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#詩
昔、詩をやめたことについて
昨日は、高円寺の「バー鳥渡」で、さとう三千魚さんと、詩について話しました。聴いてくれた人は8人ほどの小さな集まりでした。気楽に、いろんなことを話したのですが、その中で、詩をやめたことの話になりました。
さとうさんは、詩集を出したあと、30年間の長いあいだ、詩を書かないでいた時期があったそうです。
ぼくも長いあいだ、書かない時期がありました。同じだなと、思いました。
それで、「書いていない時期
詩はなんの役にたつか
詩はなんの役にたつか、と考えれば、いくつかの答は出てくると思います。人それぞれに違うのかもしれません。
ぼくにとっては、なによりも、「生きていく支えになった」ということでした。
高校生の時だったか、普通は10代後半というのは、溌剌と生きているものなんですけど、ぼくはそうではなくて、けっこう暗かったんです。
当時から猫背だったし、若いということがむしろ邪魔でさえありました。
これといって人に
「ためになる言葉」にもたれかからない
詩の入門書を読んだり、詩の教室で話を聴いたりしていると、詩についてのさまざまな言葉に出会います。はっとなります。いい言葉だなと感心します。
「擬人法はこうした方がいい」
「想像だけの詩はつまらない」
「詩は説明ではない」
「詩は比喩である」
「詩とは、、、」
それらの言葉に感心して、では自分もその言葉に即して詩を書こうとします。
でも、注意した方がいいと思うのです。万病に効く薬はありません。
詩に片思いをしている人もいる
詩の教室をやっていて思うのは、誰もが器用で、上達が早くて、センスが良い、というわけではないということです。
詩が好きなのに、なぜか詩に好かれていない人、というのが、いるんです。
詩に片思いをしているんです。
詩がこんなに好きなのに、うまい詩が書けない。どんなに頑張っても、詩がほめられることはめったにない。
ところで、ぼくはこれまで何冊も詩集を出したけど、根本のところでは、ぼくもそうなんだと
詩を書いていることがバレてしまっても
ぼくは、勤め人をしていた時に、大きな会議室で、財務状況についてプレゼンテーションをすることがたびたびありました。
その頃、ぼくはすでに詩集を何冊か出していて、自分が詩を書いていることが会社でバレてしまっていたのです。若い頃には社内報にまで載ってしまったことがあり、それからずっと同じ会社に勤めていましたから、特に年配の人はたいてい知っていたのです。
そういえば、詩を書く人には、勤め先で、自分が詩
「かろうじて掴めたのが、詩だった」
「詩を書くことに喜びがあるのであり、その詩が誰かの詩よりも秀でることが本来の目的ではない」と、ぼくは本の中でもたびたび書いている。
その思いに嘘はない。
けれど、自分のことを考えてみれば、「人よりも秀でた詩を書きたい」という思いが、なかったわけではない。
それはおそらく、それまでに、これといった優れたものを持っていないと感じていた自分が、生きている意味を求めて、かろうじてつかむことのできたも
社会的な事象や事件を詩に書くということについて
詩の教室をやっていて気付くのは、社会的な事象や事件を詩に書く人が少なからずいることです。ウクライナのことや、ガザ地区のこと、あるいは気象変動のことや地震のこと、さらには原爆のこと、あるいは政治のことを詩にしてくる人もいます。
確かに、生きていて、心をじかに揺さぶられることに出会い、それを自分の言葉で表現をしたい、という欲求はわかります。ですから、社会的な事象や事件を詩にする人は、自分の思いを存分
スランプの時は「ちょっといい詩」を書くつもりで書く
ぼくだけの感じ方かも知れないけど、今となってはすごいと感じている詩も、初めてその詩を読んだ時には、「この詩、ちょっといいな」と感じただけだった。それが時間が経つとともに、その「ちょっといい」と感じた詩が「すごくいい詩だ」と感じるようになっている。
それはなぜかとずっと考えていて、「この詩はちょっといいな」と感じた時の「ちょっと」にはほとんど意味がないのではないかと思った。つまり、初めて読んだので