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ページと瓦礫のあいだで

ポール・オースターが死んだ。
そのようなニュースを見たとき、僕は偶然にも『ムーン・パレス』を再読しようと仕事場に携えてきていた。ひとがいつか死ぬのはわかっているけれど、思い入れのある作家の訃報は淋しいものだ。

『ムーンパレス』で、主人公マーコが叔父さんからもらった本を売るのは、彼の個人的な経済的必要と、物質的なものへの感情的な結びつきの間の葛藤を表している。

「古い本も新しい本も、同じ食欲をもって負った。読み終えた本の山が部屋の隅でだんだんと高さを増していった。いくつも並ぶ本の塔が崩れ落ちそうな危険を呈してくると、僕は危機に選した本たちを二袋のショッピング・バッグに詰め込み、次に大学へ行くついでに古本屋に持っていった。ブロードウェイをはさんでキャンパスの真向かいにあった、チャンドラー書店という店である。狭苦しい、ごみごみした店だったが、商売は結構繁盛していた。一九六七年の夏から六九年の夏にかけて、僕は数十回にわたってその古本屋を訪れることになった。そうやって僕は自分の遺産を少しずつ手放していったのだ。このように、すでに所有しているものを活用すること、それが唯一僕が自分に許した行動だった。」

『ムーン・パレス』ポール・オースター著
柴田元幸訳
新潮文庫p46

2024年に起きた能登半島地震の被災者も、愛着のある家や思い出の品々を手放さざるを得ない状況に直面し、マーコと同様の心境を抱えていたことだろう。

「ぼろぼろのホメーロスのほうがぴかぴかのウェルギリウスより貴重であり、デカルト三冊はパスカル一冊に及ばない。
僕にとっての基本的区別はそういうものだった。でもチャンドラーにとってそんな区別は存在しなかった。彼にしてみれば本とは単なる物体であり、物たちの世界に属する一個の物にすぎない。したがってそれは、靴箱やトイレの吸引カップやコーヒーポットと本質的に何ら変わるところはなかった。僕がビクター伯父さんの蔵書を持ってくるたびに、チャンドラーはいつも同じ芝居をやり出した。嫌悪感もあらわに指先で・本をつまみ、背表紙をじろじろ眺めて、書き込みやしみはないかとページを繰る。どう見てもそれは、汚物の山を扱う人間の態度だった。これが彼のやり口だった。品物をおとしめることによって、心置きなく底なしの安値をつけられるのだ。」

『ムーン・パレス』ポール・オースター著
柴田元幸訳
新潮文庫p47

このシーンは、資本主義経済の中で個人の価値と市場経済における物の価値の緊張関係を示しているとも取れる。被災地の復興が人手不足などの理由で遅れがちな中、生活再建のために金銭的な必要に迫られた人々は、愛着のある地元から離れざるを得なかったりもする。

さて、本書中では1968年の学生運動に触れられている。コロンビア大学の学生運動は、ベトナム戦争反対と大学の軍事研究への関与に抗議するものだった。


「政治と群衆、質怒、ハンドマイク、暴力の年月。一九六八年の春になると、毎日かならず世界のどこかで新たな大変動が吐き出されるように思えた。プラハでなければベルリンで。
パリでなければニューヨークで。ベトナムにはおよそ五十万の兵士がいた。大統領は選挙に再出馬しないと宣言した。何人もの人間が暗殺された。何年も続いた戦争はいまやおそろしく肥大化し、どんな小さな思考もその影に染まるようになってしまっていた。僕自身、何をするにせよしないにせよ、自分もみんなと同じように状況の一部であることは意識していた。ある日の夕方、リバーサイドパークのベンチに座って川を眺めていると、向こう岸で石油タンクが爆発するのが見えた。突如として炎が空を覆い、見るみるうちに火の粉がハドソン川の上空を漂ってきて、僕の足元まで落ちてきた。そのとき僕は思った。もはや内と外を分けることはできないのだ、と。無理に分けたところで、真実を大きく歪めてしまうだけだ。同じ月の後半、コロンビア大学のキャンパスは戦場と化し、数百人の学生が逮捕された。そのなかにはジンマーや僕のような夢想家も混じっていた。こうした状況について、いまここであれこれ言い立てるつもりはない。それは誰でも知っている話だし、もう一度蒸し返したところで何の意味もあるまい。といって僕は、あんなことは忘れてしまえばいいと思っているわけではない。何といってもあの時代の僕のなかに僕自身の物語も位置している。」

『ムーン・パレス』ポール・オースター著
柴田元幸訳
新潮文庫p50

2024年のコロンビア大学でのイスラエルに対するパレスチナ侵攻の反対運動も、学生たちが社会的、政治的な問題に声を上げる点で似ている。

こうした運動は、特定の時代や場所に限らず、歴史を通じて繰り返される可能性がある。
学生たちが社会的正義のために立ち上がるのは、民主主義社会における重要な側面で、時代を超えた普遍的な行動だろう。

『ムーンパレス』のシーンが示すように、個人の経験がより大きな社会的、歴史的な文脈に結びついている。過去の出来事が現代にも反映され、新しい形で再現されることは、歴史の連続性と社会の進化を考える上で重要な視点だ。

同様に、自然災害からの復興にも、社会の一体性や連帯感が試される。被災地支援への積極的な関与を通じて、我々は新たな社会的紐帯を構築する機会を得るのである。

ところで僕はといえば、4月下旬から北陸へ応援に入っている。
震災のあった元旦当日とほとんど変わっていない死にかけのような街の姿に最初驚いた。
それでも少しずつだけど、ボランティア活動や建設業者らの手が入ってもいる。

2024年4月下旬の能登地方

先日、4月から仮設建設応援に来ている神奈川の同業さんと話をしていた。「国も県も何もしていない訳じゃないんだけど、そもそも人が足りない」
少子高齢化の著しいこの業界では、修繕できる職人が消えていっている。
大阪万博を延期か中止し、災害支援に国の予算で建設関連業者さんたちを回してくれたら、もう少し進捗も改善できるだろう。

オースターといえば偶然と必然を描く作家──誰もが遭遇したくない、日本では誰もが遭遇する自然災害、地震の偶然、支援での出逢う偶然、ダイナミックな当たり前にあった昔ながらのあたたかな必然としての助け合い。

がんばれって他人事じゃなくて、みんなでそれぞれにできる範囲で助け合って頑張れたらいい方向に風が吹くかもしれない。

久しぶりの施工──「きのどくな」と仰りながら謙虚に感謝を伝えてくれる地元の方々にパワーをもらえて頑張れる。



参考文献

『ムーン・パレス』
ポール・オースター 柴田元幸訳 新潮文庫

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