見出し画像

ライバル(3)

第三章

「どうもお待たせしました。茶土先生、才上さん、ごぶさたです。本日はどうぞよろしくお願いします」
 夕暮れ時、ボリュームのある白髪を湛えた正理が研究室に到着した。パンパンになった大きなボストンバッグを肩がけしている。手には手術で使うような白い手袋をしている。指紋をつけないための配慮だ。捜査の開始である。
「これは大変なことになっていますね」
 部屋を見回した彼の声には、驚きというよりは探究心がにじみ出ていた。茶土から今朝の出来事について詳細を聞き出す。
「犯人の目的は何なのでしょうね? 単なる物取りとは思えませんし。機密データを盗みに来たのか、茶土先生への個人的な恨みか、それとも別の理由が存在するのか。データやプログラムが盗まれた形跡はございませんか?」
「メモリが抜き取られていました。これがそのメモリです」
 茶土は机の上に並べた二枚のメモリボードを指差した。破壊された形跡はない。
「中身は消されていて、使い物になりません」
 茶土はそう言いながらメモリ消去装置へ視線を投げた。
「なるほど、意図的に内容を消されたわけですね。メモリの中には何が?」
「ロボットの学習データです。毎日帰宅前にバックアップを取っているサーバー上のデータは全て無事でした」
「つまり、金曜夜の分までのデータは無傷で残っていると」
「先ほどサーバーを管理者に不正アクセスがなかったか調べてもらいました。どうやらほんの数分だけ集中的に侵入を試みた形跡があったらしいのですが失敗に終わったようです」
「アクセスは何回に渡って、いつ頃行われたのですか?」
「いずれも私が研究室にいない時間帯が狙われていました。夜中が多いですね。たくやが破壊される二日前から日曜まで。今日は今のところ攻撃されていないようです」
 正理は腕を組んだ。犯人の目的は何なのか。データを盗むことが目的なら目立ち過ぎだ。もっと気づかれないようにするだろう。
 全て元通りに戻した方が、誰にも気づかれずに済む。単に研究成果を盗みたいだけならば、その方が合理的だ。
「もちろんメモリ上のデータは暗号化されてますから、簡単には盗み出せなかったと思います。それにデータは分散されていて、このメモリに入ったものだけでは使いものになりません」
「とはいえ、こういったことが続けばどうなるか分からない。茶土先生の研究については、わたくしも承知しているつもりです。もしこれが国際的な犯行となれば、ことは重大です。その可能性が高いと判断した場合には捜査を警察に引き渡します。よろしいですね?」
 正理の優しい眼差しとは裏腹な強い言葉に、茶土は無言で首を縦に振るしかなかった。
「いくつか質問をさせていただきます。このメモリボードはロボットのどこにつくようになっているのですか?」
「一枚が左脚の関節の辺りで、もう一枚が右肩の辺りになります」
 なるほど、という感じで正理が頷いた。
「知らないと、どこに設置されているのか分かりにくい場所ですね」
「ええ、ロボットを作る際、最初に安全性を徹底的に考慮しましたから」
「しかし、今回このような自体になってしまった」
 正理の一言で茶土は泣きそうな顔になった。
「申し訳ございません。茶土先生を泣かせるつもりで言ったわけではないのでご容赦願います」
 こういったところは紳士だ。自分の非をすぐに認める。
「そうすると、ロボットをバラバラにしたのは、メモリの場所を探し当てるために片っ端から解体していったため、という推測ができます。メモリがどこに格納されているかを知っているのは茶土先生だけですか?」
「私と学生くらいです」
「学生というのはOBも含みますか?」
 茶土がこくんと頷く。
 続いて正理は、ソファのそばに立っている才上に視線をやった。視線に気づいたのか、首を前に出し、口を開いた。
「先生、ごぶさたしてます」
 恭しくお辞儀をする。最近の若者は礼儀正しい。正理は自分の若い頃を思い出し、苦笑いをした。
「実は」
 才上が言いにくそうに口ごもる。
「どうぞ、遠慮なく発言してください」
 正理が促すと、堰を切ったように喋り出した。
「私は常田先生が怪しいと考えています。彼は学長の座を茶土先生と争っているんです。茶土先生に『自己管理がなってない』なんて難癖をつけて陥れようとしているのではないかと」
