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檸檬

妻から檸檬🍋を帰りに買ってくるように頼まれた男。いつもの西村さんがそこへ登場する。

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 7月になったばかりの初っ端から雨、雨、雨。お気に入りのラッパーの新曲をエンドレスで流しながら、新築の床張りをしている。午後3時過ぎに妻からLINEの通知が来ていた。
「帰りにレモンを買ってきてください」

妻は妊娠2ヶ月過ぎでもうすぐ3ヶ月だ。俗に言うデキ婚だ。先に結婚しようが子どもができようが順番なんて俺にとっては正直言って関係ない。大体そのおかげで俺と妻は雨降って地固まった。喧嘩を遠距離恋愛なのにしてしまい、別れる寸前だった。冷却期間のことは多分、ショートショートの「君が好き」に書いた。実際には、あんな綺麗事ではなかった。とにかく、妻のお願いには弱い俺は、帰りに果物を買ってあげることを忘れずにしておく為、階段巾木にマッキーできちんと
「帰りに果物買うこと」
と書いた。
話はずれるが、施工中、階段数や尺やらあらゆる数字をマッキーで壁のボードや施工中の階段に書き残しておく。必ずやることであり、これは自分で自分の身を守る為でもある。あとで元請けや他業者らに何か言われた際、この数字ってこの日言ってましたよ、とか、この数字ですから、と説明したり、相手がミスしているのに俺のせいにされたりしないように証拠として残す。そして、パシャリ!きちんと写真も忘れない。これは10年見習いしていた神戸の叔父の教えだ。大工の話なんか聞かされても何も面白くないだろうから話を元に戻そう。

だから俺は何でもマッキーで大事なことを書く習慣が染み付いている。それできちんと妻からの伝言も書いたのだ。

「よぉ、サルトル仮称、どう?調子」
マッキーで伝言を書いていたら、西村さんがやってきた。髪が禿げたり生えたりする西村さんは俺の物語に良く登場する大事なチョイ役の座を今では得ている。
「雨酷いっすよねぇ、一応、ボード貼り終えて、今日から床貼ってるんすけど、含水率少し下げたいから明日は養生かなぁ、西村さん断熱来週水曜日からでもいいっすか?」
「月、火暇なっちゃうけど、いいよ」
西村さんは穏やかにそう言いながらカツラを少し気にしていた。
雨の日は生えている日なのだ。気温が高い日はツルツルのままやってくる。本人はそれを自虐ネタにしており、お客さんからもかなり評判がいい。
西村さんは俺より一回り以上年上で40近い男の中の男って感じのおっさんだ。かなり強面で鼻筋のガッシリしたモアイのような顔立ちだ。眼光もかなり鋭く、顔つきはいかにも「漢」といった感じだ。それでも笑うと目に皺ができて優しさが滲み出ている。結婚はしていないが、おかめ納豆似の女現場監督とできている。その話はまたいつか別のときに話す。
 とにかく、西村さんがやってきて、俺のマッキーメモを見て、ニヤニヤしていた。
「おっとー?夜のお楽しみのために奥さんの言うことちゃんと忘れないようにしてんのー?」
下ネタしか話さないおっさんでもある。
「あー、まあ、そっすね、忘れると家入れてもらえないかもやし」
「果物か、そこのグリーンマートで買ってきといてあげようか?今」
「いいんすか?ならお願いしますわ!オレンジ!」
「おっけーい!」
「あー、あとバナナも」
そうして西村さんはカツラの前髪をきちんと整えて、すぐそばのグリーンマートへ雨の中ハイエースを走らせていった。
 30分後、西村さんはオレンジとバナナと何故かブロッコリーを俺に渡して、帰っていった。雨足も強くなり、あたりも分厚い雨雲のせいで暗くなってきている。時計を見ると夕方5時を少し回っていた。
「ちゃんと買ったよ♡今から帰るね♡」
「ありがとうサルトルきゅん」
そんなやりとりをLINEでして、俺は意気揚々とトラックのエンジンをかけ、愛するシモーヌ仮称の元へと帰った。
「ただいまー、これ、果物」
「は?あのさ、レモンって言ったよね?」
「オレンジでもええやんけ」
「意味わかんない、レモンとオレンジってだいぶ違う!なんで?あのさ、悪阻で酸っぱいのしか無理だから、どうしてもレモンだったのに、何でオレンジ?」
「知らん、果物って書いたし俺」
「書いた?何に?」
「巾木のとこに果物てメモちゃんと書いたんやって、見てみこれ」
俺は現場の証拠写真を得意げに見せた。
「見るとは?サルトルがLINEちゃんと見たら?オレンジなんて私一言も書いてない!レモンって書いた!見なよ今」
LINEを見返すと「帰りにレモンを買ってきてください」となっている。
「まあええやん、オレンジで今日は我慢しといてよ、西村さんが代わりにしかもグリーンマート行ってくれたんやし」
「あのさあああああああ!!!」

そこからのことはあまり良く覚えていない。
何しろ妊婦さんの食べたがったものはきちんとその通りに買わなければならないのだ。

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