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一人で古人と対話する静かな時間をもつことの意味

この間、一人で自分と対話する静かな時間をもつことが大切だと考えているという趣旨の記事を書いた。

次の文にそのメッセージのポイントが縮約されていると思う。

ただ、私は、日々の生活のなかで、1人で静かに内なる自分と対話する、静謐なひとときをもつことの大切さについて認識している。
瞑想でも、散歩やエクササイズでもいい。それらの活動もそうした静かな時間の例である。
読書も、内なる自分と対話する時間である。
とにかく、自分の心を整理したり、一日を振り返ることによって、自分の魂を慰めたり、言動や出来事を総括する時間が必要であると考える。

一人で静かに内なる自分と対話する時間。
そうした静謐でちょっと贅沢なひとときに、何をするのがもっともいいだろうか、と考えると、それは人によって異なると思う。
音楽を聴くこと、瞑想すること、散歩をしながら自然にふれること、ヨガをすること、読書をすること、ストレッチをすること、書くこと、横になること、映画を見ること、ぼーっとすること、などいくつも挙げられる。
私自身も、ここにいまあげたほとんどの過ごし方が好きだ。
だげれども、私が一人で過ごすとき、最も心が落ち着き、自然と同じくらい滋養となっているのは、読書である。
読書。これは静かな時間の過ごし方の王道かもしれない。誰もが特権として持つ、早朝にコーヒーを片手に一人書を読んで一息つく時間の贅沢さは、歴史上のどの王侯や金持ち、現代のラヴィッシュな金持ちの派手な楽しみ(快楽といった方が近いかもしれない)をも、遥かに凌駕するように思う。
だいたい、楽しみというものは、経済的な富の量にかかわらず誰でももつことができる。楽しむこと自体にはたいていはたいしてお金はかからない。
しかも、私のようなごく平凡で収入もないような若者でさえ、静かな読書や散歩を楽しむことができるし、楽しみというものは、静かで、控えめで、派手さや華やかさとは程遠く、知的に刺激を得られるような小さくてささやかなもののほうが、お金をたくさん出さないとできないような派手な楽しみよりも、よほど喜びが持続するのではないだろうか。
つまり、読書や瞑想のような楽しみは、習慣にしてしまえば、そうした派手で一過性の快楽と較べて、知恵や幸福感ははるかに持続すると考えられる。
古本屋に行けば、文庫本なら100円から400円くらいが相場だろう。
小銭を少し払えば、稀有な作品を買うことができ、家に持ち帰って読むことができる。それを続ければ、いつの間にか家に本棚ができている。
まるで映画『PERFECT DAYS』の世界ではないか。
「幸せは、ごく平凡な日常の小さくてささやかなことの繰り返しに見出せる。」
(図書館が近くにあればなおよい)
一人で静かに過ごす時間に読書が適しているようならば、どのような本を選ぶのかにまで視野が拡がるだろう。
書物には、いろいろなジャンルがある。自分が楽しめたり、有意義に感じ、没頭できる本ならば、何を選ぶのかは個々人の自由だろう。
ただ、本には、専門書と一般書というよくみられる区分の他に、次のような捉え方があるように思う。
つまり、娯楽本と教養書の違いである。この二つはそんなにすっきりと分けられる場合だけではないだろう。両方を兼ねている本もある。
教養書は自分自身の血肉とし、精神的な向上・知的サイズの拡大を図ることができる本だと定義できると思う。
教養書にもいろいろあるけれども、私が今回書きたいのは、哲学書についてである。哲学書といっても、私は哲学には全く精通していない。
しかし、ストア哲学を学んでいる最中であり、ストア哲学の書物ならば、それを読むことによって得られる喜びがわかり、何かしらを書くことができる。
ようやく今回の記事のテーマにたどり着いた。
一人で古人と対話する静かな時間をもつことはどのような意味があるのか。
私が対話する古人は、主にストア哲学者である。
主に、セネカ、マルクス・アウレーリウス、エピクテートスの三人の哲学者と対話する時間が日々の中で至福の安らぎであり、楽しみである。
考えてみれば、読書とは、本質的に対話ではないか。
古典を読めば、人類の悠久の歴史が輩出した輝ける偉大な賢者と一対一で向き合い、対話することができる。まさに時空を超えて、賢者の知恵にふれることができるのだ。そして、自分の人生と自分自身の糧とできる。

江戸時代後期の儒学者で知的巨人、佐藤一斎は、古人と対話することについて次のように語っている。

中国の宋朝や明朝の時代に生きた人々が残した語録がある。こうした語録を読むたびに感じるのは、なるほど同意できるものもあれば、そうでないものもあるということだ。そうだと信じることができるように思われるものもあるが、いやそうでないというものもある。疑うべきだと思われるが、そうでないものもある。
語録をなんども反復して読んでいると、賢人たちと同じ部屋にいて、対面して討論しているような気がしてくるほどだ。こうして古人を友にして対話することは、まことに有益である。

佐藤一斎  佐藤けんいち編訳  『言志四録 心を磨く言葉 エッセンシャル版』ディスカバー・トゥエンティワンより 


古人の言葉を何度も何度も繰り返し反芻することによって、古人の知恵が自らの精神の一部となり、糧となる。
対話とは、相手の言葉をそのままおうむ返しに繰り返すことではない。
自らの批判的思考で吟味し、問いを発するプロセスのなかで、やがて古人のヒントをもとにオリジナルな思考や思索が生まれること。
そうして人生を生きていくという経験が合わさることで、自らのうちに知恵が蓄積される。古人と対話する時間というのは、そうしたリアルタイムな行動と並行して進行することで、知識が行動における実践によって深化されるプロセスが繰り返された先にある知恵の獲得につながるのではないだろうか。
一日の終わりにその日を振り返る時間に、ストア哲学者(に限らず歴史上の偉大な哲学者も含まれると捉えてもよい)とダイアローグする時間をミックスさせることで、自身の失敗や成長、頭の健康の維持、言動に対してそうした偉大な賢者が横で静かに諭してくれるような 静謐な経験を含んだ時間を過ごすことができる。これ以上の喜びがあるだろうか、と考えている。終。

【古人と対話するために私が使用しているテキストを参考までに載せる】

次の一冊は記事でも引用した。



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