 茶土はうなだれ、ため息をついた。才上を睨み、なぜそんな根拠のない話をするのだと目で訴えている。
 しかし才上は気にも留めずに話を続ける。正理は黙って、首を縦に振りながら才上が話を終えるのをじっと待った。
「では常田先生にもこちらに来ていただきましょう。こんな時間ですから、すぐに呼ばないと帰ってしまうかもしれません」
 時計を見ると、間もなく七時になろうとしていた。才上が「呼んできます」と言って駆け足で部屋を出ていく。
 茶土は心配そうに才上の背中を見送っていた。我が子の出立を見送る母親のようだ。
「常田先生に機嫌を損ねられなければいいのですが」
 正理は、茶土の心配していそうなことを先回りして口にする。茶土は苦笑しながら頷いた。
「私が常田先生を呼びにいけば良かったですね」
「心配しても手遅れですから、あなたの教え子を信じて待ちましょう。これまでの彼を見ている限り、いい青年じゃないですか」
「そう言っていただけると安心します」
 二人で話をしていると大きな男が部屋に入ってきた。一八〇センチを超える巨体が身を屈めてドアを潜る。
「何の騒ぎですか?」
 男は不審そうな顔をした。正理を無言で睨む。しかし次の瞬間、彼は驚きの表情に一変した。バラバラにされたロボットに気づいたようだ。
「常田先生ですね。わたくしは元エンジニアで、今は探偵をしております正理と申します」
 常田の表情を熱心に観察した。動揺の兆しは見られない。計算づくなのか、それとも自然体なのか。現時点ではまだ分からなかった。もし常田が犯人だとすれば、彼は相当な演技力を持っているに違いない。
「探偵が私に何の用ですか?」
 常田自身が疑われていることには気づいているのだろう。声には明らかに不服そうな感情が含まれている。
「茶土先生、まさかあなたのロボットにこんなことをした犯人が私だなんて疑っているわけじゃないですよね」
 常田の問いに茶土は俯いたままだった。正理がすかさずフォローを入れる。
「いえいえ、まだ特定の誰かを疑っているわけではありません。これからすべての教職員、学生に同じ質問をするつもりです。現段階で校内に入ることのできるすべての人を容疑者と見なしているだけです」
 常田は完全に気を許したわけではないものの、少し表情を和らげた。しかし、才上がすぐに場を乱した。
「状況からして、常田先生以外に考えられますか?」
 才上は堂々とした態度で常田を指差した。
 常田の鋭い目が才上を睨む。
「非難するなら証拠を出してください。根拠があるんですか?」
「指紋を調べれば、そこらじゅうに常田先生のものがついているに決まってます。知ってますよ。先生がかつて教授になるために他人の研究成果を横取りした話や、結果を捏造した話を。有名じゃないですか」
「ふん、そんな根も葉もない。今でっち上げた話なんじゃないですか」
「皆知ってますよ」
 才上は言い放つ。場を落ち着かせるため、正理は少し力のこもった音声で割って入った。
「事実のみに基づいて話を進めるべきです。才上さんの仰る通り、指紋は有力な手掛かりになる可能性があります。ではこれから採取していきましょう」
 正理はパンパンに膨れ上がったボストンバッグを開けた。中には捜査に使う道具が詰まっている。
 間仕切りでどこに何を入れるのか効率的な収納をしているので、目的物を見つけるのに三秒かからない。
 多くの荷物の中から出てきたのは手のひら大の機械だった。
「これで紫外線を当てることで指紋を採取、記録できます。簡単でしょう?」
 常田は相変わらず不機嫌そうな顔をしている。
「警察でもないあなたが、そんなものを持っていて問題ないんですか?」
 声にも不快な感情が滲み出ている。
「この装置は探偵業登録者のみが入手可能で、プライバシーを保護する設計になっています。データのコピー或いは改ざんはできません。また、この装置が記憶している指紋以外を照合することもできません」
 常田は反論する言葉が見つからないのだろう。口を間一文字につむり首を縦に振った。快くは思っていないようだ。
「常田先生、なぜそんなにイライラしているんですか? やっぱりやましいことがあるからじゃないですか?」
「君は男のくせに口数が多い人だ。別にイライラなんてしてないですよ」
