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随想(詩について)

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#詩

昔、詩をやめたことについて

昨日は、高円寺の「バー鳥渡」で、さとう三千魚さんと、詩について話しました。聴いてくれた人は8人ほどの小さな集まりでした。気楽に、いろんなことを話したのですが、その中で、詩をやめたことの話になりました。

さとうさんは、詩集を出したあと、30年間の長いあいだ、詩を書かないでいた時期があったそうです。

ぼくも長いあいだ、書かない時期がありました。同じだなと、思いました。

それで、「書いていない時期

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知っている人の活躍に、心が落ち込むのなら

ぼくが今さらあらためて言うことではないけれども、ネットとかSNSというものは、便利であるとともに、付き合ってゆくのがむずかしいものだと思う。

昔であれば、知らないで済んだことまでも、知ってしまうことがある。即座に知ること自体は悪いことではないけれども、それによって、心が乱されることがある。

たとえば、休日に機嫌よく自分の詩を書いていた人が、なんとなくSNSを読んで、知っている人の活躍を見てしま

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詩の朗読について

ぼくはかつて、池井昌樹さんと「朗読嫌いの朗読会」をやろうと約束しました。あれからもうだいぶ年月が経ってしまいましたが、未だに実現していません。

ところでぼくは、実は、朗読された詩、というものに感動したことが、ほとんどありません。

唯一、子供の頃に、テレビで観た「あすは君たちのもの」や「おかあさん」の中で朗読されていたサトウハチローの詩はすばらしいと思いました。

テレビの前で、毎週、あまりの感

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かつて「グッドバイ」という同人誌がありました。

1970年代、同人詩誌「グッドバイ」を創刊した時、わたしは20代でした。

上手宰(かみておさむ)、三橋聡(みつはしさとし)、島田誠一、目黒朝子と、わたしの5人が創刊時の同人でした。

わたしだけでなく、全員が20代だったと記憶しています。目黒朝子が最年長で、次が上手宰、それから松下育男、島田誠一と続き、三橋聡が最年少でした。でも、集まれば歳は関係なく、最年少の三橋は、目黒朝子には「目黒さん」と「

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詩の適齢期について

ぼくは若いころ、詩を書いていて、よく思ったことがあります。

どうして詩人は、歳をとってくると、緊張感の失われた詩しか書けなくなるのだろう、ということです。

自分はあんなふうにはなりたくない、詩がダメになったら、潔く書くことから離れようと、考えていました。

でも、なんということか、ぼくは人よりもずっと早くに、緊張感の失われた詩しか書けなくなりました。

それで、今、自分がもっと歳をとって、考え

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詩はなんの役にたつか

詩はなんの役にたつか、と考えれば、いくつかの答は出てくると思います。人それぞれに違うのかもしれません。

ぼくにとっては、なによりも、「生きていく支えになった」ということでした。

高校生の時だったか、普通は10代後半というのは、溌剌と生きているものなんですけど、ぼくはそうではなくて、けっこう暗かったんです。

当時から猫背だったし、若いということがむしろ邪魔でさえありました。

これといって人に

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「ためになる言葉」にもたれかからない

詩の入門書を読んだり、詩の教室で話を聴いたりしていると、詩についてのさまざまな言葉に出会います。はっとなります。いい言葉だなと感心します。

「擬人法はこうした方がいい」
「想像だけの詩はつまらない」
「詩は説明ではない」
「詩は比喩である」
「詩とは、、、」

それらの言葉に感心して、では自分もその言葉に即して詩を書こうとします。

でも、注意した方がいいと思うのです。万病に効く薬はありません。

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詩の理想とは

下記は、先日の小池昌代さんとの対談で話したことの一部です。

✳︎

詩を書く、という時に、(こちら側)と(向こう側)の二つの側面があると思うんです。

(こちら側)

ひとつの側面は、まさに詩を書くということそのものの側面です。詩を書きたくて書く。書きたくて仕方がないから書く。その側面には、詩と、自分しかいないんです。(こちら側)です。

(こちら側)では、世界を遮断して、自分と詩のふたりき

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ネットに詩を書くことについて

ぼくがネットで詩や文章を載せ始めたのは、50代だったろうか。途中でやめたり、ぜんぶ削除したり、また始めたりしてきたけど、もうかれこれ20年以上も書いている。

それで、もちろん毎日書く垂れ流し(と、言われたことがある)のような文章に、何の意味があるだろうと、考えることはある。

ただ、これも一つの表現に違いがないだろうと思う。

というのも、どこかに読んでくれる人がいるのは確かなことだし、書くもの

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詩に片思いをしている人もいる

詩の教室をやっていて思うのは、誰もが器用で、上達が早くて、センスが良い、というわけではないということです。

詩が好きなのに、なぜか詩に好かれていない人、というのが、いるんです。

詩に片思いをしているんです。

詩がこんなに好きなのに、うまい詩が書けない。どんなに頑張っても、詩がほめられることはめったにない。

ところで、ぼくはこれまで何冊も詩集を出したけど、根本のところでは、ぼくもそうなんだと

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詩を書いていることがバレてしまっても

ぼくは、勤め人をしていた時に、大きな会議室で、財務状況についてプレゼンテーションをすることがたびたびありました。

その頃、ぼくはすでに詩集を何冊か出していて、自分が詩を書いていることが会社でバレてしまっていたのです。若い頃には社内報にまで載ってしまったことがあり、それからずっと同じ会社に勤めていましたから、特に年配の人はたいてい知っていたのです。

そういえば、詩を書く人には、勤め先で、自分が詩

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「かろうじて掴めたのが、詩だった」

「詩を書くことに喜びがあるのであり、その詩が誰かの詩よりも秀でることが本来の目的ではない」と、ぼくは本の中でもたびたび書いている。

その思いに嘘はない。

けれど、自分のことを考えてみれば、「人よりも秀でた詩を書きたい」という思いが、なかったわけではない。

それはおそらく、それまでに、これといった優れたものを持っていないと感じていた自分が、生きている意味を求めて、かろうじてつかむことのできたも

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社会的な事象や事件を詩に書くということについて

詩の教室をやっていて気付くのは、社会的な事象や事件を詩に書く人が少なからずいることです。ウクライナのことや、ガザ地区のこと、あるいは気象変動のことや地震のこと、さらには原爆のこと、あるいは政治のことを詩にしてくる人もいます。

確かに、生きていて、心をじかに揺さぶられることに出会い、それを自分の言葉で表現をしたい、という欲求はわかります。ですから、社会的な事象や事件を詩にする人は、自分の思いを存分

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スランプの時は「ちょっといい詩」を書くつもりで書く

ぼくだけの感じ方かも知れないけど、今となってはすごいと感じている詩も、初めてその詩を読んだ時には、「この詩、ちょっといいな」と感じただけだった。それが時間が経つとともに、その「ちょっといい」と感じた詩が「すごくいい詩だ」と感じるようになっている。

それはなぜかとずっと考えていて、「この詩はちょっといいな」と感じた時の「ちょっと」にはほとんど意味がないのではないかと思った。つまり、初めて読んだので

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