見出し画像

一人で自分と対話する静かな時間を持つことの意味

ピタゴラスは、弟子たちに一日の終わりに自分の良心を点検する時間をもつように説いていた。
一日の終わりにその日を振り返り、その日の自分の言動や態度や成長の証などを吟味し、自分(の内面)と対話する静かなひとときをもつようにする、と。
そうした習慣は、ストア哲学の実践法だけれども、ピタゴラスのこの習慣も目的や意味するところ、本質は似ている気がする。
現代人は、忙しすぎるなどして、心や生活に余裕がなくなっている人たちが少なくないといえるかもしれない。睡眠さえ、十分にとれていない人の数も、決して少なくはない。
そんな余裕のない日々が続くと、自分の心が消耗することもある。身体と心は同一のものなので、心身の疲れは体とメンタルの両方に影響が出てくるのではないか。
現代人の社会環境に由来する心身の消耗。これらを個々人のレベルにおいて解消する方法は何があるだろうか。
私はその答えを持っていない。その道の専門家が書籍やインターネットで解説している情報が今ではあり、そちらを参考にするのも、手段の一つだと思う。
ただ、私は、日々の生活のなかで、1人で静かに内なる自分と対話する、静謐なひとときをもつことの大切さについて認識している。
瞑想でも、散歩やエクササイズでもいい。それらの活動もそうした静かな時間の例である。
読書も、内なる自分と対話する時間である。
とにかく、自分の心を整理したり、一日を振り返ることによって、自分の魂を慰めたり、言動や出来事を総括する時間が必要であると考える。
ところで、私はテレビが好きではない。
ニュースやドキュメンタリー番組をたまに見たりはするし、有意義な時もある一方で、夜の時間帯ならなおさら、スイッチを消しておきたいといつも思っている。一人暮らしではないのでそれは無理であるけれど、静かな時間とテレビは対極にあるものだと思う。少し理由を考える。
まず、テレビに映るのは、社会の映像である。室内というプライベートな空間に動的な社会空間があると、なんだか落ち着かないし、出演者のおしゃべりなどは、冗長で、駄弁や騒がしかったりすると、ますます落ち着かない。
そして最も心を乱すのが、事件や事故のニュースである。
夜の時間帯はテレビを含むブルーライトを発するデジタル機器はスイッチを切り、リラックスできることをして過ごすことを私自身、意識している。睡眠にそれが優しい。
事件や事故のニュースを見ると心が乱れると書いたが、何かのはずみで、先ほど私はとある情報番組のテレビチャンネルをつけ、事件の報道を見てしまった。予想通り、心が乱れた。すぐにスイッチを消し、自室に逃れた。
認知科学者のスティーブン・ピンカーは、今日のあなたにとっての一番のニュースは、あなたに何も災難がなく、いつも通り、無事・平穏に一日を終えることができることだ、という趣旨のことを言っていた。
そう、平穏な日常が、穏やかな時が流れていること。自分がそうした穏やかな時を過ごせること。それが日常の最大のニュースだと思う。

ちなみに、ニュースで心が乱されないちょっとしたコツがある。それは、ニュースを映像で見るのではなく、紙媒体で読むということ。最適なのが、読書である。世界や日本で起こっている事象について分析し、考察できるように書かれた良書や短すぎない記事をじっくりと読めば、理解も深まるし、ニュースをたくさん見るよりも、よほど有益な時間になると思う。

情報は紙媒体で、というアドバイスは、ロルフ・ドべリの著作による。
アタラクシアという西洋古代で理想とされた平静な心の状態。これは仏教の涅槃とも共通しており、似ている考え方だという。

現代人は、古代以上にこのアタラクシアを乱す雑多な情報源が多いと言えるのではないか。雑然とした情報の過多は、人々の判断能力や批判的思考を麻痺させ、情緒の微細さや豊かさまで損ないかねないのではないだろうか、とふと思った。

レイ・ブラッドベリの『華氏451度』では、質が極端に乱高下したメディア産業とリンクして、大衆の方がどんどん知的体力が衰え、教養離れが加速し、焚書官が跋扈するような全体主義社会が到来してしまった。

震災のニュースは心が痛む。しかし、被災地の映像を見ていると、ソファに腰掛けながら、くつろいだ体位でそうした映像を見る自分にもどかしさを覚える。逆に失礼ではないだろうか、と。
だったら、人道的なニュースの映像は見るとしても適度に抑えるなどして、十分に気をつけ、充実した日々を送ろうと心がける方がいい。そうすることで、社会に貢献でき、結果的に世の中をよりよくすることにつながっていく気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?