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海辺のカフカの謎 仮説A

※この記事はネタバレをかなり含みます。
※この記事はネタバレをかなり含みます。
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随時考察を追加したりするためのメモ置き場

はじめに


初めて読んだのは、十代中頃、ちょうどカフカ少年と同じ位の頃だった。
村上春樹の普遍的テーマのひとつでもある父性からの脱却、そして思春期の成長を描かれている本作品に当時はとても共感できた。

それからさらに数年後の今、結婚し、子どもも生まれ、大きく環境がかわった中で、再読してみると、昔とは違う感想を持った。

あらすじ

15歳の誕生日に家を飛び出し、夜行バスに乗り込む主人公、田村カフカ(仮称)。
空からは魚が降り、落雷に共鳴するが如く、おちゃめな猫語に達者でウナギ丼の好きな老人ナカタさんも駆けずり回る。
現実と虚構のパラレルワールドを通して多感な少年がもがく様をメタまみれに描いた村上春樹の真骨頂的作品。

海辺のカフカの魅力

本作品のタイトル、海辺のカフカは、作中の人物、佐伯さんが19歳のときに作詞作曲した歌のタイトルでもある。

あなたが世界の淵にいるとき
私は死んだ火口にいて
ドアのかげに立っているのは
文字をなくした言葉

眠るとかげを月が照らし
空から小さな魚が降り
窓の外には心をかためた
兵士たちがいる。

(リフレイン)
海辺の椅子にカフカは座り
世界を動かす振り子を思う。
心の我が閉じるとき
どこにも行けないスフィンクスの影がナイフとなって
あなたの夢を貫く。


おぼれた少女の指は入り口の石を探し求める。
青い衣の裾をあげて
海辺のカフカを見る。
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p392-393

とにかく、メタ、メタ、メタ、メタの嵐。
奇数はカフカ少年の物語で偶数は愛すべき我らが猫探しを生業とするナカタさんの物語で、小説は進んでいく。

ナカタさんが結構濃いキャラで、おじいちゃんながらにかなりの行動派。

世界の終わりとハードボイルドワンダーランドもパラレルワールドだが、それをもう一段階さらに掘り下げてそれぞれの世界と主人公の内面を濃密に描いているのが本作であり、1Q84や騎士団長殺しは、個人的に本作品の建て増し的な位置づけだ。

テーマ

本作品から感じたテーマ

・想像と知覚
・死と生
・他者ー理解者の渇望
以下のいくつかの不条理と心・精神との関係
・父との対峙
・母への慕情
・文学と音楽が人の心に及ぼす可能性
・愛への渇望
・第二次世界大戦での戦争による子ども
・学生運動
・悪の凡庸さ

海辺のカフカの謎

メタファーまみれのとんでもないパラレルワールドな本作品。
色んな考察があるように、かなり謎解き要素がふんだんに散らばっている。
僕の中では、今回ポイントを絞ると、以下の4点となる。

田村カフカ少年の精神的側面
田村カフカ少年は父親を殺したのか
各登場人物らとカフカ少年の関係性
写真と油絵はだれが撮影し誰が描いたのか

この記事の目的と仮説

それぞれの謎を追うことを目的とし、前提として、田村カフカ少年について仮説を立てておく。
田村カフカ仮称、多重人格説。
彼は父親殺害の未成年犯罪者であると仮定して本記事を進めていく。

夢とは何よりもまず物語であり、私たちは、夢の中で、素朴な読者が小説を読むさいに感ずる種類の情念関心を覚える。
中略
《呪詛力をもった》架空的想像である。
中略
夢とは、意識がその《世界内存在性》を喪失し、同時に、現実界の範疇を奪われてしまった場合の意識の姿がどんなものであるかを、私たちに概念せしめるよすがとなる特権的経験なのである。
「想像力の問題」夢 p246-247 J.P.サルトル

田村カフカにおける想像と現実の世界ー田村カフカ少年の精神的側面


想像/現実、それら二つの狭間にあるものを考察してみた。

「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities-まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」
中略
夢の中から責任は始まる。その言葉は僕の胸に響く。
 僕は本を閉じ、膝の上に置く。そして自分の責任について考える。考えないわけにはいかない。僕の白いシャツには新しい血がついていたのだ。僕はこの手でその血を洗い流した。洗面台が真っ赤になるくらいの血だった。
中略
ヒットラーの巨大にゆがんだ夢の中にいやおうなく巻き込まれていった、アドルフ・アイヒマン中佐と同じように。
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p228