「ここで自分の指紋が見つかったら、学長選で不利になりますね」
 常田は一瞬顔をしかめた。しかし、すぐに落ち着いて
「指紋があれば、そうなりますね」
 と冷静に答えた。
「だったら、はじめからこんなことしなければいいのに」
 常田は「ふん」と鼻息荒くそっぽを向いた。
「ばかばかしい。茶土先生のところの学生はもしかしてこんなのばっかりなんですかね。エンジニアのくせに全然論理的じゃない」
 茶土は「うちの学生が生意気なことを言って申し訳ございません」と平謝りだ。
「才上くん、根拠もないのに人を疑ったりしてはいけません。常田先生に謝りなさい」
 茶土の注意に、才上は素直に従う。
 同じ先生に対してなのに、これだけの扱いの違い。才上の態度には茶土への尊敬以上の感情がある。正理はそう感じていた。
 常田は腹の虫が治まらないのか、嫌味たらしい口調で謝る茶土にも文句を言う。
「学生がこんなことを言い出すということは、むしろ茶土先生こそ学長職を狙っているということではないですか?」
「ただでさえ研究に割ける時間が足りないのに、学長なんかになって、どうでもいいことに時間を割かれたくありません」
「どうでもいいこと、ですと? それは今の学長への冒涜と捉えてよろしいですか?」
「茶土先生は学長を冒涜したわけじゃない。おまえがわざとそう捉えようとしているだけだ」
「学生が先生に向かっておまえ呼ばわりとは聞き捨てなりませんな」
「ごまかさないでください。そもそも常田先生が学長のポストにこだわっていて、茶土先生をライバル視していることは有名な話です。素直に認めたらどうですか?」
「根拠はあるんですか? 学生にこんなことを言わせるとは、なかなかの洗脳ぶりですね。ひょっとしたら、私を学長選から落とすために、お二人で仕組んだお芝居なんじゃないですか?」
「まあまあ、調査する前からケンカしていても埒が明きません。依頼主は茶土先生と才上さんですが、もちろん常田先生の仰ることも排除はしておりません。あらゆる可能性を考慮して捜査を進めますのでご安心ください」
 ようやく正理が割って入った。それでもまだ才上と常田の二人は言い足りない様子だ。
 そんな二人を横目に、正理は手袋をしてバラバラにされたロボットの破片一つひとつにセンサー部分を当て始めた。
 部屋の空気は緊張で張り詰めている。パソコンのファンの音だけが響く中、『ピッ』という断続的な電子音が静寂を切り裂いた。
 正理の手慣れた動きがリズミカルで、一種の音楽のようにも聞こえる。楽しんでいるようだ。
「このように、この部屋についた指紋を検出していきます。その後、皆さんの指紋と照合させていただきます」
 そんなことを口ずさみながら、時折りみんなの様子を窺う。
「ところで常田先生は週末はどこで何をされていましたか?」
 指紋採取をしながら常田への尋問を始めた。
「金曜日に名古屋で学会がありまして。実家がそっちなものですから、親孝行ついでに昨日の夕方まで実家におりました」
「こちらへのお戻りは何時頃ですか? その後、学校に寄ったりはしませんでしたか?」
「夕食を親と摂ってから、二十一時台の新幹線で帰ってきたので、相当遅かったかと。日を跨ぐまではいってなかったとは記憶してますが。なので、こちらには寄ってません」
「そうですか。ありがとうございます」
 正理は各人への質問をしつつ、指紋採取の作業をこなしていく。ロボットの部品だけでなく、机や棚、床、壁、書類等あらゆるものに装置をかざし続けた。
「あれ? これは何でしょう?」
 指紋を採る途中、正理はこの場には似つかわしくないものを見つけた。事件解決に向けての証拠品探しにも余念が無い。
「ああ、それはロボットの操作マニュアルです。初めて研究室に来た新四年生向けに作成したものです。今の時期、それを読む人は誰もいません」
 才上が説明をする。
「いえ、私が不思議に思ったのはこのマニュアルに挟まれたこちらです」
 正理は名刺を掲げた。近頃は名刺も電子化され、紙ベースでやり取りすることは珍しくなった。とはいえ、年配者の間では昔ながらの紙の名刺が好まれる。
「木戸竜一さん、どなたかご存知の方はいらっしゃいますか?」
「なんでそんなところに・・・・・・」
