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知的生活はいかにして可能か・読書論エッセイ

レイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』が描くディストピアは、本を所有することはおろか、本を読むことさえ犯罪となる、本を燃やすことが当たり前となった社会である。
そのディストピアの世界は、無知の闇に知性と知識が敗れた世界だ。反知性主義が優勢となり、知性に勝利した世界だ。現代世界の方がこの小説よりも先を行っていると思われるようなリアルな描写やプロットは読む者の背筋を凍らせる。
(だが、この小説を私は半分ほどまでしか読んでいない。NHKのテキストを参考に読解を試みようとしているところである。)

社会のスピードが加速する。人々の生活が社会のスピードに呑み込まれ、人々が余裕をなくし、人々の貴重な時間が、テクノロジーの進歩がもたらした刹那的快楽や無限とも思われる氾濫する娯楽コンテンツに消費されてしまう。仕事と娯楽に日常生活が二極化する。
コンサマトリー(自己充足的)な趣味や教養の復権が失敗し、無駄なもの、無意味なもの、無価値なものの日常性が廃れ、効率や速さ、目標主義や目的論ばかりが社会を支配する。即答が強制され、特にネット上では、何に対しても紙吹雪のように速く意見を吹き散らすあり様が活況である。
これらは『華氏451度』のディストピアの特徴なのだが、どこか私たちが暮らす現代社会に似ていないだろうか。私は少しそんな気がする。

このディストピア世界の特徴のキーワードは、「焚書」の他に、「即答が強制される社会」、「反省的思考が否定される社会」、「スピード病が常態化した社会」、「人々が心に余裕をなくし、味気ない娯楽に身を投じる社会」、である。

例えば、自然観察を趣味として楽しんでいる人をあちこちに見かけるだろうか?街には、自生した野草や花、植えられた樹々があるが、それらの名前や種名、状態に興味を持って楽しみながら観察している人々はどれだけいるだろうか?
街を行きかう人々は、早歩きで急いで通り過ぎてゆく。
電車では、読書する光景よりも、即答のコミュニケーションテクノロジーであるSNSを見ている光景や疲れた顔でスマホを覗く光景を多く見かける。
悲しいことに、出版産業は不況で、書店の数が減ってる上、図書館の予算が削られている。
子どもたちは、勉強という建前の労働に追われ、遊ぶ余裕や自由も、おもいっきりはしゃぎまわる自由も、どんどん制限されている気がする。
現代日本では、子どもも大人も、忙しなさそうに、忙しそうにしている。
とにかく、現代日本では特に人々が余裕をなくし、急かされているように思えるのだ(ここまで書いたことは私の気のせいならいいのだが)。

もっとも、私もそんな一人だろう。スピードの社会に生きる人間だ。
無職なので、読書をする時間はある程度あるが、せいぜい一時的な短いモラトリアム期間を生きている最中といったところだろう。どうやって生きていくかを模索するために読書を少しの生活をしているが、最近は暑くて参る。

以上に綴ったことを一言で言えば、現代資本主義社会がもう限界にきているということに尽きる。人類史の転換点なのだろう。

今回の記事は、そんな時代の転換点に相応しい、私が最近読んだ本の感想文である。

取り上げる本はこの本である。


それにしても、酷暑が続いている。厳しい暑さにあえぐ日々である。
まるで全知全能の神が、地球というホットプレートで目玉焼きを焼き、熱々のコーヒーを淹れているみたいだ。神の朝食が、地球温暖化といったところか。

近代社会は、産業社会であり、スピードの社会だった。貧しい時代だったので、社会が無限に成長し、進歩なるものに向かって人間は皆、頑張らなくてはならないのだ、経済成長しなければならないのだ、というような合意の空気があったのだろう。

しかし、近代から現代に至るこれまでがスピードの社会だったとすれば、これからはスローダウン(減速)の時代である。

この『スロー・イズ・ビューティフル』は、遅さの文化の再発見である。

地球温暖化を招いたのが、近代以来のスピードが加速する社会であり、自然が本来営むゆっくりとした産業文明の時間とは直接交わらない大きなスケールの時間軸の軽視だったとすれば、スローダウンを掲げるこれからは、地球環境や人間らしい生活、土着の知に根差した私たち本来の「知的生活」の復権である。

それは、社会のペースよりも、自分たちの生活のペースを大事にし、休息や仮眠、疲れを癒すことや怠惰すらもが、人間本来の「神聖な権利」として尊重・復権され、命を削る持続不可能な努力をやめ、社会が定めた目標ではなく、私たち一人一人がよりよく生きる道、より暮らしやすい社会の模索であり、再スタートである。

