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ムーン・パレス 書くこと、書き続けること

ムーン・パレス
著者 ポール・オースター
訳 柴田元幸
出版 新潮文庫

※以下ネタバレを含みます

あらすじ

主人公マーコは母エミリーの私生児として母ひとり子ひとりで育ってきた。11歳のときに母を交通事故で亡くした。
母の兄であるビクター伯父さんと暮らす。ビクターが再婚し、コロンビア大学の2年になった時に、マーコは一人暮らしを始める。アパートの窓の外からMOON・PALACEというネオンが光る店も見えた。
20歳前後でたった一人の身寄りであったビクター伯父さんが亡くなる。
喪失感によりマーコは行き当たりばったりで刹那的で惰性的になるが、様々な偶然によって、青年マーコの人生が展開しはじめていく。

登場人物

マーコ・フォッグ 主人公 二十歳前後で最後には24くらいになって、この物語を書いているという設定。

キティ・ウー アパートを追い出されてセントラルパークでホームレス状態のマーコを探し出す

ジンマー マーコの親友

トマス・エフィング マーコの雇い主

ビクター・フォッグ マーコの叔父でエミリーの兄 クラリネット奏者

エミリー・フォッグ マーコの母

ジュリアン・バーバー 死んだ画家

ソロモン・バーバー ジュリアン・バーバーの息子

感じたテーマ

喪失

偶然と必然
父親との関係
家族

20歳前後の学生だった主人公がいくつかの喪失を通して、人生のスタートを自分自身で切っていくストーリー。
喪失によって生まれた傷を自身の半生を書くことで癒されていくことが予見できるような内容でもある。

序盤、入りづらかったが、二章あたりで物語が動き始めると、あっという間に読み切っていた。

※以下ネタバレを含みます

ライ麦畑とムーンパレスの共通点

ムーン・パレスを読みながら、「ライ麦畑をつかまえて」J.D.サリンジャー著の主人公ホールデンとマーコを何故か重ねて回想する事が多かった。

無鉄砲な青春時代が設定になっている
書き続けることで自分自身を癒す

喪失

マーコはいくつかの死と喪失を経験していく。

母エミリーの死
伯父ビクターの死
伯父ビクターから譲り受けた1000冊以上の本の喪失
マーコの経済の死
夏、青春の終わり
トマス・エフィングの死
父親の死

1章では特にマーコの喪失が深く列挙されていく。

いま考えるべきなのは、インクがなくなったらどうするかだった。
(p80)
私の脳は壊れてしまった」(p82)
「ムーン・パレス」P.オースター 新潮文庫 

経済的危機により、ついにはアパートを追い出されたマーコ。同級生たちのいる北方面ではなく、ナップザックを背負った彼は南へと向かう。

わずかなそよ風が川の方から吹いていた。僕は南を向き、しばし立ち止まって、それから最初の一歩を踏み出した。
それから次の一歩を歩み、そのようにして僕は通りを歩きはじめたのだった。僕は一度もふり返らなかった。
「ムーン・パレス」P.オースター 新潮文庫 (p89)

身内の死や、それに伴う経済的危機から1章ではマーコがいかにして投げやりで場当たり的な暮らしぶりをしていたか列挙が続いており、やや食傷的になったが、2章からの偶然による一致や偶然による救済によって物語は徐々に展開していった。

僕は崖っぷちから飛び降り、もう少しで地面と衝突せんとしていた。そしてそのとき、素晴らしいことが起きた。
僕を愛してくれる人たちがいることを僕は知ったのだ。
中略
最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえてくれた。その何かを僕はいま、愛と定義する。
それだけが唯一、人の落下を止めてくれるのだ。
それだけが唯一、引力の法則を無化する力を持っているのだ。
「ムーン・パレス」P.オースター 新潮文庫 (p94)

アパートを追い出された後、マーコはセントラル・パークでホームレスとなる。夏の暑さと飢えから病気になり、倒れたマーコをキティ・ウーとジンマーが発見する。彼らは、マーコがアパートを出たあと、マーコを捜索していた。

偶然と必然

ポール・オースターは人の出会いや人生の岐路における、「偶然と必然」といった二項対立的なものをテーマに挙げていると、僕はニューヨーク三部作を読んで思った。
このムーンパレスでも、偶然と必然が散見している。

キティとの偶然の出会い、そして彼らに偶然救われる。
祖父に(お互い血のつながりを知らずに)偶然雇われる。
父親(これもお互いに最初は血のつながりを知らない)と偶然繋がりを持つ。
キティが偶然、妊娠する。
偶然、全財産が盗まれる。

描かれる全ての偶然には因果関係がそこはかとなくあり、必然からの偶然だったり、偶然の結果の必然であったりするのだが、人と人との繋がりや運命といったものに輪廻を感じさせられる。

父親との関係

最初はお互いにぎくしゃくしていたが、遂にはマーコは父を愛し始める。
そして、父も望まれて生まれてきたわけではなく、マーコも望まれて生まれてきたわけではない、という偶然の一致。
マーコは遂には、父の犯した過ちと同じ過ちを犯してしまう。

家族

マーコを通して、彼の祖父、父母、伯父らとの家族の血の繋がりの濃い絆のようなものをどことなく感じた。

ホールデンとマーコ

ムーン・パレスを読んでいる間、時折、J.D.サリンジャーのことがよぎった。
「ライ麦畑でつかまえて」の無鉄砲な主人公ホールデン。
サリンジャーは第2次世界大戦で軍に徴兵され、戦場で負った傷がPTSDとなり、ホールデンやシーモアらを書き続ける事で自分自身を保とうとしたと僕は考えている。
ムーン・パレスでのマーコ・フォッグ、あるいは、ポール・オースター自身、書くことによって、書き続けることによって、何かしらの傷を回復させようともがいているように見えた。(闇の中の男では、オースター自身だけでなく、おそらくは9.11で傷を負った色々な人々も)

書くこと、書き続けること

書くことで、書きまくることで、自分自身だけを回復させる手段かもしれないし、大事な誰かを立ち直らせたいと願う想いがあるのかもしれないし、それはきっと様々だ。

傲慢な思い上がりかもしれないけれど、誰かのために誰かのことをずっと書き続けたら、いつか、傷を癒して上げれるかもしれないし、癒せなくても、また新たな一歩をその誰かの手を引いて歩くための何かになるかもしれない。あるいは、何の役にも立たないかもしれない。心から謝ったところで何も変えられない事だってある。そういうのは大体十字架を背負って人生を泳ぐしかない。

だから、僕にとって、ムーン・パレスは少し辛かった。

書くことは、愛するということ、生きるということ。生きている証かもしれないし、誰かにとっては重たい十字架を背負ってる事を時々忘れないようにするためのことだったり、書いている間だけ忘れるためのことかもしれない。でも「いま」書くことは、「いま」生きているってことだ。

大陸の果てにたどり着けば、何か大事な問題が解決するような気がした。その問題が何なのかは見当もつかなかったが、答えはすでに僕の歩みのなかで形成されていた。僕はただ歩きつづければよいのだ。歩きつづけることによって、僕自身をあとに残してきたことを知り、もはや自分がかつての自分でないことを知るのだ。
「ムーン・パレス」P.オースター 新潮文庫 (p525)

どうってことない。ふり返ってもしょうがない。
前に進むしかないし、
宇宙が爆発して生まれた瞬間から、
とんでもないスピードで膨張し続けている限り、
アインシュタインが間違えてない限り、
ありとあらゆるものは、前にしか進まない。

誰だってわかってる。


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