見出し画像

甘さと人類(雑記7 甘さの多様性)

甘さの多様性という表現が適切なのかわからないが、つらつらと甘さについて書いていこうと思う。

そもそも甘さの多様性とは何か。甘さというものを単ブドウ糖、フルーツに含まれる果糖、、、と科学的な名称で語ろうとすると、科学的で、味気なくて、無機的でなんとなく質量がないようなイメージが湧いてくるし、一方甘さというものと歴史を 雑記1〜6のような人と甘さとの関わり方とセットで甘さの意味を思考すると甘さというものが熱量のこもったものになる
 とはいえ科学というものを否定するつもりもない。筆者も科学は大好物であるし、何よりもロマンを感じてしまう。遠くさかのぼり見知らぬ祖先の色々な発明により私たちの今がある。あるがままで良いよという発想のままで祖先が生活していたら、人口は増えず私たちの多くは生まれていないし、多様なライフスタイルは生まれていない。


寒い時期がくるたびに人類は飢饉を気にして怯えていた。農耕が始まったのは最後の氷河期が終わり暖かな時期が到来した約1万年前と言われいるが人類が暖かな時期に人口を増やしていき、寒冷期には人口激減、生きるために罪人として死んだ人を食べてきたという文献もある。おぞましくて想像したくも無いが、それでも生きることを選んでそのような行動をとる人もいたようだ。寒冷期に滅んだ文明や帝国も多々ある。インドの南西で起こったインダス文明は寒冷化により弱まっていき、インド=ヨーロッパ語族系遊牧民のアーリア人が暖かい地域に向かい南下したことにより滅んでいった。滅んだ理由をそんな短絡的な理由で説明して良いとは言えないが、それくらい食糧が無くなり生死と隣り合わせの世の中というのはそれだけ不安定なのだろう。他にはメソポタミア文明のアッカド帝国も寒冷期に滅亡、寒冷化によりゲルマン民族が南下しローマ帝国は大きなダメージを受けた。(ここでいうゲルマン人とは現代のドイツ人のことでなく、当時のローマ帝国以外の非カトリック系の民族という表現の方がおそらく正しいと思われる)教科書で習う歴史だとゲルマン人を野蛮人と表現していたりするが、ローマ帝国を主人公とした時の敵対関係としてゲルマン人を表現しているため野蛮と表現している。文化人類学者のレヴィ=ストロースが未開や野蛮というものと文明を比較して、未開や野蛮が時代遅れて粗野なものでなく極めて自然科学に基づいて植物を分類して生活してきた事例を述べているが、物事や歴史を中立的に書くことは難しのか、利権と結びついているのかわからないが善悪二元論で一方の立ち位置で物事を認識するのは怖いことだ。筆者も自戒しなければいけない。ゲルマン民族も自分と同じ人類を食べるくらいなら南下して暖かな土地で過ごしたいと思うのは真っ当だ。生きる権利は誰にでもあるのだから。

実際には私たち人類は当時野蛮と表現された人々の自然科学的集積を教授している。アンデスなどの寒冷地域でその土地に土着した品種でジャガイモが育てられてきた。彼らの忍耐力ある観察力により約4000種類のジャガイモがあり、それらの恩恵を受けて寒冷地方はジャガイモにより生き延びてきた経緯もある。トマトやとうもろこしも中南米の人類の自然科学的に長けた観察眼のおかげだろう。日本にだって大和野菜と言われる奈良時代などから食されていたその土地と馴染んだ野菜があり豊かな色や形をしていて、風味も良い食材はある。


寒さに起因して人類は観察と知識の集積、智慧による改良を繰り返してきた。農業革命は寒冷時期にしばしば起きたし、ニュートンもガリレオもケプラも寒冷期化して厳しい生活を送らざるえなかった時代に生まれ、当時それまでのカトリック系キリスト教を揺るがした。その結果宗教革命がドイツで起こり科学的思考に基づいたプロテスタントが生まれた。プロテスタント的思考の強いドイツでフロイトによる心理学が生まれ、哲学や社会学の研究も進んでいった。イギリスで起こった産業革命により我々人類が自然の脅威に怯える事もだいぶ減った。

もっと昔にさかのぼると、人類(アウストラロピテクス)が約540年前に登場し、約50万年前に火を使うようになったと言われている。人類は火を使うことで短時間で食することが可能となり、栄養の吸収量が50%増加し、夜の時間など自由に使う時間が増えて、火を囲んだ車校時間も増えたために他人とのコミュニケーション量が増えて脳のサイズが増えていった。アウストラロピテクス時代の脳のサイズが1とすると、火を使い出して脳のサイズは1.5倍になったと言われている。人類が火を使うというテクノロジーを手に入れたために我々人類は多くの恩恵を受けてきた。


 だいぶ脱線したが、甘さの多様性に戻る。科学的な甘さというものはあるが、人の甘さの多様性とは、どんな食べ物を通じて甘さを摂取するかによるのだろう。輸送コストが最も低いローカルで入手可能な甘いものの影響が大きいのだと思う。そもそも甘さの多様性と表現して良いのか悩む。甘さとは、、というのは科学的な定義なので、甘さという表現をした瞬間にそれって多様性がある表現ではないのである。甘さとは紀元前にギリシャの自然科学や哲学に最も精通していたと言われ、南欧とエジプトや中東の文化をごちゃ混ぜにした文化と言われるヘレニズム文化が起きるトリガーとなったマケドニアのアレクサンダー大王の家庭教師でもあったアリストテレスが定義したものなのである。科学の良くもあり悪くもある面としては、一度広がるとそれが制度のように中央集権的に広がり認知されて絶対的な権利を得てしまうようなところだと思うが、甘さもそもそも甘さと表現しない人々もいる。
 

甘いものを食べた時に、甘いと表現せずに「良い」と表現したり「快い」と表現する人々もいる。甘いものを脳がどう感じるかで表現しているのだ。これを野蛮で教育水準が極めて低いと表現することも簡単だが、彼らからすれば先進国は森林を伐採し遠く昔の地球からの贈り物の石油や石炭を無尽蔵に無料化のように掘り出して地球の植物が吸収しきれないくらいの二酸化炭素を排出し続けてきた。それらの地球の破壊行為を前提とする生活を謳歌する科学や学問がとても最先端とも思えないだろう。


地域毎の多様な甘さを書こうと思って描き始めたが、そもそも甘さを甘さと表現して良いのかという迷路に迷い込んでしまった。。。また次回に続きを書いていこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?