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受験と読書

 受験において、「読書」が必要かという議論は、昔から行われています。この議論については絶対的な答えはありません。国語を教えている講師であれば、それぞれが「読書」について一家言を持っているでしょう。それが子供を合格に導いた経験から来るものであれば、全てが正しい答えだと思います。どんな取り組みでも、前向きに取り組んでいれば、必ず成長するところがあるものです。故に、ここでも私たちの経験に基づく考えを説明させていただきます。

 私たちは、「受験」においては「読書」は必要ないと考えています。もちろん、「読書」は大切です。しかし、それは受験とは関係ないところで大切なのであって、受験と結びつける必要のないことです。もし、「受験のために読書をしなければ…」とか「学力を上げるために読書をしなければ…」という動機で本を読めば、本来の「読書」の価値を損なうと思っています。好きな時に、好きなように読むのが「読書」です。その動機が打算的なものであっては「読書」になりません。もし、打算的な動機で子供に本を読ませようとしたならば、その子はきっと「読書」が嫌いになるでしょうし、国語が嫌いになるでしょう。それは、私の指導経験の限りでは、確信に近いものがあります。

 もう少し具体的に「読書」が必要ない理由を申し上げますと、「国語の入試問題について」で書いたことにつながります。

 国語の入試問題では筆者の表現ではなく、作問者の意図を理解することが大切です。国語の入試問題の理解は、文章全体を読んで筆者の想いを理解する必要も無ければ、深い思索に入る必要もありません。したがって、「読書」で求められるような「本そのもの」と向き合う姿勢を必要としないのです。些末な話をすれば、「成績」という観点で言えば、全部読んでいる時間が勿体なく、その時間を他教科の勉強に充てた方が、はるかに効率が良いです。また、「読書」で本来重要になる「思索」と、「受験」というものの相性が良くありません。「読書」とは、本来は時間を気にすることなく、自由に思索しながら読むことが大切です。作業のようにして読んだ「読書」は、本当の意味での価値を生み出せているとは思えません。「読書」は、思索に十分な時間を費やすからこそ価値が生まれるものになります。

 ちなみに、私たちが速読術に対する否定的な立場を示すのも、「読書」の本質的な価値を損なう危険性があるからです。

小学生の時に「読書」が「効率を追求する作業」として刷り込まれてしまったとすれば、その子は人生で大きな損をしてしまったと言えるのではないでしょうか。だからといって、受験期に「読書」の本質的な価値を追求しようものなら、先にも述べた通り、時間効率が悪くなるだけなのです。よって「受験」においては、「読書」に時間を費やす必要は無いと考えています。

 わたしたちは、「読書」というものは、何かの「手段」として行われるものだと考えていません。「読書」は、あくまで「読書」自体が「目的」として行われるものだと考えています。
 ゆえに、人生を豊かにするために、子供たちには「読書」を「読書」のまま身に付けてほしいと考えています。

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