アナログ派の愉しみ/本◎橘 外男 著『蒲団』

朝の通勤列車で
驚愕の怪談に出会った


先日、朝の通勤列車へ乗り込み、満員の車内でいつになく心洗われる思いがした。と言うのも、すぐ隣できちんとセーラー服を着込んだ女子中学生が吊革につかまって文庫本を開いていたからだ。周囲の乗客はだれもかれもスマホとにらめっこするのに余念ないなかで、ひとり背筋をぴんと伸ばした読書の姿はいかにも清々しい印象があった。きっと行き届いた家庭の子女なのだろう、と想像をめぐらしながら、わたしはその手元の本の表紙を見やったとたん目を疑ってしまった。

 
蒲団――。なんと、田山花袋ではないか! 明治から大正にかけて活躍した自然主義の大家のこの小説は、みずからをモデルとして、妻子のある作家が住み込みの若い女弟子に懸想して、相手に深い縁の男がいたことを知ると逆上して追いだし、あとで彼女の使っていた蒲団に鼻を押し当て残り香を嗅ぎながら慟哭するという内容だ。私小説の出発点となった有名な作品とはいえ、初々しい女子中学生が読むのにふさわしいかどうか、と首を傾げずにはいられなかったわたしは自分の早とちりに気づいた。著者名が別だったのだ。

 
橘外男――。それは初めて目にする名前だった。まあ、少女にとって中年男の淫靡な告白など面白くもないはずで、こちらは同じタイトルでもきっと夢のある小説なのだろう、と想像したきり頭から去ってしまったのだが、その日の午後、たまたま書店に立ち寄ったときにわたしはふと未知の著者のことを思いだした。そこで、気まぐれに買い求めてひもといてみたら、とんでもない代物だったのである。

 
まず簡単に作家のプロフィールを紹介しておこう。1894年(明治27年)に石川県金沢市で生まれているから、田山花袋より22歳年下で、あの江戸川乱歩と同い年だ。北海道でサラリーマン生活を送るうち、公金横領の罪に問われて約1年の刑務所生活を過ごす。出所後、上京して外国人商社などで働きながら小説の執筆に取り組み、1922年(大正11年)『太陽の沈みゆく時』でデビュー、1938年(昭和13年)『ナリン殿下への回想』で直木賞を受賞し、戦時中は満州映画協会につとめたものの、終戦後文壇に復帰して、1959年(昭和34年)に64歳で死去するまで作家活動を続けたという。そんな橘が1937年に雑誌『オール読物』に発表したくだんの『蒲団』は、文庫本の解説によれば、近代日本の怪談を代表する傑作らしい。

 
こんなストーリーだ。明治の末ごろ、上州(現在の群馬県)多野郡に「越前屋」という老舗の古着屋があって、語り手はそこの若旦那。当主の父親が東京へ買い付けに出かけて青海波模様の縮緬蒲団を格安で手に入れ、さっそく店頭のいちばん目立つところに飾ったが、いっこうに買い手がつかないばかりか、商売全体が落ち目となり、さらには家族や使用人のあいだに病気・怪我のアクシデントがあいついだ。そうこうするうちに、若旦那の自分がかねて許婚の相手と婚礼を挙げる日を迎え、初夜の床には例の縮緬蒲団が敷かれてあり寝入ったところ、新妻が血みどろの美女の幽霊を見て恐怖のあまり実家へ帰ると言い出す始末。そこで、翌日、気丈な母親が代わりにその床で一夜を過ごす運びとなったが、いつの間にか苦悶の表情でこと切れていた。このうえはきっといわくがあるに違いない、と蒲団を切り裂いて内部の綿をほぐしていくと、どうやら鋭利な刃物で切り取られたらしい女の片手の指が五本、いまでは皮と骨だけになったのが現れ、さらには――。以下、語り手の言葉を引用する。

 
「それともう一つ、……これはいかにも申し上げにくいのでございますが、御婦人のある場所を抉り取ったとみえて、これも白くカラカラに乾干(ひか)らびきった皮膚が、ただ一掴みの毛だけはそのままに綿に包(くる)まって出てまいりました時には、その場におりました者七、八人思わず『呀(あ)っ』と叫んだきり、あまりの不気味さに顔色を変えぬものはございませんでした」

 
わたしもまた、あんぐり開いた口がふさがらなかった。かくして、この縮緬蒲団には無惨な死を遂げた女性の怨霊がまといついていることが明かされ、せめても菩提を弔うために寺へ預けたところ、そこでも祟りが続いたというオチがつくのだが、いやはや、田山花袋の告白どころじゃない、これほどおどろおどろしいストーリーは現代の日本文学でも滅多にお目にかかれまい。それにしても一体、こんな作品のどこに惹かれて、あの清楚ないでたちの女子中学生は熱心に読み耽っていたのだろうか?
 

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