無駄なものや無意味なもの。それは、生産性とは直接関りがない。
瞑想、読書、散歩、静寂、子育て、看護、自然観察や自然散策、趣味、料理、休息、遊び、ぶらぶらすること、語り合うこと、睡眠、夢想、思索、笑うこと、喜び、寄り道、ただぼーっとして過ごすこと。
挙げれば無数にありそうだが、こうしたことは、生産性の観点からしたら、無駄で無意味な時間である。しかしだからこそ、永遠に尊いのであり、神聖な領域、言うなれば、「聖域」なのである。
この本で述べられるように、人生とはこうした無駄な時間の集積である。

静寂は、そうした意味での貴重で希少な体験である。
減速と静寂は紙一重だ。人類は古来、生活に静寂を求めたことにより、偉大な哲学者や探究者の思索や発見に実りをもたらしたのだと思う。
静かな環境での静かな時間に「静慮」し、ゆっくりとものを考え、瞑想し、書くことが保たれたことによって、人類の歴史に燦然と輝く文学作品の数々や稀有な思想と哲学、科学上の発見がもたらされたのだろう。

私は、オランダ黄金期の市民生活を描いた「静寂」のフェルメールの絵画は、当時の17世紀科学革命真っただ中の静けさのある知的環境とコインの裏表の関係にあるのだろうと思った。

注意が希少な資源ならば、静寂も同じように希少である。
近代は、目的地までいかに最短距離で、より速く到達するかを競った「空間と時間の征服」の時代だった。
スピードを音速越えまで高めることで現代は開幕した。
動力機関の進歩は、ムーヴィング(動くこと)を称揚し、ステイング(留まること)を人々に忘れさせた。
だが、それは同時に騒音の増大を招き、静かな時間や静かな環境が現代では希少なものとなった。

それは倫理上重大な問題である。人は、静寂によって、傷ついた魂を慰め、疲れから回復し、猫のように丸くなって休息や休眠を得る。睡眠においては、この世界の誰しもが、暗闇に包まれた静寂を必要とする。

知的創造にゆったりとした落ち着いた静かな時間が欠かせないとすれば、現代では勤勉文化が修正を迫られているのも、わかるような気がする。


努力にも持続可能性が必至である。これは最近の気づきだ。

何でも、ただ努力しさえすればいいというものではない。努力のしすぎは、かえってすべてを壊してしまうよ。

田口佳史著『超訳・老子の言葉』三笠書房より

老子のこの言葉は、真理だろう。先人の驚異的な努力によって近代が起動し、我々は生活水準の向上に始まる大きな恩恵を受けたのは間違えがないのかもしれない。
だが、その一方で、自然環境の破壊が起き、人新世を発動せざるを得ない事態となった。
今世紀の終わりか、次の世紀には、人間がこの地球上で文明を維持し、生活を維持することが困難になるかもしれない。
世界的な知識人のノーム・チョムスキーはそのようなことを語っていた。

だとしたら、私たちは、もはや先人と同じスタイルの生活を続けることはできない。
人類が直面する気候変動は、世界中のインダストリーによる、勤勉な努力によって招かれたのだから、少々皮肉である。そうしたスピードに代表される加速社会は終わり、人類は新たな局面を迎えている。

先住民の知や文化が再注目されている。それがポストアントロポセンを彩るのかもしれない。

AIの進歩によって、古代ギリシア以来の余暇社会が到来したら、17世紀に教養ある人々が望遠鏡や顕微鏡をいじくることに熱中したように、多くの人々が、子どもから大人まで、天体観測や自然観察を趣味とし、17世紀のスコープブームに相応する、何か面白くてたまらない新しい趣味や在野研究に熱を上げだすかもしれない。

社会環境や公共空間が、減速文化と静寂によってデザインし直される。自然散策や自然観察が大きな楽しみの一つとなる。そうした時間の過ごし方がメインストリームになり始める。

出版文化が盛況となる。図書館や博物館があちこちに再建される。
読書家が、もはやふつうになる。

経済成長率ではなく、明確な幸福度によって、人々の社会が定義される。

全世界の人々が漏れることなく、健康で文化的な「最大限の」生活を営むことが当たり前になる。

最後は、ユートピアのような願望になったが、どんな政策や行動も、始めに夢想ありきではないだろうか。始めに私は、『華氏451度』のディストピアの話でこの記事を始めた。

だが、もちろん、そんな世界はごめんだ。そのための読書ではないだろうか。うん、そうだろう。終。








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