ホラー短編① アマネ/AmanE
玄関に人を入れるのは珍しくはないが、女が来るのは久しぶりのことだった。
何度も呼び鈴を鳴らしたけど反応がなかったので仕方なく玄関扉を開けて入ってきたらしい。古い家はあちこちガタがきているので不便ばかりだ。排水管のつまりで業者を呼んでいる最中だったので気づかなかったのもあるが、俺は唐突に現れた訪問者に戸惑いを隠せなかった。ショートカットでスタイルの良い女だった。框の段差から俺を見つめる視線の高さに気を奪われていると、女は家の前に停めてある業者の車を指差した。
「トーラー、使ってますよね?」
俺は生返事をもらした。トーラーとは排水管のつまりを掻き出す専用の機械だ。古くなった水まわりには油分などが固まり、高圧洗浄だけでは取れない汚れがたまることがある。市内ではこの電動トーラーを使っている業者がほとんどなく、女も以前同じように遠くから依頼したことがあるのだと言った。このうらぶれた町内で初めて見る顔だったが、汚水が逆流した台所の惨状と、凛とした口調で喋る女との板挟みで、その瞬間にこまかいことは訊けずじまいだった。
予期せぬトラブルは起きるものだから困った時は助け合いましょう、と女は11月の冷たい空気が入り込む玄関で頬を緩めた。馴れ馴れしさこそ感じなかったが、若くもなく、年がいったほどでもない、同世代的な「近さ」があった。お互いそう思ったはずだ。
女は周と名乗った。
「モダン・ホラーがお好きなのですね」
その夜、翌日のゴミ出しのため置き場の蓋を開けた俺の背後から声が飛んできた。周が立っていた。
「アムウェイか何かか?」
肝を冷やされたのもあって、俺は強い態度を取った。周はそれが可笑しかったらしく、カラカラと笑いだした。
「ごめんなさい。日中、脇の書棚に目がいったものですから」
月明かりの下で見る周は、昼間の中性的な印象とは違い、やけに艶かしい雰囲気を纏っていた。たしかに古い書棚に、読んだことすら忘れていたスティーブン・キングの小説がいくつかあったはずだが、それを目ざとく見ていたとは。
聞けば、周は怪談師として活動しているらしい。俺の語気で壁が取り払われたと感じたのか、敬語での会話はここまでだった。
「こんど街で主催するイベントがあるの」
周はおもむろに肩にかけたクラッチバッグに手を伸ばす。名刺代わりに差し出されたフライヤーには、〈古民家で語らう怪談の秋〉と銘打たれている。自前で配っているのか、口ぶりからして、誰かれかまわず誘っているようなものでもなさそうだった。この手の戯れには興味が持てなかった。
「それがどんな催しなのかはよく分からない。人前でホラを吹くのが楽しいのか?」
高等遊民の暇つぶしだろう。一見はお断りだが、あなたなら特別に、といった手口なら知っている。俺は周の眼をじっと見据えた。イベント参加費など、配管洗浄代に比べれば微々たるものだが、騙されるのはごめんだ。
「大ボラよ、膝を打つくらいのね」
この時、俺は大事なことを忘れている自分に気づくべきだった。
枯葉がアスファルトを這う音に避けがたい冬の訪れを感じながら、俺は会場に足を運んでいた。リノベーションが施された古民家は、普段はカフェとして開いているらしく、室内は白茶けた板張りの床にヴィンテージ調の椅子が並ぶシャビーシックな空間だった。談笑している来場者らの顔ぶれは、老若男女さまざまだ。
