 
 
〇不調
 
不調というのは、状態です。本人が自覚しているならまだしも、まわりがそのように状態をとらえるというのは、社会がそれを許容していないということです。
社会というのは、この場合、学校や家族などのまわりの人です。その許容度ということになります。
同じような行動できないとおかしいと思われるような社会では、同じ行動をしないだけで、おかしいとされてしまうわけです。となると、アーティストなど皆、病になのです。同調できないことを苦としないで生きられるように、強くなりましょう。

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