「石畳」という名詩があった。

先日、Xに書いたように、ぼくが昔読んで忘れられない詩としてとりあげた「石畳」という詩のコピーを、佐野豊さんが送ってくれた。ありがたい。

こんな詩だ。



あんまり黙っていると
口の中に石ができる
あんまり静かなので
口だけでも開いておこうと思うのだ
あんまりなにも言わないでいると
口の中の石畳が十畳二十畳と拡がっていく
あんまり暗い所にひとりでいるので
口を寝具のようにたたんで眠りたい

(後略)
   (「石畳」より)



なるほどこの詩だ。半世紀前に読んだ時の記憶が蘇った。

この詩を読んだ頃の若い自分を、しばらく思い出していた。

この詩を読めば、この詩の言葉遣いやイメージからは、ぼくの詩もかなり影響を受けたのだなと、思った。あるいは、この時代の詩のありように影響を受けたのかもしれない。

ネットで調べてみると、この詩は守靖男詩集『わが夢と比喩の蜜月』(砂子屋書房)に入っている。1986刊の詩集なので、詩が書かれてからだいぶ経って詩集を出したようだ。

ネットでは、この詩集の「あとがき」も読める。守さんはぼくより二歳年上で、ぼくと同じ福岡の生まれらしい。平出隆さんと同じ高校を卒業したと書いてある。

守さんの「あとがき」の文章をなまなましく感じたのは、ぼくとほぼ同じ時代に、同じ場所で生まれたからだろうか。たぶんそうではないだろう。最初の部分を引用してみよう。



 およそ十年ほど前、高校の後輩である平出隆が処女詩集『旅籠屋』を上梓した時、ぼくは彼の晴れがましい出発に対する多少のやっかみと、時期尚早ではないのか、という危惧の念とが入り混った複雑な気持をこめて「とうとう取り返しのつかないことをしてしまったな。」と、やや皮肉な口調で電話口で話したのを今でも鮮やかに覚えている。
 何故か「おめでとう。」と素直に拍手する気持にはなれなかったのだ。ちょうどその頃、ぼくは詩作をすっかり断念していたし、短歌という形式に興味を抱きはじめていたからでもあろうが……(そして電話の直後、阿佐ヶ谷駅前のスナックで逢い、その輝かしい詩集を受けとり、ほろ酔い気分で彼と十年間の東京生活とに別かれを告げたのだ。四国高松への片道乗車券だけを上着の内ポケットに入れて――。)しかし、その後の彼の順調な活躍ぶりを見るにつけて、その行為が結果的には時機をうまく捉えた素晴しい決断であった、と今さらながら感心しているのである。
 それはともかく、今度はぼく自身がこうして彼よりも十年も遅れて処女詩集を出すことになった。あまりにも遅きにすぎたという感じであり、少しおもはゆい妙な気持である。ところで、ぼくの詩歴および詩作行為について少し詳しく記しておこう。

(後略)

  (守靖男詩集『わが夢と比喩の蜜月』の「あとがき」より)



「あとがき」はこのあとさらに長く続いていて、自分の詩に対する思いが詳しく語られている。

同じ世代だから当然ありうることだけれども、ぼくも当時、平出隆さんの『旅籠屋』(紫陽社)を、打ちのめされるようにして読んでいた。

それにしても、自分と同じ場所で詩を書いていた後輩が活躍していて、多少やっかんでいる、という文章を、自分の詩集の「あとがき」に書くというのは、いったいどんな気持ちなのだろう。

でも、ぼくはこの文章をヒトゴトでなく読んだ。この「やっかみ」は、どこか、守さんだけのことではなく、多くの人にとって、「詩を書く」ことの心の揺れや苦しみに繋がっている。そんなことをこの文章から感じてしまう。

現れ方は違っていても、詩を書く人すべてにとって、個々に対処してゆかなければならない問題なのだろう。

そして、ぼくが繰り返し「詩の教室」で、人は人なのだし、自分が「生きてゆくために書く詩があってもいい」と、単純なことを言い続けているのも、もちろんこの問題と無縁ではない。

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