15歳の未熟な少年カフカは、未熟さゆえからの凡庸で、父親をどうやら想像上、あるいは、現実で殺害したらしい。

これについては、色々と考えられるだろうけれど、今は一旦置いておく。

想像と知覚のある現実の意識として、どちらなのか曖昧になってしまったほどにカフカ少年は心的な外傷をどうやら負っているようでもある。

その傷を想像と現実、言い換えると、あちら側とこちら側の境界の曖昧さと捉えられなくもない。

田村カフカの想像の産物=虚構
カラス少年
ナカタさん
ジョニーウォーカー 父、悪
ホシノさん イデア
カーネルサンダーズ 観念、善、カフカ少年の良心
佐伯さんの若い頃
甲村家の長男
さくらさん
二人の兵士
森の大島さん宅
小屋の本
入り口の石と時限爆弾

田村カフカの現実
図書館
海辺の家族写真と油絵

カフカの現実と虚構の狭間にあるもの
佐伯さん、大島さん

何しろカフカ少年は15歳だ。
想像力豊かなのだ。
しかし、それは意識を絶対的に超えない限りにおいて。

田村カフカの愛を渇望する虚構の世界

ナカタさんなんていなかったし星野さんなんかもいない。佐伯さんも大島さんもだ。
図書館と絵以外は全てカフカ少年の虚構である。

と、僕は勝手に考えている。

僕の仮定
田村カフカはかなりの心的外傷を何かしらで負っていて、分裂症気味である。
カフカ少年以外は全て、カフカ少年の別人格である。

登場人物すべては、架空の人物であり、田村カフカ自体も架空だ。
カフカと自分で名付ける以前の少年はどこか深層に追いやられてしまった。

田村カフカの知覚できる意識の中に存在するのは空っぽな図書館と絵だけの空虚な現実である。

佐伯さんは、かつてのカフカ少年が思い描いた理想の罪深い実母像。
虚構の中で謝罪させ、愛されていた、とカフカ少年は想像した。

あなたは僕のお母さんなんですか?
中略
わたしは遠い昔、捨ててはならないものを捨てたの。
わたしがなによりも愛していたものを 
『海辺のカフカ』下巻 村上春樹 p381

図書館の産物かもしれない、佐伯さん。
図書館=記憶。
その虚構にすがり、愛を渇望しているかのようにも思える。
全てがカフカ少年の渇望による虚構と捉えながら読むと、悲しくなるラスト付近の場面だった。

父親を殺したのは誰か?

村上作品は普遍的テーマとしてほぼ、父親との対峙、父性からの脱却などが流れていると僕は思っている。

田村カフカは、父を誕生日に殺さねばならない、という呪縛で自分自身を呪い続けて縛り続けてきた孤独な少年だった、と僕は想定している。

君の両手にはどろりとしたものがついている。どうやら人の血のようだ。君は手を目の前にかざす。しかしなにかを見るには、明かりの量が足りない。内側も外側もあまりにも暗すぎる。
『海辺のカフカ』下巻 村上春樹 p253
夢の中から責任は始まる。その言葉は僕の胸に響く。
 僕は本を閉じ、膝の上に置く。そして自分の責任について考える。考えないわけにはいかない。僕の白いシャツには新しい血がついていたのだ。僕はこの手でその血を洗い流した。洗面台が真っ赤になるくらいの血だった。
中略
ヒットラーの巨大にゆがんだ夢の中にいやおうなく巻き込まれていった、アドルフ・アイヒマン中佐と同じように。
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p228
僕は記憶をたどる。
中略
あたりは真っ暗で、シャツにはたくさんの血がついていたこと。電話はかけてさくらのアパートに行って、そこに泊まらせてもらったこと。
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p229

僕の冒頭の仮定から、さくらさんのところには実際には泊まっていないのかもしれない。

ナカタさんに殺害されたのではなく、カフカ少年の別人格の「ナカタ」さんに父親は殺害された。と、僕は思っている。

「もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」
『海辺のカフカ』下巻 村上春樹 p102

チェーホフを引用して、入り口の石を示唆するが、これは石だけにとどまらず、カフカ少年の父親殺しを示唆しているようにも受け取れる。

鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剝ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p10

もし物語の中にナイフが出てきたら、それは使われなければならない。

冒頭で引用した海辺のカフカの詩で、ナイフが出てくる。
オイディプスを例えているのであれば、少年は間違いなくそのナイフで殺害したと思えなくもない。

ジョニー・ウォーカーは明らかに父親のメタファーだろう。

では、なぜ、ジョニー・ウォーカーは猫殺しで魂を集めていたのだろうか?

