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随想(詩について)

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#詩

詩は人に教えられるものなのだろうか。

詩の教室をやっていてこんなことを言うのもなんなんですけど、「詩って教えられるものなのだろうか」ということを、よく考えるんです。

ぼくは詩の教室で何を教えているんだろう。そもそも教えるってなんだろうと考えるんです。

というのも、知識を積み重ねたり、難解な事柄の理解方法を説明したり、ということならば、「教える」というのはわかりやすいのです。

でも、詩を読んだり書いたりすることに、知識の積み重ねと

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読みの横糸 ー 詩のアンソロジーについて

ぼくは詩の教室で、「吉本隆明になるつもりでないんなら、好きな詩だけを読んでいればいいのではないか」と言ったことがあるんです。

つまりね、詩の状況を俯瞰的に書きたいと思っているならともかく、そうでないのならば、ただ好きな詩を読んでいればいいんだと、思うんです。

好きな詩を読んでいれば、自然と少しずつ読みたい詩人も増えてくるし、その方が楽しいし、それでいいんだと思うんです。

でも、そうしていると

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わからない詩との付き合い方

昔から、詩はむずかしい、詩は訳の分からないものだ、ということが言われています。

ぼくは子どもの頃から詩を読んでいましたので、そんなことはないと、いつも反発していました。

でも、「詩はむずかしい、詩はわけのわからないものだ」という世間の言葉は、決して世間だけの言葉ではないことも、知っていました。

子どもの頃から詩を読んできたぼくにも、むずかしい詩、わけのわからない詩というのは、正直、ありました

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単純な世界で詩を書いていたい

もっと単純な世界で詩を書いていたかった、と思うことがあります。

例えばのんびりした国の、のんびりした時代の、昔話に出てくるような世界です。

例えばぼくは、若い頃に詩を書いていて、その後、勤め人になって定年まで働き、そのあとでまた詩を書き始めました。そして最後まで詩を書いて暮しました。

と言う時の「詩を書く」という言葉の中には、その詩がどれほどのものかとか、他にどんな詩人がいたかとか、詩の状況

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宮沢賢治ニモマケタ

このところ観ているNHKドラマ「この声をきみに」は、偏屈な数学者が朗読に目覚めてゆくドラマで、とても楽しい。

谷川俊太郎の詩もよかったけど、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が出てきた時には、ちょっと泣きそうになった。

むろん、宮沢賢治のすごさなんて、人に言われなくても知っているし、なんで今さらとも思うのだけど、それに、「雨ニモマケズ」とくれば、日本中の人が知っている、ある意味、とうに読み飽きた詩なの

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自分の本を出すということ

ぼくは子供の頃から詩を書いていて、それで、いつか自分の詩集を出したいと思っていた。

だから、こうして歳をとって、本棚に何冊かの自分の詩集が並んでいることを、幸運だとは思っているけど、不思議だとは思っていない。

このために生きてきた、と思うからだ。

ただ、その横に『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』(思潮社)という分厚い本が並んでいることは、不思議でしかたがない。

この本は詩集では

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またいつでも、来てください

別に統計をとったわけでもないのですが、詩を書いている人は、生きることが苦手な人が多いように感じます。

横浜の教室の時に、ひとりの女性が来ました。初めて来た人で、すごく緊張しているのがわかりました。ほかの参加者が声をかけても、「はい」と短い返事をするだけです。話が続きません。

教室が始まっても、もちろん何も言わないし、ただみんなの中で座っているだけで、それだけで恐くて仕方がないという感じでした。

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白玉の思い出

ぼくが若い頃、ネットとかEメールなんてまだなかった。だから原稿は郵便で送っていた。

詩を書いたら封筒に入れて、糊で封をして、夕暮れの街を歩き、赤い郵便ポストに入れていた。

ただ時折、自分で編集者のところまで原稿を持って行くこともあった。

締め切りぎりぎりだったり、編集者が読んですぐにその反応をこちらに伝えたかったり(書き直しの可能性もあるので)、その理由はいくつかあるけど、たまに、休日や仕事

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詩人の親戚

会社員だった頃に、社内にひとり、詩人の親戚だという人がいた。

富永太郎の甥(だったか、その息子だったと思うのだけど)にあたるTという人だった。

Tさんとは、あるプロジェクトを一緒にやっていた時期があって、それで、Tさんは、ぼくが詩を書いていることを知っていて(社内報に載ってしまったことがあるので)、なんどか親戚のおじさん(富永太郎)のことを聞いたことがあったと記憶している。

その時にTさんに

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詩集を出した日の思い

ぼくが初めて詩集を出したのは、もうずいぶん昔、70年代です。

300部作ってもらって、全部、我が家に送られてきました。

それで、家に300部も積み上がっていても仕方がないし、家族にとっては邪魔だし、誰かに読んでもらうために出したんだし、かと言って放っておいても誰が読んでくれるものでもありません。

なので、有名な詩人や、読んでもらいたい人に送ることになります。

どうやって送るか、そのへんのセ

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詩集の帯文についての思い

先日、石垣りんさんの詩を読んでいたら、「坂道」という詩の冒頭に

「若い詩人が
石垣さんに詩集の序文をたのんで
断られましたと
黒田三郎さんに告げたら
おりんちゃんに
そんなことたのんでは可哀相だ
と答えたそうだ。」

とあって、そんなことがあったんだ、とちょっとおかしくなりました。どうしておりんちゃん(石垣さん)には可哀想なんだろう。

ところで、今は「序文」を載せた詩集はほとんど見かけなくなっ

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「石畳」という名詩があった。

先日、Xに書いたように、ぼくが昔読んで忘れられない詩としてとりあげた「石畳」という詩のコピーを、佐野豊さんが送ってくれた。ありがたい。

こんな詩だ。



あんまり黙っていると
口の中に石ができる
あんまり静かなので
口だけでも開いておこうと思うのだ
あんまりなにも言わないでいると
口の中の石畳が十畳二十畳と拡がっていく
あんまり暗い所にひとりでいるので
口を寝具のようにたたんで眠りたい

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詩を書く、ということの源とは

詩を書いていれば、人にわかってもらいたいと思うのは自然な感情だ。自分が書いた詩を、人に認めてもらいたいと願っても、決して恥ずかしいことではないと思う。

でも、詩を書く、ということの源は、そんなこととは別の場所にあるのではないかと思う。

詩を書くということの源は、自分の詩を確立したい、という、単にそれだけの願いなのではないだろうか。すくなくともぼくはそうだった。

むろん、それまでに好きな詩人の

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詩を書くことの意味を考えてみよう。

ひとつの例を見てみよう。

(例1)Aという人が、ある詩に感銘をうけた。その人は、自分も詩を書いてみたいと思った。書いてみた。思ったよりも素敵な詩が書けた。人に見せたら、よい詩だと言われた。詩集を出し、賞をもらい、詩を生涯書き続けた。

多くの詩を書こうとする人は、自分がAになりたいと夢見ているのかもしれない。ところが、現実はままならない。Aになる人もいる。でもすべての人ではない。

もうひとつの

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