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チェスガルテン創世記【20】

第四章――襲撃【Ⅵ】――


(二匹目)

 とどめに喉を突き刺してフェンリルは追撃を止めた。相手の視界を奪った毛皮は穴だらけな上に血を吸い上げて、重くなってしまっている。
 赤黒く染まる生臭いそれらを一瞥するフェンリルの背筋が、迫りくる気配に逆立った。
 身をひるがえすと、横薙ぎの長剣が毛先をかすめる。最後の獲物がこちらを睨みつけ何言か言い捨てた。

慈母神じぼしんアマナよ、貴女の忠実なる戦士たる彼らを、その懐に迎えて下さい。彼らは勇敢でした。どうか褒め称えて下さい』

 意味は理解できない。せつないまでの震えはすでに止まっていた。

「何言ってるかわかんねぇよ」

 そう言い捨てるや否や、フェンリルはつむじ風を纏って突っ込んだ。

『――そしてどうかこの貴女の忠実なるしもべに、哀れな敗北神の残滓をほうむる為の御力みちからをお貸し下さい』

 最後の相手は他の奴らのように、大ぶりに斬りかかるような真似はしなかった。少ない動作でフェンリルの短剣を受け止め払う。何度かそれを繰り返した後、突然脇腹目がけて膝蹴りがとんできた。まともに受け止めれば、あばら骨がやられる。
 衝撃に逆らわず、フェンリルは跳ねた。側転するように受け流して着地し、すぐさま次の一撃をお見舞いする。だがこれも決定打にはならず、再び刃で払われる。
 いっそ腹ばいになるほど重心を低く落としたフェンリルは、頭頂部のすれすれで長剣をかわし、相手のふくらはぎ目がけて短剣を走らせた。
 刃は通らない。よくなめされた皮の表面を滑っただけだった。

(一度雪で落とさないと)

 短剣が血脂でなまくらになりつつあると気づいたが、ついまた、相手の急所を狙ってしまった。
 これも傷をつけるには至らない。下から突き上げるように薙ぎ払われる。
 今度は刀身を滑らせ相手の肘の内側を柄頭で打ち、そのまま流れで切り裂く。浅い。だがほんのわずか、相手が怯んだ。
 その一瞬をフェンリルは見逃さなかった。すぐさま短剣を左に持ち替え、回転しながら長剣を握る手の甲に突き立てる。
 相手はとうとう短い呻き声と共に長剣を手放した。フェンリルは落下する長剣を奪い、恐ろしいまでの身軽さで跳び退った。
 数歩分の距離を取り、互いに睨みあう。他二人に比べて最後の相手はしぶとかった。フェンリルは長剣を遠くに放り投げて、あちこち忙しなく目をさ迷わせた。

(腕、足、目――いや、指?)

 この時フェンリルはいかに素早く戦いを終わらせるかではなく、どうすれば相手がより苦しむのかばかり考えていた。
 最後に残った相手を、とにかく痛めつけてやりたかった。

(――慎重に。頭に血が昇った時ほど、慎重に、冷静になれ)

 老人の教えを思い出し、フェンリルは衝動を堪えようと努力した。しかし荒く短い呼吸は、きんとした空気に混じる別のものを欲していた。白く清廉な雪原は今やおびただしいほどの鮮血に、赤々と染まっている。
 かつて故郷を焼き、全てを踏みにじっていったけだもの達の血の匂いはフェンリルを酔わせるのに充分だった。
 どこからか悲鳴が聞こえた。
 あれはヴァナヘイムの誰か――姉の、ヘイルの声だ。

(ヘイルが叫んでいる)

 悲痛な泣き声はフェンリルの足元からひたひたと沁み渡り、全身を満たしていく。
 彼女を泣きやませるにはどうすればいいのだろう?
 もう良いではないか。だってもう長いこと、我慢をしてきた気がする。

(そうだ)

ふいに目の前の霧が晴れるような唐突さで、フェンリルは気がついた。

(おれはずっと、この時を待ってたんだ)