これはナカタさん≒カフカ少年の呪詛のメタファーだと僕は考える。

そして、オイディプスの呪詛のような父親に繰り返し「父親を殺し、母と姉と交わる」と言われ続けた、とカフカ少年は告白するが、実際には、カフカ少年の思い込みの可能性もある。

前節であげた現象学的心理学、想像力の問題でサルトルの言うように、《呪詛力をもった》架空的想像である可能性がある。

二人の間に一体なにがあったのかはカフカ少年にしかわからない。

佐伯さんは実母なのか?さくらさんは?

また、それと同時に、母親、ひいては、誰かからの愛情を激しく渇望していたのだろうとも思う。

物語の最序盤で父親の書斎の引き出しから、家族写真を見つける。
カフカ少年3歳、姉9歳くらいのころのもの。

僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑っている。
姉は横を向き、顔の半分は暗い影になっている。
中略
その顔には二重の意味が込められている。光と影。希望と絶望。笑いと哀しみ。信頼と孤独。
中略
僕はみっともないブルーのぶかぶかのトランクスをはいている。僕は手になにかをもっている。それはプラスチックの棒のように見える。白い泡になった波が足元を洗っている。
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p11

カフカ少年は、父を殺した後、現実逃避行の先で、罪深い理想の母親像として、虚構の図書館の2階の絵のかけられた部屋で佐伯さんを誕生させる。

そして、彼の渇望のありったけをラストで佐伯さんにぶつけることで、現実逃避から脱却を試みる。

同様に、2重メタのような姉をさくらさんとして誕生させている。
佐伯さんの歌の歌詞
おぼれた少女の指は入り口の石を探し求める。
現実の姉は海で溺死したのではないだろうか。

実母であり、実母ではない。姉であり、姉でない。彼らはつまりカフカ少年のまた別人格だ。

大島さんは誰なのか?

大島さんも、大島さんの兄もカフカ少年の理解者である。

これはカフカ少年が様々な不条理に抗いきれずに生み出した、彼の他者からの理解を欲した結果、この二人がまた、別人格としてカフカ少年の中で産み落とされた。

想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。一人歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。
僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p314

男でも女でもない大島さんは多様性をもち、カフカ少年を理解する人格。

入口の石によって開かれたあちら側とは?

入り口の石は時限爆弾のスイッチ。
チェーホフの拳銃でもある。
耐え切れなくなった15歳の少年のトリガー。

森の大島さんの小屋はカフカ少年の深層心理の世界でスーパーエゴの世界。もしくは現実逃避先。

多重人格とも言えなくもないが多感な時期、誰だって中二になる。

父と何かしらあり、カフカ少年は父を殺害する。
彼の意志で時限爆弾の起爆スイッチが押された。

ナカタさんと佐伯さんの恋人甲村さん、ホシノさんとカーネルサンダーズ

非常にユニークで猫語を理解するナカタさんは本作品で最も愛すべき登場人物だろう。

僕の仮定
ナカタさんは絵の中の背景として描かれた人物。
甲村家長男と同一人物。
カーネルサンダーズの片割れ。
絵の中のただのメタであり、そしてカフカ少年の傷すべてを引き受けている。

ナカタさんの死=カフカ少年は自身の傷を洗いざらい直視しなければいけなくなる、現実へ戻らざるを得なくなる。

しかし、父親殺害後、その絵の中から、ナカタさんは、騎士団長殺しの騎士団長のように、出てくる。

あなたはあの絵の中にいませんでしたか?海辺の背景にいる人として。白いズボンをたくしあげて、足を海につけている人として
『海辺のカフカ』下巻 村上春樹 p293

カフカ少年がもし、別人格としての佐伯さんにナカタの人格を気付かせるのだとしたら、なぜだったのだろう?

カフカ少年の傷を一手に引き受けるナカタさんだとしたら、傷自体を通過した過去の思い出とするための自己防衛?