イベントは、怪談師である周を中心に輪を囲み、来場者が持ち寄った怪談を順に披露していく方式だった。スタンダードな心霊モノから、血も涙もない殺人鬼の話、亡き夫との邂逅、本格推理チックな奇譚など、各々がこの日まで抱えていたもの、練り上げてきたストーリーを同志たちと共有していくうちに、一種の救済が果たされるかのような雰囲気が場内に満ちていた。
俺にはアル中のリハビリ会にしか見えなかったが、そうこうしているうちに番が回ってきてしまった。オーラルコミュニケーションは苦手ではないが、一方的に喋り続けるのは不得手だった。
「さあ、本日のゲストにも語ってもらいましょう」
意地悪な声色で周が俺の方を向いた。フライヤーを渡された時には、ネタがなくても客として見にくるだけでかまわないと説明されていたが、やはりすでに彼女の術中に嵌っていたのだ。俺は観念し、10代だった頃に体験した奇妙な出来事を記憶のフォルダから引っ張りだすことにした。
※
話は16年前に遡る。今の家にまだ祖父母が暮らしていた頃に起きたことだ。当時、車の免許をとったばかりの俺は、市外の実家から祖父母の家に遊びに行くのが一番の楽しみだった。駄菓子屋を営んでいた祖父母の家は、玄関とは別に店の入り口があり、俺はそちらの扉を開け、レジに座る祖母におねだりするのがお決まりになっていた。
—甘いものとしょっぱいもの、両方あると助かるからね。祖母は遠方から来た俺に駄菓子をありったけ持たせてくれる。半分はその場で食べてしまうのを見越してのことだ。
奥の居間では足を悪くした祖父が静かに佇んでいる。長年の重労働で体が思うようではなくなった祖父の代わりに、買い出しや家事の手伝いを、たまにでもしてやるのも俺の役割だと思っていた。この日も、夕方になり祖母を連れ近所のスーパーで晩飯を買わせてから帰宅するつもりだった。
あの時は鈴虫が鳴いていたから、冬に差しかかる手前だった気がする。
家の前で蒼白となっている祖父を見て、何かよくないことが起きたのを察知した。杖を震わせ「やられた」と歯噛みする祖父をなだめるのに一苦労した。
道を教えて欲しい、と尋ねてきた男は玄関先で訝しむ祖父におうむ返しを続けると、のどが渇いたから水を飲ませてくれないかと台所まで上がってきたと言う。はじめは穏当に接してたものの、あまりの臆面のなさに、いい加減にしろ、と祖父が声を荒げると、男はそそくさと立ち去った。駄菓子屋の入り口が半開きになっているのに気づいた頃には時すでに遅し、だった。
「怪我がなかっただけ、もっけの幸いだ」
空になったレジを検分する警察を脇目に、俺はため息をついた。ツーマンセルで、片方が時間稼ぎをしている間にもう片方が店側に侵入していた。明らかに、祖父が一人になった頃合いを見計らっての犯行だった。近所の悪ガキの仕業かと思われたが、結局、犯人は見つからずじまいとなってしまった。
祖父の証言むなしく、やぶの中となった犯人象だが、事件直後の家の中で奇妙なことが起きていた。台所が水浸しになっていたのだ。
「蛇口からは水が出っぱなしになっていたが、排水の異常はなく、隣にある冷蔵庫や食器棚の下まで水たまりが広がった原因はついぞ分からなかった。家中の雑巾を使ったのが懐かしいな」
点検口も調べたが、水回りが悪くなった様子は見当たらなかった。犯人の男が水を飲んだのは覚えているものの、床にこぼすようなことはなかったはずだと祖父は言い残している。
ほどなくして、駄菓子屋をたたむと、祖母は施設に入り、祖父は数年後他界した。しばらく空き家だったその家に今は俺が住んでいる。
話が終わると、聞き入っていた来場者たちがお互いを見やりながら困惑の表情を浮かべていた。
物足りないな それからどうなったんだ?