 あんな地獄を目の当たりにしてまで、どうしてただ一人、生き延びたのか。
 どうしてこれまでずっと、黙って老人の教えを守ってきたのか。ひたすら静かに爪を砥ぎ、牙を磨き、耐えてきたのか。
 女神などどこにもいはしないし、叫んでも祈っても救いなどないのだと、この獣どもに思い知らせる為だ。
 耐える日々はもう終わりだ。
 その時がようやく来たのだ。

「おい、人間の真似ごとしたけりゃなあ、言葉のひとつも覚えてきたらどうだ」

 狂おしいまでの高揚感にとり憑かれ、衝動のままフェンリルは跳躍した。驚いたように固まる獣の表情、凍てつく空気、血の匂い。
 フェンリルは笑った――気分が良かった。
 相手の喉元目がけて、短剣を走らせる。獲った――と思った次の瞬間、フェンリルの手から短剣がすっぽ抜けた。

      *   *   *

 手元から離れ落下していく短剣を目で追うと、握りしめていた柄が砕けていた。いつのまにか、むき身のやいばを握りしめていたのだ。フェンリルの手のひらに喰い込んだ刃は、けだもの達ばかりか彼自身の血を纏ってぬめり、とうとう滑り落ちたのだった。
 フェンリルが年相応の幼さで呆気にとられたその一瞬、戦士の拳が側頭に叩き込まれた。完全に虚をつかれて、衝撃を受け流すこともできずに吹っ飛ばされてしまう。
 すぐ起き上がろうと肘をつき、ぐわんと視界が揺れ吐き気を催す。蹲る薄い背中にずしりとした重みが乗った。
 ――背後を取られた!

「どけ!」

 清々しさは失せ、激昂する。
 しかし容赦なく頭を雪面に押し付けられた。猛犬の如く暴れ、唸り声をあげるフェンリルの首筋に、更に体重がかけられる。
 こうなると細身のフェンリルには分が悪かった。このままだと息ができずに気絶する。最悪首の骨を折られるだろう。逃れようと雪を掘り雪面を蹴ってじたばたともがきながら、落とした短剣を手さぐりに探す。

(どこだ)

 視線を動かすが、見える場所にはない。掴むのは雪ばかりだ。どれだけ飛ばされたのだろう。息がつまり視界がぼやけ、耳の奥が圧力で破裂しそうな感覚を覚える。
 なのにヘイルの悲鳴はフェンリルのすぐ側で、痛ましくこだましていた。あの夜の怒号が、燃え盛る炎が、人々が羊の群れのように散り散りになって逃げ惑う様が蘇る。
 ――いつのまにか、目の前にヘイルが立っていた。
 ぼろぼろの服を纏ったヘイルは血塗れだ。金の髪を乱し白い素肌をほとんどさらして、宝石のような紫の目から、とめどなく涙が溢れている。
 刺された胸を掻き毟り、喉から悲鳴が迸る。
 痛かっただろう。苦しかっただろう。怖かっただろう。
 なのに。

(誰も聞いちゃいない。おれ以外の誰も。あれだけの人間がいて――誰も、誰も、誰ひとり!)

 悲痛な泣き声を楽しむ者こそあれ、憐れんだ者はいなかった。
 天王に届くどころか、それどころか、あの声を聞いたのが、届いたのが、それが、よりにもよってけだものだったなんて。

(ふざけやがって)

 奥歯が軋んだ。

(聞けない耳はいでやる。見えない目なら潰してやる。笑い声をたてる前に、顎から引き裂いてやる――お前ら全員、そうしてやる)

 血を吐くような思いで、フェンリルは吠えた。
 背中に齧りつく獣を振り落とすつもりで、全身に渾身の力を込める。手のひらの傷が裂け全身が軋み悲鳴を上げたが、知ったことではない。
 じわじわとフェンリルの上体が持ち上がる。戦士は踏ん張り、させまいとしたがどこからか吠え声と共に、一匹の犬が飛びかかった。