 茶土が反応した。演技ではなさそうだ。
「茶土先生のお知り合いですか?」
「はい、町田工業大学の教授で、私と同じくAIの研究をされている方です」
「同業者ですか。でしたらこの部屋に名刺があるのは不思議ではないですね。茶土先生が挟んだのですか?」
 茶土は首を横に振った。
「木戸さんがこちらの研究室に来られたことはありますか?」
 今度は首を小さく縦に振る。
 正理は名刺が挟まれていたページの内容を確認した。そこには図でメモリ等の部品配置が示されている。
「しおり代わりに使っていたとか」
「木戸さんを犯人だと仰っるんですか」
「いえ、一つの可能性です。しかも木戸さんの名刺が使われただけで、これを使用したのが木戸さんだとは一言も申しておりません」
 茶土が過剰に反応した木戸という男。調べてみる価値はありそうだ。
「こちらのマニュアルですが、後でお借りしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん構いません。むしろ最初にお見せすべきでしたね」
 正理はお礼を言いつつ、持ってきた封筒に入れ、開けたままのカバンの上に置いた。
 その後も正理は淡々とスキャン作業を続ける。一通り終わったのか『ピー』というこれまでより長めの音が鳴った。データ取り込み完了の合図だ。
「最近ついたものと思われる新鮮な指紋が複数見つかりました。ただし、これはあくまで参考情報です。指紋が一致しなかったからと言って、犯人ではないと言い切れません。なにせ、手袋をしていれば指紋なんて付きませんからね。ただし、いないはずの人の指紋が見つかれば、それは重要な証拠となります」
 個々人の指紋を採取するための新たなアダプタを指紋採取装置にセットする。
 普段この研究室に入らないはずの常田の指紋が検出されれば、最も疑わしい人物ということになる。とはいえ、例え犯人だったとしても工学教授が自分の指紋を残すなど考えにくい。
 しかし、そんな正理の推測などお構いなしに、才上が皮肉を込めて言い放った。
「これで常田先生の学長はなくなりますね」
 その声にはほんの少しだけ揺らきが感じられた。強気な発言ではあるものの、本当は自信がないのだろう。
 常田はいちいち答えるのも面倒なのか、顔を背けて一言も発しない。
二人の間にぴりぴりとした空気が流れた。不穏な空気の中、正理が何もなかったかのような涼しい顔で茶土の前に立つ。
「では茶土先生からお願いします」
 茶土が指を乗せる。『ピー』という完了音に続いて、正理が機械を操作する。
「当然と言えば当然ですが、茶土先生に一致する指紋が複数見つかりました。この装置が正しく動いている証左です。それでは他の方々の指紋も調べていきましょう」
 続いて才上に指を乗せるよう促す。彼の指紋も多数検出された。この研究室の学生であるから、当然と言えば当然だろう。
 最後に常田が装置に指を乗せた。液晶モニタを覗いた正理が感心したように口を尖らせた。
「常田先生の指紋は見つかりませんでした」
 常田の顔には安堵の表情が浮かんだ。先ほどまで鋭く睨んでいたような目からは緊張が解けている。ほっとしたのかひとつ大きく息を吐いた。
 一方の才上はといえば、期待とは裏腹の結果に落ち込んでいるようだ。言葉を失い、頭を下げた。
「私への疑いが完全に晴れたわけではないでしょうが、一応正直な気持ちを正理先生にはお話をしておきます」
 常田の態度は、才上に対するのとは打って変わって恭しい。
「ぜひお聞かせください」
「私の家系は代々学者を輩出しており、教授になるのは自然な流れでした。しかし、教授としての業務は研究だけではありません。特に、予算交渉や学生の確保といった管理業務が、思っていた以上に重荷です」
「なるほど、大学教授はお金の工面に奔走されている、と。昔からよく言われていることですね」
「その通りです。教授陣は多少の違いはあれど皆問題意識を持っている。しかし、自分の研究や学生の対応に忙しく、なかなかそういうことに立ち向かう時間が取れない。私だって例外ではないのですが、学長になって、その立場を利用すれば、そういったことに力を避けるのではないかと。お上に訴える、ということをやりやすくなる、という点でですね」
「だから学長になりたい、と。崇高なお考えです」
