アナログ派の愉しみ/本◎加藤周一 著『日本文学史序説』

ジャーナリスティックなアプローチが
新たな文学史を照らしだす


小西甚一著『日本文学史』(1953年)を読んでいて思わず舌を巻いたことがある。鎌倉・室町時代を扱った「中世第二期」の章の末尾にこう添えられていたのだ。

 
「中世における謎の存在として、いわゆる五山文藝がある。十三世紀から十六世紀にかけて、禅僧たちの作った詩文をさすものだが、分量においては莫大なもので、ひとわたり眼をとおすだけでも、わたくしならば、たぶん十年以上を要するだろうと思われる。しかも、それが文藝としてどれだけの価値をもち、どのような史的意義をもつかについての研究は、従来、まったくなされていない。もちろんわたくしの力の及ぶところではないから、巨大な堆積にすぎないのか、あるいは真に瞠目すべき金字塔なのか、疑問を残して、いまはその分量を語るにとどめておく」

 
中世文学の泰斗として知られた著者による記述の、この潔さはどうだろう! それがあまりに印象的だっただけに、あとで加藤周一の大著『日本文学史序説』(1980年)に接して、「能と狂言の時代」の章で五山文学に関する記述を見出したときには自然と前のめりになった。


こちらでは「その詩文の歴史は、大きくみて、三期にわけることができる。初期は、一四世紀前半であり、宗教的な『偈』を多く作る。中期は、一四世紀後半で、世俗的な美文と詩を主とする。後期は、一五世紀から一六世紀前半にかけて、世俗性に徹底し、同性愛の詩が多くあらわれる」と要約したうえで、後期の例には東沼周曮の詩「昨夜同床残月牕 鴛鴦帳底影双々 祇応長賀夢雲去 寺似金山揚子江」を引いて「室町時代の禅宗の日本文化への大きな貢献の一つは、同性愛文学の発達である」などと論じられ、そのあまりの明快さにわたしはまたしても舌を巻いてしまったのだ。

 
片や、はっきりと自己の力量を超えていると告げて謎を謎のまま提示し、片や、あたかもおのれの掌を指差すかのごとく明々白々に解明してみせる。こうした双方の態度の違いは、決して優劣を表すものではなく、日本人が営々と積み重ねてきた文学史への向きあい方にもとづくものと考えるべきだろう。小西は文学史の内側にわが身を投じて、丹念に味わい、ともに生きたうえで見解を述べる。一方の加藤は文学史の外側にわが身を置いて、科学者が目の前の実験台を観察・分析するようにして報告をまとめる。文学から時代状況に迫るのではなく、逆に時代状況のほうから文学を照射しようとするそのやり方は、ジャーナリスティックなアプローチとも言えるだろう。

 
実際、『日本文学史序説』はもともと朝日新聞社の『朝日ジャーナル』に長期連載されたもので、加藤本人がのちに「それは週刊誌が多くの読者を持っていたことと、編集者が非常に熱心に支えてくれたからですね。こちらの都合だけじゃなかった。それと、一種の自発的強制なんですよ(笑)」と回顧している。わたしは個人的には、そんなせわしないやり方よりも、小西のようにひとつひとつの作品を心ゆくまで玩味しながら文学史の道のりを逍遙するほうが好みだけれど、しかし、現代はますますジャーナリスティックなアプローチが求められているのかもしれない。本書は1970年前後の三島由紀夫の最期、大江健三郎の登場のあたりで終わっているが、加藤が世を去ったいま、以降の50年間について体系だった文学史が出現していないこともそのへんの事情を物語っていよう。

 
不遜を承知のうえで、加藤のひそみにならい、もしわたしが今日の時代状況から文学のありようを捉えようとするなら三つのポイントを挙げたい。すなわち、①言語の国際化=もはや日本語はひとりそれだけで完結せず、英語をはじめ多くの言語と混然一体となっている。②表現のデジタル化=文章や図像を流通させるのは紙媒体ばかりでなく、むしろデジタル媒体のほうが優勢となっている。③日本人の変容=そもそも「日本」を構成する人々が、外国からの流入や混血によって人種的にも言語的にも多様化しつつある。こうして、たとえば教育現場でも英語学習の早期実施やタブレット教材の普及、あるいは「やさしい日本語」の導入といったように事態が進行するなかで、日本語の伝統に何がもたらされ、古事記・万葉集以来の文学の歴史はどこへ向かっていくのか。そして、さらにつけ加えるなら、いまやそこに生成AI(人工知能)の大津波が襲いかかろうとしている――。こうした様相を前にしてはアカデミックな研究の手法より、どうしたって広汎な視野に立ったジャーナリスティックなアプローチが必要になるはずだ。

 
本書の総論「日本文学の特徴について」では、西洋や中国の文学と比較してその著しい特徴が論じられたのちに、「日本社会が停滞的でなかったように、日本の文学もまた発展してやまなかった。〔中略〕日本文学の歴史は、かくして多様化の歴史であり、そこでは多様性と統一性、変化と持続が微妙につり合ってきたのである」と結ばれている。この加藤の言葉は、果たして日本文学の未来を照らしだす指針ともなるだろうか。
 

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