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空の青み

どうしてバタイユ読むと元気になるのか、
ずっと青空が気にかかってしょうがなかったのか
理由がやっとわかった気がした。

「魔法使いの弟子」というバタイユの論文を読んで、訳者の解説を読んだ。

バタイユにとっての実存とは、「今、ここで生きている」という人間の生の現実、あるがままの人間の生の在り方を指し、「人間の運命」と密接に関わっている事態のことである。実存を損なう近代生活は「人間の運命」に背を向けている。
というのが本論文のテーマである。

「人間を襲う最大の害悪は、人間の実存を隷属的な機関の状態に貶める害悪だろう。ところが誰一人として、政治家、作家、学者になることは絶望的なことだと気づかない。気づかれることのない欠如を直すことは難しい。人間社会の役割の一つになるためだけに完全な人間になることを断念する人、こんな人を蝕んでいる完全性の欠如を直すのは難しい。」

魔法使いの弟子 ジョルジュ・バタイユ 訳 酒井 健 
景文館書店 p5


そして、総合性とはキリスト教徒ならば、分かりやすいものかもしれない。(バタイユは元々はカトリック信者であったが棄教した)
僕はキリスト教徒であり、カトリック信者であるため、フランシスコ会聖書研究所の聖書 新約から引用する。

敵への愛(ルカ6・27-28、32-35)
あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。あなた方の敵を愛し、あなた方を迫害するもののために祈りなさい。それは、天におられる父の子となるためである。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を登らせ、正しいものの上にも正しくないものの上にも雨をふらせてくださるからである。自分を愛してくれるものを愛したからといって、あなた方に何の報いがあろうか。徴税人でさえも、そうしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したからといって、何か特別なことをしたことになるだろうか。異邦人でさえ、そうしているではないか。だから、天の父が完全であるように、あなた方も完全なものになりなさい。

マタイによる福音書 5・43 原文校正による口語訳 聖書 訳注フランシスコ会聖書研究所

バタイユはその論文を劇的な恋愛をしていた最中に書き上げ、4ヶ月後に恋人ロールを結核で失ったことを知った。

訳者のあとがきの最後には、できる限り多くの人々にバタイユの思いを伝えたいと思い解説を書いた、とある。
訳者がいかにバタイユを愛しているかよく伝わる解説だった。

ロールとの事が気になって、ある論文を何気なく読み始めた。
「バタイユの欠落とロール」
阿部静子
2005年 慶應義塾大学学術情報リポジトリ
ロールとの経緯を僅かに知った。

1931年にバタイユとロールは知り合い、1934年7月3日に結ばれる。
しかし、ロールは翌日、以前から愛人関係であった人物とオーストリアへ向かう。
それでもバタイユとロールの恋人関係は続き、ロールは1938年11月7日に結核で亡くなる。
バタイユは65年の人生の最重要期の4年間でもあり、バタイユの思想展開にロールが与えた影響は非常に大きい。

「バタイユの欠落とロール」阿部静子2005年 慶應義塾大学学術情報リポジトリ

青空が書き上げられたのは第二次世界大戦直前の1934年であり、この時期にロールと結ばれたということでもある。

青空のダーティは、ロールだ。
草稿の「空の青み」は1936年にかなり内容の異なるものが雑誌掲載されている。
そしてこの草稿は、「内的体験」に「空の青み」として、「第三部 刑苦の前歴」に収められている。
その後、序章のみを「ダーティ」として1945年に刊行し、現行の青空が刊行されたのは戦後、1957年だ。

心の整理がなんとかついたかのような刊行の仕方にも見えた。

俺はそんなバタイユの背景を知ることなく、黒のイロニーを知ろうとしたし、支離滅裂と内的体験に対してのサルトルに同調した。

そんな単純なことなんかじゃないんだ。
何かを書くとき、必死に死にかけながら書く。

ちゃんと読まないとだめだ。
ひとりの作家の作品を数冊で判断して、感想書くなんて非情かもしれない。
そんなことはしちゃいけない。

俺はなんてことをしたんだろう、と思い、
内的体験の空の青みを読み返し、そのあとで今朝、魔法使いの弟子を読み返し終わったら、何となく泣けてきた。

だがロールの墓は、植物に覆われていて、なぜかただひとつ完全に黒い広がりになっていた。
その前にたどり着くと、私は、両腕の中に苦痛を感じだし、もう何もわからなくなった。そしてこのとき自分がまるで二体に分身したかのごとくになり、彼女を抱擁しているかのようになったのだ。私の両手は私自身の回りで消えて見えなくなっていた。そして彼女の身体に触れて彼女の臭いをかいでいるような気がしてきた。私は恐ろしい甘美さに捕われた。それはちょうど私たち二人が突然相手を見つけたときのような甘美さ、二人を分けていた障害が崩れ落ちたときのような甘美さだった。それから私は、自分にまた戻って、重苦しい生活の必要事に限定される思いにおそわれて、うめきだし、彼女に許しをこい始めた。苦い涙が溢れてくる。私はもう何をすべきか分からなくなる。彼女をまた失うことをはっきり知っていたからだ。自分がこれからなる人物、たとえばものを書いて自分がなる人物、あるいはさらにもっと低劣な人物を考えて、耐え難い恥じらいを覚えた。私はたった一つしか確信を持てずにいた(しかしそれはうっとりさせる確信だった)。失われた人々を体験することは、日々の活動の対象から切り離されると、いかなる意味においても限界がなくなるという確信である。
(『有罪者』ジョルジュ・バタイユ 1939年9月14日の草橋) 訳者 酒井健のあとがきより

失望から脱却しきれなかったとしてもその後内的体験を書き上げられたバタイユは凄まじい精神の持ち主かも知れない。
愛する存在がいて、生きてこそなのだと思わされる。

過去は動機付けや原動力ではあっても伏線回収のための時間ではない。過去を掘り起こしたところで、永遠に変わらぬマロニエの木だ。

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