『なんだ、あっちへ行け』

 そちらに気を取られた戦士の、頭を押さえつける腕の力が緩んだのを感じとり、フェンリルは一息吸い込み叫んだ。

「来い!」

 声に合わせて、激しいつむじ風が巻き起こる。背中の重みがわずかにずれた。
 そして、まるで当然のように掴んでいた短剣を――いつのまにか手元に戻ってきたそれを、今度こそ戦士の腿に突き立てた。
 犬が素早く飛び去り、戦士が激痛に雄叫びを上げる。上体を浮かせた分空いた隙間で体を捩じり、更にお見舞いしてやろうと短剣を引き抜くと、相手は血走った眼でフェンリルの首をわし掴んできた。

『この狂戦士ウルヴヘズナルめが……!』

 逆光を背負い剛力でこちらを締め上げる戦士の表情はどす黒かった。向き合った状態ですぐさま短剣を突き刺したが、狙いが定まっていないうえに腕の長さが違いすぎた。
 刃は首まで届かず鎖骨の辺りで止まって――それが、なんだと言うのだろう?
 絞め殺されようが、体がバラバラになろうが構わない。
 やれ。
 殺せ。
 壊せ。

 ――この世のすべて、あの炎にくべて燃やしてしまえ!

「があ゛あ゛あ゛ああああ゛あ゛!」

 天の星をも穿うがち、地の底にまで轟くような咆哮に怯まず動けたのは、戦士の背後から更に逆光を背負って現れたひとつの影だけだった。

『ぐっ!』

 突如戦士が呻き、手の力を緩めた。ぎこちなく自身の体に手を這わせる。すると胸を貫く切っ先が飛び出した。 
 込み上げたように血を吹き出す戦士を、誰かが蹴り飛ばす。倒れ込む戦士の下敷きになりながら、フェンリルは思い切り息を吸い込んだ。
 激しい呼吸とえづくような咳を繰り返し、身をよじる。びくびくと痙攣する戦士の体の下からなんとか這い出ると、岩を割る濁流のような声が降り注いだ。

「なんて有様だ」

 涙目の隙間から見上げると、いかめしい表情の男が立っていた。
 猛禽のような鋭い金の双眸に、老齢ゆえ白いものが増えた青い頭髪。左頬に鷹の刺青を彫った男は、厳しい眼差しでフェンリルを見下ろしていた。

「十五にもなって、俺の留守をまともに守ることもできないのか? フェンリル」

 子供たちの長たる老人イル=カザドは剣の血のりを払い、いつもの調子で叱責した。変わったばかりの自分の年齢を言いあてたことに、ひそかにフェンリルは驚いた。

「遅えんだよ、くそじじい……」

 言いたいことはそれこそ星の数ほどあったが、悪態をつくのがやっとだった。身体が泥のように重くなり、視界がざあっと白くなっていく。気絶する寸前だった。

(そうだった……助けは来たんだった)

 吐息ひとつ漏らさなくなったヘイルの側に寄り添うように現れたのは、フェンリルの命を救ったのは、他ならぬこのカザドだった。
 地の民アマリに囲まれて剣を振るう父も、逃げろと叫び母を庇うヴィーダルも、どれほど待っても現れることはなかった。ましてや天王など――
 しかし好奇心旺盛にフェンリルに纏わりつく、茶黒の毛玉までは伴っていなかったはずだが。

(なんだこいつ)

 犬がフェンリルの鼻先を舐めとった。
 炎と血の匂いが犬の生臭い息にかき消され、ヘイルの声が霧の彼方へと遠のいていく……

(じいさんが来てくれたから、もう大丈夫。もうそんなに泣かなくて良い……ヘイル……)

 天王がいたなら、きっと彼のような姿をしている。
 張り詰めていたものがふつりと切れて、フェンリルは意識を手放した。


【次の話】

【小説まとめ】

これまでの話はだいたいここで読めます。

【こちらでもお読みいただけます】

https://ncode.syosetu.com/n0860ht/

【らくがきなど】

ここまでお読みいただきありがとうございました!

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