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#詩
読みの横糸 ー 詩のアンソロジーについて
ぼくは詩の教室で、「吉本隆明になるつもりでないんなら、好きな詩だけを読んでいればいいのではないか」と言ったことがあるんです。
つまりね、詩の状況を俯瞰的に書きたいと思っているならともかく、そうでないのならば、ただ好きな詩を読んでいればいいんだと、思うんです。
好きな詩を読んでいれば、自然と少しずつ読みたい詩人も増えてくるし、その方が楽しいし、それでいいんだと思うんです。
でも、そうしていると
わからない詩との付き合い方
昔から、詩はむずかしい、詩は訳の分からないものだ、ということが言われています。
ぼくは子どもの頃から詩を読んでいましたので、そんなことはないと、いつも反発していました。
でも、「詩はむずかしい、詩はわけのわからないものだ」という世間の言葉は、決して世間だけの言葉ではないことも、知っていました。
子どもの頃から詩を読んできたぼくにも、むずかしい詩、わけのわからない詩というのは、正直、ありました
単純な世界で詩を書いていたい
もっと単純な世界で詩を書いていたかった、と思うことがあります。
例えばのんびりした国の、のんびりした時代の、昔話に出てくるような世界です。
例えばぼくは、若い頃に詩を書いていて、その後、勤め人になって定年まで働き、そのあとでまた詩を書き始めました。そして最後まで詩を書いて暮しました。
と言う時の「詩を書く」という言葉の中には、その詩がどれほどのものかとか、他にどんな詩人がいたかとか、詩の状況
自分の本を出すということ
ぼくは子供の頃から詩を書いていて、それで、いつか自分の詩集を出したいと思っていた。
だから、こうして歳をとって、本棚に何冊かの自分の詩集が並んでいることを、幸運だとは思っているけど、不思議だとは思っていない。
このために生きてきた、と思うからだ。
ただ、その横に『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』(思潮社)という分厚い本が並んでいることは、不思議でしかたがない。
この本は詩集では
またいつでも、来てください
別に統計をとったわけでもないのですが、詩を書いている人は、生きることが苦手な人が多いように感じます。
横浜の教室の時に、ひとりの女性が来ました。初めて来た人で、すごく緊張しているのがわかりました。ほかの参加者が声をかけても、「はい」と短い返事をするだけです。話が続きません。
教室が始まっても、もちろん何も言わないし、ただみんなの中で座っているだけで、それだけで恐くて仕方がないという感じでした。
詩集を出した日の思い
ぼくが初めて詩集を出したのは、もうずいぶん昔、70年代です。
300部作ってもらって、全部、我が家に送られてきました。
それで、家に300部も積み上がっていても仕方がないし、家族にとっては邪魔だし、誰かに読んでもらうために出したんだし、かと言って放っておいても誰が読んでくれるものでもありません。
なので、有名な詩人や、読んでもらいたい人に送ることになります。
どうやって送るか、そのへんのセ
「石畳」という名詩があった。
先日、Xに書いたように、ぼくが昔読んで忘れられない詩としてとりあげた「石畳」という詩のコピーを、佐野豊さんが送ってくれた。ありがたい。
こんな詩だ。
*
あんまり黙っていると
口の中に石ができる
あんまり静かなので
口だけでも開いておこうと思うのだ
あんまりなにも言わないでいると
口の中の石畳が十畳二十畳と拡がっていく
あんまり暗い所にひとりでいるので
口を寝具のようにたたんで眠りたい
(
詩を書く、ということの源とは
詩を書いていれば、人にわかってもらいたいと思うのは自然な感情だ。自分が書いた詩を、人に認めてもらいたいと願っても、決して恥ずかしいことではないと思う。
でも、詩を書く、ということの源は、そんなこととは別の場所にあるのではないかと思う。
詩を書くということの源は、自分の詩を確立したい、という、単にそれだけの願いなのではないだろうか。すくなくともぼくはそうだった。
むろん、それまでに好きな詩人の
詩を書くことの意味を考えてみよう。
ひとつの例を見てみよう。
(例1)Aという人が、ある詩に感銘をうけた。その人は、自分も詩を書いてみたいと思った。書いてみた。思ったよりも素敵な詩が書けた。人に見せたら、よい詩だと言われた。詩集を出し、賞をもらい、詩を生涯書き続けた。
多くの詩を書こうとする人は、自分がAになりたいと夢見ているのかもしれない。ところが、現実はままならない。Aになる人もいる。でもすべての人ではない。
もうひとつの