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【エッセイ】凡人の一発

昨年サッカーワールドカップを見ていた。
肉体的、頭脳的にも優れた選手、監督が本気で優勝を目指して戦っている。
この画面に映る人達は小さな頃から天才と言われてきた人達で(例外もいるのかな?)同じ部活とかにいたら憧れの存在、それに女性からモテモテだったんじゃないかという人達である。
他とは少し違う人達。
少し、どころではないか。
ワールドカップという舞台はそんな人達の中でも努力を重ね、人よりも練習をし、考え、日々目標に向かって生きてきたほんのほんの一部の人達である。

才能もあり、努力も人一倍する。
ん?
自分→才能なし、努力しない。
結果→嫌悪感、凡人のまま。
これは僕の場合だ。
別に努力しないこと、何もやらないことは本当は気にすることはない。
人は人、自分は自分。
僕の場合は、同調圧力、集団意識など大嫌いだったので、たまたまひねくれる、みたいなことはなく嫌悪感が自分に向くだけで済んだ。
人は人、自分は自分。
でもそれだけ。

人は皆同じ能力ではない、そのことを自覚しないと優しくはなれない。
みんな人間は同じだと思うから嫉妬も呼ぶし、この嫉妬というのがすべてを破壊する。
出る杭は打つ、というやつか。

知識を集め、知識が理性をはみ出す人達がいる。
その人達は中途半端な学をつけ、あたかも自分が頭が良くなり、自分が知識人のように振るまい、態度が偉そうになり、人を見下し、その時知っただけの知識を押しつける人達。
そんな人達が世の中うじゃうじゃいる。
気を付けないといけない、気を付けよーっと。

才能がある、ないの差は仕方がないこと。
男性が女性よりも運動能力が高いのは持って生まれた能力なので仕方がないと同じこと。

ただ、努力しないのは違うのでないか?

才能がある人は、自分が出来ることがある程度見えるからやること、やるべきサイクルがある程度作れる。
自分はというと才能はない。
だから、日々の生活でヒントを見つけ、補っていく必要がある。
だってやりたいことすらわからないのだから。
日々の生活からヒントを得る。
情報を集める、自分なりの答えを出す。

僕は本というと小説しか読んでこなかったが、社会経済学、社会環境学など読むようになり、自分の中で得られるものは小説だろうが、社会学だろうが同じだとわかるようになった。物語の人物や物語から知恵を与えて貰い、そこから自分は何を考えているかを知る。社会学から事実知識を与えて貰い、自分が何を考えているかを知る。
これも僕の場合。

本というのは学のショートカットという側面はあるからやはり有意義だ

[努力]に関していうとある人はこう言っていた。
「努力して偉いですね」と言われ、その方はイライラしながらこう答えた。「努力しないということが意味がわからない」と。
努力は偉くはない、当たり前だと。
ここで
そうは言ってもね、あなたは才能あるものと思うだけの人
本当にそうだよな、思うも動かない人
本当そうだよな、と思い動く人
基本的にはこんな感じで分かれると思う。

やりたいことがあるというのはそれだけで才能がある。
そこへ向かって突き進んで行けばいい。

僕はこのの人にならないといけない。

※まとまりのない、継ぎはぎの文章になってしまった。
エッセイというものは僕は村上春樹さんのエッセイが基準で、読んでて楽しい文章、失礼が承知で、ほっこりして知にならないものがエッセイである、としている。
頭を使わないのが正義である。
そんな文章を私は書きたい。

ただ今回は、勝手にnoteいうプラットホームは、昔は田舎の人は、東京に行けば何か変わるのではないか、色んな面白い人がいるのではないか、だから東京に行く、というのは主体だった。
僕は勝手にnoteというのは昔の東京、いうことにしている。
違うかもだけど。
だからこんな文章になってしまったのかも。
ちょくちょく編集しようと思います。
疲れた、ポンコツや。
終わり。





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