「お分かりいただけて光栄です」
 後で『実は学長になりたがっていた』ことが明るみに出た時の対処を考えてのことだったのだろう。
 常田は自分の言いたいことを話し終え、満足そうだ。正理に理解してもらえたことも一役買っている。
「もう戻ってよろしいですか」
「もちろんお戻りいただいて構いません。ただ最初に申し上げた通り、指紋が見つからないことが、必ずしも常田先生の無実を意味するわけではありません。お聞きしたいことがある時はまたよろしくお願いします」
「必要とあらば、いつでもおこえがけください」
 最後は笑顔で自分の研究室に戻っていった。
 外は既に暗い。窓からの月明かりが研究室を照らしていた。
 常田が去った後、正理は沈黙を保つ二人に目を向けた。
 才上は悔しそうだ。常田が犯人ではないと決まった訳ではないが、追い詰められなかったからだろう。
 茶土は今にも泣きそうだ。
 湿った空気を景気づけようと、正理はいつもより少し高めの声で話しかけた。
「では気を改めまして、捜査を続けましょう。茶土先生、この校舎に入ることのできる方はあとどれくらいおられますか?」
「たしか、教員の数が百人程度、教員以外の職員が十人、工学部生が一年生から四年生で二千人、院生が五十人くらいでしょうか」
 ある程度絞らなければ、指紋採取だけで何日もかかってしまう。
 茶土と才上以外のもうひとつのベッタリと濃い指紋。これが誰のものか、特定することが重要だ。
 可能性として高いのは茶土の研究室に所属する学生たちだ。もちろん、彼らの誰かが犯人、という訳ではない。普段研究をする過程で指紋がつくことは当然だ。
 だから、最後の指紋が学生のものなら、指紋からの犯人特定は難しい、ということになるし、逆に学生のものでなかったら、その者が犯人の可能性が高い、ということになる。
 その場にいた学生たちの指紋を採ってみたが該当者はいなかった。
 学生たちの中にはデータを纏める者やプログラミング担当者等それぞれの得意分野を受け持っている。役割によってロボットそのものに触れる機会に偏りが生じる。
 才上はプログラミング後に動作確認をすることが多いため、必然的にロボットに触れる回数が多くなる。その他の学生は時々しか触れないので、わずかに薄い指紋が残っているだけなのだろうと茶土が見解を示した。
 部屋に入った犯人が最初に触れそうなのはロボットの肩だろう。そこにベッタリと付着した残りの一つ。この指紋に合致した者が有力な容疑者となることは間違いない。
「ここ最近の研究室の訪問記録とサーバーへのアクセス履歴、防犯カメラ映像をください。それと、もし茶土先生にご迷惑でなければ、最近の研究に関する資料や活動記録などがあればいただけると助かります」
 正理は深く考え込むように顎に手を当てた。。
「犯行時刻は茶土先生が帰宅した金曜日の夜九時から、今日の出勤時刻の間。今朝の出勤は何時頃でしたか?」
「今朝はオンライン授業を一コマ終えてからですので、十一時くらいだったかと」
「その間に出入りのあった人はもちろんなのですが、手前数日の間に研究室を訪れた人物の動向を確認したいです。犯人が正面から堂々と入ってくるとは思えません。となれば、直前に訪問をして侵入の計画を立てる可能性が高いと思っています」
 正理が要求を述べると、茶土は一瞬躊躇ったが、すぐに頷いて承諾した。
「承知しました。全ての情報をお渡しします」
 静かながらも決意を込めた表情。彼女の中に何か秘密にしておきたいことがあるのだろう。正理は茶土の態度から察した。
「よろしくお願いします」
 軽く頭を下げた。それを見て、正理は帰り支度を始める。考え事をしながら、使用した機器をバッグにしまい込む。
 この先は警察に任せてしまった方が早いのかもしれない。しかし、警察に知らせた時点で、この事件のことが公になる。そうすると、茶土の情報管理の不備が指摘され、ここまで積み上げてきた研究成果が水泡に帰してしまう可能性がある。
 正理はできるところまでは引き受けようと、気持ちを引き締めた。
 犯人はこの建物の中にいるのか。それともその他に可能性があるのか。今の情報だけでは何も分からない。
