【小説】 想像に関する短い小説

 私は、この【小説】 想像に関する短い小説 の中の人物である。ダンテの神曲におけるヴェルギリウスである。したがって、この文章はエッセイやノンフィクションではなく、明確に想像の発露としての小説である。

 布団に入り、目をつぶる。すると、布団が大海原の上を浮かぶ。手や足が布団から外に出たら、海に落っこちてしまう。プカプカと海の上を漂流する想像をしたことがあるか?目を開けてはいけない。背中から感じる波の微細な揺れ、微かに香る潮の匂い、布団から落ちてはいけないという緊張感を想像したことがあるか?

 残虐な想像をすることも可能である。そして、それを表現することも可能である。しかし、その目的は果たしてどこにあるのか。明確な目的があってされるべきである。例えば、残虐な表現を通すことによって、逆説的に何かを伝えるなどである。間違っても、残虐性をエンタメにしてはいけないように思う。

 しかし、一方で残虐性ほど心躍る想像や表現はない。そうした残虐性の想像が、我々の本能を刺激して、野蛮な残虐性を解き放つからである。そうした想像は、心の何処かにある人間の残虐な野生性を補完してくれるのである。残虐な想像や表現は、我々はあくまでも動物である、ということを思い出させてくれる。ある意味では、生命体としての証明である。

 では、残虐な想像はするべきなのか、しないべきなのか、という問題についてだが、人間の理性と野生性は決して切り離すことはできない。そして、この2つによって、人間を人間たらしめる想像を可能にするのである。これは、生命体としての野蛮な野生性を持ち得ないAIとは明確に区別されるところである。AIがいくら残虐な表現をしようと、そこに血は通っていない。それは真に残虐な表現とはなり得ないのである。

 そして、その上で我々は残虐な想像や表現をするかどうかという選択を迫られている。どちらを選んでもいいのである。なぜなら、選択を迫られた上で、残虐な想像をしたとしても、しなかったとしても、我々の残虐性を肯定することになるからである。選択肢に挙げられた時点で、暗黙のうちに残虐な想像を肯定しているからである。そして、残虐な想像をすることも、残虐な表現を越えようとすることも、どちらも等しく人間の想像の力である。

 人間以外の動物は想像をするだろうか。我々は、それを肯定することも、否定することもできる。しかし、いずれにせよ、それは我々の想像である。科学技術によって、いくらそうした証拠を出すことができたとしても、それを信じるか否かは我々の想像にかかっている。だから、この想像という力は大事に、非常に大事にするべきである。

 我々は、我々を人間たらしめる想像を大切にしなければならない。それはいかなる状況においてでもである。例えば、無人島に漂流したとしよう。そこに、人の死体があったとする。君は飢えをしのぐために、その死体を食べるだろうか?非常に残虐な想像であるが、君はどうするだろうか?

 私が思うに、それを食べることも、食べることに躊躇することも、食べないことも、すべて人間的な想像による結果である。生きるために残虐性を乗り越えることも、苦悩することも、自らを守り抜くことも、すべて想像による結果である。だから、無人島に漂流しても、決して想像を手放してはいけない。死ぬときまで、それを手放してはいけない。人間として生きていくために必要なものは、食料でも、睡眠でもなく、想像である。想像という、これまた想像に基づいたあらゆる芸術への生まれ持った造詣を何よりも捨てずに持ち続けるべきである。

 これが、想像の発露である【小説】 想像に関する短い小説 の登場人物である私からの【小説】 想像に関する短い小説 である。

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