アナログ派の愉しみ/本◎酒井得元 著『沢木興道聞き書き』

わしはいつも
命がけの名人だった


数年来、書店の仏教書コーナーがどんどん広がってきて、なかでも禅に関連した書物がひときわ幅を利かせているようだ。しきりに「人生100年時代」と喧伝されながら、その実、おいそれと安心立命を手に入れられないわれわれの不安に応じたものだろう。それはけっこうだが、もうひとつ腑に落ちないのは、たいていの本で著者のお坊さんがいかにも恬淡と、心身の力を抜いて、どこにも無理のない自然体の生き方を教えていることだ。

 
そうしたもんだろうか? と、わたしなどは首をかしげてしまう。だって、日本では時代の主役が貴族から武士へと移り変わっていくころに、禅がはじまったのではなかったか。以来、血なまぐさい戦乱や貧困・飢餓が国土を覆うなかで、人々が生き抜いていくための指針として、おとなしく自然体でやり過ごすといった毒にも薬にもならないきれいごとだけでは、とても宗教の命脈を保てたとは思えないのだ。

 
そんなへそ曲がりのわたしに膝を打たせたのが、『沢木興道聞き書き』(1951年)だ。これは、明治・大正・昭和の三代にわたり不世出の禅者として雷名を轟かせた曹洞宗の僧侶、沢木興道の来歴を、本人の語り口そのままに弟子の酒井得元がまとめたものだ。一体、どうしたらこうやって爪の垢ほども飾ることなく、おのれの生きざまをあらいざらいぶちまけられるのか、まったくもって恐れ入ってしまう。

 
1880年(明治3年)に三重県津市の職人の家に生まれた幼名・才吉は、幼くして両親と死に別れ、遊郭街で提灯屋のかたわら賭博や詐欺を生業とする養父母のもとで育つ。そして、近くの女郎屋で五十男が孫のような娼妓を買って脳卒中で急死した現場に行き会わせたのをきっかけに、世の無常を悟ったというから凄まじい。その後、曹洞宗大本山の永平寺をはじめ各地の寺で修業を重ね得度して「興道」の法名を授かったものの、徴兵検査の甲種合格により陸軍に入営し、さんざん痛い目に遭わされてやっと3年の満期除隊になったところで、1904年(明治37年)日露戦争が勃発して召集令状を受け大陸の激戦地へ。しょっぱなの南山攻撃では弾丸が降り注ぐなか、うろたえるばかりの上官連中をどやしつけて奮闘したとして、こう語っている。

 
 三年のあいだ、わしらをひどい目にあわせた奴は、ここへ来てから揃って腰を抜かしていたので、みんなぶんなぐって気合いをいれ、結局みんな仇を取ってしまった。
 ところが、みんなが、「ありゃいったい何者だい」「うん禅宗の坊さんだげな」「なるほど、さすが禅宗の坊さんはちがったものだ、肚がでけとる」とか言って、非常に感心してしまった。わし自身もどんなもんだいといい気になっていた。思えば、いい気なものであった。〔中略〕それでも、日露戦争を通じて、わしなども腹一っぱい人殺しをしてきた。

 
開いた口がふさがらない。これが勝新太郎主演の映画『兵隊やくざ』シリーズのセリフならともかく、レッキとした禅僧の口から出た言葉だとは。非常時とはいえ、仏弟子の身の上で不殺生の戒めをさんざん破ったのが破天荒なばかりか、そこに少しも悪びれたところのない態度のほうがもっと破天荒と言うべきだろう。ことによったら、こうした破天荒こそが、ただ目の前の運命にしたがっただけの、本来の自然体の生き方なのかもしれない。のちに振り返って、本人はこんなふうに述懐している。

 
 だいたいこのわしという人間は、いつも命がけの名人であった。戦争中の武勇は、まったく法被がけに、豆絞りの手拭いのねじ鉢巻、尻まくりで、大暴れに暴れ回ってきたようなものだ。そんなところが、前半生のわしというものである。
 ところがその後、道元禅師の前に出て、もじもじしながら尻まくりをおろし、ねじ鉢巻をそっと解いて、腰をかがめて、おとなしく、小さくなって、ひざまずいた、というのが現在のわしというものである。

 
そこで、曹洞宗の開祖、道元が著した『学道用心集』からの引用が示される。「その骨をくじき髄を砕くを観るに亦難からざらんや、心操を調ふるのこと尤も難し。長斎梵行も亦難からざらんや、身行を調ふるの事尤も難し。〔中略〕聡明を先きとせず。学解を先きとせず。心意識を先きとせず。念想観を先きとせず。向来都(すべ)て之を用ひずして身心を調へて以て仏道に入るなり」。すなわち、荒行で肉体を痛めつけようが、瞑想で精神を研ぎ澄ませようが、心身を調えることはさらにずっと難しい。頭のなかでデッチあげたものをかなぐり捨て、ひたすら心身を調えるしか悟る方法はない――。

 
沢木興道にとって心身を調えるとは、いつも命がけで生きることだったのだろう。戦場で敵兵を殺すのも命がけ、仏道の前で小さく跪くのも命がけ。生命というものが必ず死の結末をともなう以上、生きとし生ける者はいまこのときも、すでにいくばくかの死を抱え込んでいるはずだ。生きると死ぬとは同じこと。みずからの死から目をそらさず、命がけで日々に立ち向かう。それが無常の現世を生き抜く指針だと、この破天荒きわまりない自叙伝は教えてくれている。


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