ワーニャ伯父さん─ 中年からの生き方小説
かわいい女・犬を連れた奥さんなど、チェーホフの短編はリアリズム溢れる文章にシニカルさや風刺もあり好きなロシア文学のひとつだ。
青春を描いているだとか、自己の内面を描いているというのではなく、チェーホフ作品に共通しているのは、ある程度、いい年齢になった登場人物の滑稽さとその哀愁を当時の社会を風刺しながら、サラッと、そしてギュッと凝縮させて描いている点のように思える。
今回読んだ、『ワーニャ伯父さん』もやはりミドルエイジ以降の登場人物がメインだ。
人生折り返し地点のワーニャ。
葛藤しながらアイデンティティとは何か?で自分探しに行き詰まるのが青春時代だとしたら、うまく行かないことまみれで「自分ひとり」の限界も知り、それを超えるには他者との繋がりや絆を堅牢にするのが30代前後、さらに、それらをうまく舵取りしつつ、自分自身と折り合いを付けていくのが40代なのだろうか?
生を全うするというのは自分自身の全てを受け入れて、かつ他者をも受け入れることへのチャレンジの連続なのかもしれない。
自分自身と折り合いをつけるというのは、結構葛藤もするし、昔、思い描いたはずの自分とのギャップはとっくにわかってもいて、だからこそ、そのギャップを認めたくなかったりすることも多々あるかもしれない。
僕自身と仲直りする
これって自分を受け入れる、赦す行為に繋がると思うが、かなり簡単なようで難しい時もある。
「もし、自分に才能があれば」
誰しも一度はそんな風に考えて現実を憂うのではないか?
先日誕生日を迎えて、28歳になった僕。
才能の有無を問うことはあまりないけれど、大工職人一筋で12年が経つ。
今のところは、その選択を最初にした15歳の自分に後悔だとか、「もし、こうだったら」というブレるような思考や感情は一切ない。
唯一そこだけが僕の取り柄でもある。
けれど、仕事のことでも家族のことでも、経済や社会問題に目を向けるとき、時々、「大学で勉強を専門の先生に付いて学べたら楽しいだろうなぁ」と思うこともある。
30、40歳、そして50歳、60歳となるとき、どのくらい自分の選んだ道や出来ないこと、そして他者を受け入れて流せているだろうか……。
30歳まであと2年。
家族や周りの人たちと思い切り生きれたら理想でもある。
いくつになっても、おそらくエネルギーがあれば思う存分に何かにチャレンジできるに違いない。
ただ、そのエネルギーはやはり仕事や家庭といったものに制約されがちでもある。
折り合いをつけるというのは色々な場面で常に出てくるようになった。
この「仕方ないわ」。
すごくよくわかる気がする。
拳銃が出てきたらそれは引き金を引かれなければならない。
なんてのは、ある意味、自己欺瞞に陥ることなく前のめりな青春時代なら通用するんです。
まあ、なんとか生きていきましょ。
そんなことをワーニャ伯父さんは体現している。
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