そして、ナカタさんを補佐するホシノさんやカーネルサンダーズ。

彼らは、田村カフカの中の良心の芽生えや彼自身のあるべき何か。

イデアのような存在たちかもしれない。

なぜ、ナカタさんとカフカ少年は甲村記念図書館で出会わなかったのか?
僕の仮説 カフカ少年以外、全員カフカ少年の別人格で想像の中の世界であったとしても、ナカタさんだけは、かなりカフカ少年そのものに近いため、お互いを意識することはない。
勝手に例えると、カフカ少年の夢の中の住人が佐伯さんや大島さんではあるが、ナカタさんだけはカフカ少年の夢の中には登場しないのだ。

ナカタさんがスイッチを切るとカフカ少年になり、カフカ少年が眠るとナカタさんのスイッチが入る。

なぜ、田村カフカ少年は壊れてしまったのか

愛というのは、世界を再構築すること
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p391

幼い時期に母親が家を出ていき、姉は海で溺死(仮説)。父と息子二人暮らしだったカフカ少年。誰も彼を愛さなかったのかもしれない不条理だらけだった幼少期を過ごし、オイディプスに擬えて、父親殺しをするまでに壊れていったとも考えられる。

こうして、カフカ少年が精神的な心的外傷を負っていて、父親を殺害したと仮定すると、孤独な少年の姿はまるで現代の我々の中にある闇のようなものにも見えなくもない。

写真と油絵の謎

これはカフカ少年の父親が写真を撮り、彫刻家でもある彼の油絵作品だと僕は仮説を立てている。
そもそも、本当に母は3歳のころ蒸発したのか?

カフカ少年は呪詛のように、彼曰く、父親からオイディプスのようになるだろうと言われ続けてきた、と言う。

自然に考えれば、海辺の写真を手元に残しておいた父親の行為は息子への愛情となる。
そしてそっくりな構図を彷彿させる油絵。
これは、彫刻家である父親の作品だったのではないだろうか。

また、佐伯さんは、終盤で、カフカ少年に絵を見ろという。
写真ではなく絵を見ろといったのは、カフカ少年の想像力をきちんと機能させること、思い出というフィルターを通して、自分自身で自分を救えると、潜在的に少年は気付いたのかもしれない。

思い出によって時計の針を止めた佐伯さんとの対象的な場面でもあり、皮肉なことに、それは、佐伯さんによって気付かされる。

ところで、僕は、前述のとおり、佐伯さんもカフカ少年の別人格だと仮説している。

カフカ少年が以前止めた時間、ポイントとはどこなのか?

佐伯と内ゲバによって亡くなった甲村の悲劇的な美しい思い出=カフカ少年の遠い幼少期の海辺での家族の思い出のメタファー
として、カフカ少年は想像力を機能させたのではないだろうか。

そもそも、油絵は2階の佐伯さんの部屋に飾ってある。
つまり、虚構の産物かもしれないし、あるいは、写真そのものかもしれない。

想像と現実の知覚意識からみた仮説

海辺のカフカを再読していると、どうしても幼少期から不条理で愛に欠落した環境下に置かれた少年の心理学に思えてくる。

現象学的側面からの心理学といえば、サルトルの想像力の問題を思い起こす。

現実の中に組み込まれていながら、それでいて現実を無効化してくれる特殊な時間
それが想像するということである。
「想像力の問題」イマージュの志向的構造 J.P.サルトル

サルトルは「想像力の問題」 イマージュの志向的構造の冒頭で、意識の〈非現実化〉する偉大な機能、それこそが〈想像力〉としている。

以下、さらに仮説を立てていく。

大島さんについての節で引用したように、カフカ少年は想像力に問題がどうやらあったという意識を大島さんを通して持っている。
言い換えると、カフカ少年は現実を無効化してくれる時間「想像」の機能に問題をかかえている。

カフカ少年の想像力はやがて、心的組織を構成する要素の一部に光をあてようとすることによって再構築を試みる。

この照射された要素の一部がナカタさんであり、ジョニー・ウォーカーであり、佐伯さん、さくらさん、大島さんらとしてカフカ少年の意識に働きかけていくことを、カフカ少年は期待したのかもしれない。


