アナログ派の愉しみ/映画◎フランク・キャプラ監督『毒薬と老嬢』

おばあさんが
「超能力」を発揮するとき


おばあさんが発揮する「超能力」の凄まじさを一度だけ目撃したことがある。かつて信州へ山登りに出かけて、地元の路線バスに乗り込んだとき、車内には5人連れの老婦人だけが腰かけておしゃべりしていた。農家のおかみさん同士らしい集団はこちらに一瞥をくれると、通りすがりの客に気をまわす必要もないと判断したのだろう、すぐにおしゃべりを再開したのだが、わたしは呆気に取られてしまった。

 
こんな具合だ。おばあさん5人のうち、入れ代わり立ち代わりつねに2人がまくしたてるものだから、はじめはケンカをしているのかと思ったところ、わたしの耳にも少し聞き取れるようになると、そうではなかった、2人が同時に声を発しながら5人はおたがいにその内容を把握して猛烈な勢いで対話が進行しているのだった。数学に譬えれば、われわれが単純な一次方程式を使っているのに対して、彼女たちが操っていたのは高度な二次方程式と言えるだろう。もともと女性のほうがコミュニケーションに優れているうえ、長年のトレーニングを積み重ねて、おばあさんにおいてはもはや「超能力」のレヴェルに達したものと思われる。わたしはほとほと感心した。

 
フランク・キャプラ監督のコメディ映画『毒薬と老嬢』(1943年)もまた、そうしたおばあさんの「超能力」を前提として成り立っていると言えるだろう。

 
ニューヨークの下町ブルックリンに瀟洒な屋敷をかまえるブルースター家では、アビー(ジョセフィン・ハル)とマーサ(ジーン・アデーア)の老姉妹が仲良く暮らしていた。そこへ若い甥のモーティマー(ケーリー・グラント)が結婚の報告のため久しぶりに訪れてみると、叔母たちから陽気な口ぶりで、これまで12人の年寄りを毒薬で殺して地下室に埋めたことを知らされる。かれは愕然としながらも、この連続殺人を闇に葬ろうとさっそく工作に取りかかったところへ、つぎつぎと招かれざる客が押し寄せてきて……といったドタバタの喜劇だ。

 
オリジナルはジョセフ・ケッセルリングの戯曲で、その舞台はブロードウェイで3年半におよぶロングランを記録したという。日本では1987年に東京・銀座博品館劇場で初上演され、わたしも観客のひとりとして腹を抱えて大笑いしたことを思い出す。たとえば、この連続殺人をしでかした動機についてモーティマーに問われると、姉のアビーはひとりの人物がたまたまこの家で頓死したことがきっかけだったとしてこう説明する。

 
「最初はバプテストのミッジリーさん。とても孤独な老人だったの、親類をみんな亡くしてしまって。本当に可哀相だった。かれは心臓発作を起こして、お前がすわっているその椅子で死んだのよ。とても安らかに。マーサ、覚えている? それで思い立ったの、わたしたちの手で孤独な老人たちを片っ端から安らかに眠らせてあげたいって」

 
すなわち、老姉妹のあいだで世間一般の常識の次元を超えたコミュニケーション、まさしく「超能力」が作用したことで連続殺人が遂行されたというわけだ。

 
上記のセリフは、バブル経済期の日本社会ではただのブラック・ジョークに響いたけれど、それから約40年の歳月が流れて、いまあらためてこの映画を眺めると、むしろ重大な問題提起となってしまった感がある。厚労省『国民生活基礎調査』(2022年)によれば、独居老人(65歳以上)の数が男性314万人/女性559万人に達して、アビーが口にした孤独で可哀相な老人はごくありふれた風景となり、かれらの生死にかかわるテーマをだれも笑い飛ばせなくなった。いや、笑い飛ばせないどころではない。こうした状況がいっそう深刻化していった暁には、むしろアビーとマーサのような社会に対して果敢に立ち向かうおばあさんが求められ、彼女たちの「超能力」によって打開策を見出すことになるのではないか。そんな未来さえ想像したくなるのである。

 
え、信州のバスの5人組のおばあさん? あのとき彼女たちが大いに「超能力」を発揮していたのはもっと他愛のないテーマだった。嫁の悪口。ナニ、眉をひそめることもあるまい、嫁たちは嫁たちできっと別のバスで姑の悪口を言いあっていたろうから。
 

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