 できるだけ情報がほしいと、最後にカバンに詰め込もうとしたロボットのマニュアルがふと気になり、封筒から取り出した。なんとなく、パラパラとめくる。
「おや?」
 正理は一つのページに書かれたことが気にかかり、マニュアルを凝視した。
「ロボットの実行ファイルのバージョンアップは外から遠隔でもできるのですか?」
 才上は得意げに語った。
「はい、その機能は僕が追加しました。メモリの頻繁な交換が不便で。それに今どき有り得ないじゃないですか。バージョンアップの度にメモリを抜き差ししなきゃならないなんて」
「たしかにそうですね。実行ファイルへのアクセス権はどうなっていますか?」
「パスワードと生体認証が必要ですから、茶土先生と僕ら研究室の学生だけです。生体認証は卒業と同時に削除されますし、パスワードは三ヶ月に一度変えているので、OBもアクセスできません。それにこの研究室のサーバー以外からのアップロードを禁止しているので、もしパスワードを破られたとしても、外部からの改ざんは難しいと思います」
「ロボットが自壊するコードを仕込むことは可能ですか?」
「可能性はゼロではないですが、極めて高度なハッカーでない限り厳しいかと」
「なるほど。承知しました。では、これをお借りしますね」
 マニュアルを再び封筒に入れると、丁寧にカバンにしまう。ファスナーを締め切ったところで、茶土の声が聞こえてきた。
「では守衛室に行きましょう。訪問記録はそちらで見せてもらえると思います。その後で私のデータをメールでお渡しします」
 茶土の案内で守衛所に向かう。茶土から既に事情を聞いていたらしく、あっさりと訪問データを入手できた。
「守衛さんに一つだけ質問なのですが、昨晩あるいは一昨日の晩、常田先生は来られましたか?」
「調べますので、少々お待ちください」
 常田の名前で検索をかける。一瞬にして、常田の来校記録が表示された。
「直近ですと、昨日はお昼に来られてますね」
 常田は嘘をついている。学校に来ていないことだけでなく、こちらに帰ってきた時間まで。なぜ、そんなちょっと調べればすぐにバレる嘘をついたのか。
「何のために来られたのかご存知でしたら教えてください」
「さすがに現役の先生にいちいち来た理由は聞かないですからね。お仕事かとは存じますが、実際のところは分かりません」
 守衛の言うことはもっともだ。明日、常田にもう一度話を聞く必要がある。
「同じ時間に学校に来られていた先生は他にいますか?」
 守衛が調べると、女性の名前が表示された。正理が画面を覗き込む。
「佐々木千佳。どなたですか?」
「セキュリティの研究をしている助教です」
 茶土の答に、才上が続く。
「今の学長以外で、次期学長候補に常田先生を推してる唯一の先生です。何か二人で悪巧みでもしてたんじゃないですかね? あるいは不倫とか」
 佐々木にも話を聞く必要があるだろう。事件に関係があるのかは分からないが、常田が嘘をついた理由を追求する必要がある。
「では今日はこれで失礼します。明日はデータを確認した後、お昼頃お伺いします」
「ええ、承知しました。お昼に見えるのであれば、ランチをご一緒しませんか」
「いいですね。せっかくですから学食をいただいてもよろしいですか」
「もちろんです。ご案内いたします。それに、正理先生がお見えになるまでにたくやを直しておきます。ぜひたくやともお話ししてくださいね」
「たくや・・・・・・さん、あのばらばらになったロボットのお名前ですね。ぜひ。では、明日はランチの後はたくやさんとのお話を中心に捜査を進めましょう」
「ええ、よろしくお願いします」
 守衛にタクシーを呼んでもらうと、間もなく無人セダンが到着した。無人タクシーは今や一般的で、運転手付きの車は贅沢品となっている。
 乗り込む際に茶土が話しかけてきた。
「明日もよろしくお願いします」
 正理は優しく微笑み、小さく頷いた。
 ドアが閉じると、車は静かに動き出した。振り返ると、茶土がお辞儀をしている姿が見えた。その姿は、見えなくなるまで続いた。


#創作大賞2024 #ミステリー小説部門 #note #ライバル #近未来 #SF #ミステリー #ロボット #AI #人工知能 #文野巡  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?