皆、顔にそう書いてあった。
周が、持っていたマグカップをさすりながら「続きは会員限定で、といったところかしら?」と芝居がかった台詞を挟んだことで場内では笑いが漏れ、その場は取り繕われた。
イベント終了後、足早に会場を後にする俺を周が呼び止めた。
「あの話、悪くなかったわ」冷血動物の眼をしていた。「うまく料理してる」
降り出した雨が、雹になりかけていた。
※
どんな寂れた地方都市だろうが、誘惑というのは必ず存在する。酒もギャンブルもやらない俺のような男が、怪談師などという女の低俗な誘いに乗ったがために、よくわからないサークル内で衆目を集める羽目に遭ってしまったのだから、一寸先は闇というほかない。
あれ以来、周とは会っていないが、脳裏には彼女の残像がまとわりついていた。疼痛が走る頭の中で俺は、「うまく料理してる」という言葉を反芻していた。
「解体工事?」
「ええ。ご存じなかったんですか。明後日ですよ」
町内で唯一、付き合いがある隣家のご老人と出くわした際に知ったことだった。
「ずいぶんとほったらかしていたようですけどね、ごく稀に娘さんが出入りされているみたいで」
近所づきあいを疎かにしなさんな、と諌められた俺は、2日後には取り壊される予定だという裏手の家を眺めていた。ちょうど家と家の間に伸びている銀杏の木々のおかげで気に留まることがなかったが、それはすでに廃墟同然の荒屋となっていた。軒天は剥げ、屋根瓦が溶けたチョコレートのように今にもずり落ちてきそうな外観、加えて11月だというのに、2階の窓には硝子が嵌められておらず、錆びた鉄格子が覗いている。
まるでコウモリの巣窟だ。こんなボロ家がすぐ裏に建っていたとは。日没が訪れ、家はふたたび気配を消す。自分の地図にささやかなランドマークが加わったことを喜ぶほど無邪気ではないが、俺はもやのかかる頭のまま、この苔が乱雑に張り付く家の門をいつの間にかくぐっていた。
他人の居住空間に入ると、独特の生活臭がお出迎えしてくれるはずだが、ここには乾いた風が吹き抜けたあとの物寂しさだけが充満していた。廊下に伸びるヤブガラシが、この家から命を奪っているようだった。なぜ電気がまだ通っているのか考えるより先に、薄明かりが明滅している奥の間に歩を進めていた。物が少ないせいか、思ったより広く感じる。俺は律儀に靴を脱いだことを後悔していた。暗がりの床を踏みしめるうち、靴を脱ぐ前よりも足が重くなっていた。粘度の高い液体を靴下が吸っていた。
奥の間の壁面にはびっしりとモニターが並んでいた。ホームビデオらしき手ブレした映像で、子供が育ち、思春期を迎え、成熟していく様子がタイムラプス仕立てで流される模様にどこか懐かしさを感じたのも束の間、画面の人物が誰か判り俺は慄然とした。
俺は、画面の中で俺を見ていた。
まだ黒い髪が残る祖父に肩車され、海に入るガキの頃の俺がいた。
車で家に到着し、駄菓子屋の扉を開ける俺がいた。ブラウン管で甲子園を楽しむ祖父の足の爪切りをしている俺がいた。助手席に祖母を乗せハンドルを握る俺がいた。デュアルモニターの中で動いているのは、すべて昔の俺だった。
「あら、おかわいいこと」
背後に周がいた。
「どうなっている、」蚊の鳴くような声が喉からひり出された。
「流しているだけ。ただそれだけよ」やおら画面を指差して周は言う。「あなたは気づいていたはず」
暗転したモニターから、道を教えて欲しいという声がした。ふたたび映像に目を向けると、祖父は相手を家に招じ入れていた。地図を開いて説明をしている様子だ。台所の脇に設られたテーブルの上に、背の高い影が落とされている。何度もたしかめるように道順を繰り返す声の主に聞き覚えがあった。間違いなく若かりし頃の周だった。
「お祖父様はご親切に、紅茶までお出しようとしてくれたのよ。あなたの話では渋々ご対応していたことにされていたけどね」
あの日、祖父をたぶらかしたのが女だったことは知っていた。記憶を改竄したつもりもなければ、変に脚色をしたつもりもない。慮るなどもってのほかだ。なのに、周を前にした俺は——
「流れるものと流れないものがある。あなたの場合、ここまでは流れたけど、この先は」
暗闇が白く瞬くと、意識はそこで途切れた。
※
先日は水のトラブルで当社をご利用いただき
誠にありがとうございます。
その後、何か問題はございませんか。
これからも水まわりに関するお困り事が
ございましたら お気軽にご相談ください。
すぐに対応いたします。
まずは取り急ぎ、書中にて
お礼申し上げます。
株式会社〇〇 代表より
ずいぶん眠っていた気がする。おかげで首が寝違えてしまった。なぜか解散した某アイドルグループが忘年会の席で一同に会する夢まで見た。何の深層心理なのかさっぱりだ。しかし気分だけはすこぶる良い。郵便受けに入っていた手紙をあらためた俺は、昨日より一層底冷えのする中、裏手の解体工事による騒音で呼び鈴を鳴らす来客に気づかず台所でコーヒーを啜っていた。
反応がなかったので仕方なく玄関扉を開けて入ってきたという人物に、普段なら悪態をつくところだったが、その日はやめにした。
玄関に人を入れるのは珍しくはないが、女が来るのは久々のことだったからだ。
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