しかし、意識は知覚する意識と想像する意識があり、想像は意識を超えない。

また、心的組織の特徴のひとつとして以下のようなものがある。

全ての知覚は観察され得るものとしてあたえられる。またすべての思索は省察され得るものとして、つまり、ある距離を置いて保たれ、考察され得るものとして与えられる。これに反して、これらの心的組織は、如何なる仕方に於いても観察されることはできない、何故ならそれは意識の水平化の相関者であるから。
中略
またこのような組織はつねに、その存在を構成している《こっそり人目を盗むような》性格とともにあたえられる。このような心的組織の本質は、それが把握し難いという点にあり、すなわち、人格的意識に面と向かっては決して措定されることがない、という点にある。
「想像力の問題」想像力の病理学 p219 J.P.サルトル

本来ならば観察されることのない心的組織をカフカ少年はどうやって着眼しようとしたのか?また着眼できたのか?

想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。一人歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。
僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p314

僕は、カフカ少年は心的組織の構成要素を意識することが不可能なため、結局は、物語に入り込み、すなわち、図書館に、深層心理の場としての森の小屋に入り浸ることで、さまざまな内在する彼の人格たちと向き合って、想像力の再生を試みたように思える。

夢の中では、意識は知覚することは出来ない。何故なら意識は自らその中にとじこもった想像的態度から脱することは出来ないから。
中略
夢は、デカルトが信じたのとは反対に、現実性の把握として与えられることはない。
中略
夢とは何よりもまず物語であり、私たちは、夢の中で、素朴な読者が小説を読むさいに感ずる種類の情念関心を覚える。
中略
《呪詛力をもった》架空的想像である。
中略
夢とは、意識がその《世界内存在性》を喪失し、同時に、現実界の範疇を奪われてしまった場合の意識の姿がどんなものであるかを、私たちに概念せしめるよすがとなる特権的経験なのである。
「想像力の問題」夢 p246-247 J.P.サルトル

そして、カフカ少年は、《呪詛力をもった》架空的想像である、夢を見ることで、さらに深く彼自身たちと対峙していく。

意識は〈世界内存在〉であることによってのみ、すなわち現実世界に対する自らの関係を状況として生きることによってのみ存在可能なのである。
「想像力の問題」p259 J.P.サルトル

現実世界を生きなければいけないことをカフカ少年は潜在的にわかってはいる。

父親=ジョニー・ウォーカーはある日カフカ少年=ナカタさんに、現実から目を背けるなと諭す。

目を閉じちゃいけない。
それも決まりなんだ。目を閉じちゃいけない。目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。目を閉じて何かが消えるわけじゃないんだ。それどころか、次に目を開けたときにはものごとはもっと悪くなっている。私たちはそういう世界に住んでいるんだよ、ナカタさん。しっかりと目を開けるんだ。目を閉じるのは弱虫のやることだ。現実から目をそらすのは卑怯もののやることだ。君が目を閉じ、耳をふさいでいるあいだにも時は刻まれているんだ。コツコツと
『海辺のカフカ』上巻 村上春樹 p253

弱虫のカフカ少年にとってはこの警告はあまりにも強いものだったのかもしれない。時限爆弾のスイッチを押すほどに。

愛や理解者を渇望したカフカ少年を現実と想像の世界の曖昧な境界線上に立つ、佐伯さんと大島さんというカフカ少年の愛や倫理に関わる側面が、強く彼自身を後押しする。それによって、カフカ少年は最終的に現実世界を生きることを選択した。

もう少し、きちんと想像力の問題をレセプターにして感想を書いてみたくもなってくる。

おわりに

再読すると、カフカ少年の父親像が知りたくもなる。
本作品はソポクレスのギリシャ悲劇オイディプス王を器にしているが、父親側から見た世界をもう少し深堀されていたら、オイディプスではなく、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟:田村カフカバージョンになっていたかもしれないなと思った。

村上春樹にとっての普遍的テーマ、父、父性からの脱却にもがく姿が描かれたポストモダン的遊びが多い村上春樹作品を象徴するかのような代表作。

気が向いたら、いつか全員実在するバージョンで感想をまた書こう。

絵を眺めるんだ。
風の音を聞くんだ。
『海辺のカフカ』下巻 村上春樹 p429

余談:作中に出てくる文学たちの一部

饗宴 プラトン
オイディプス王 ソポクレス
流刑地にて カフカ
千一夜物語 バートン版
坑夫 夏目漱石
虞美人草 夏目漱石
アイヒマンの例 おそらくハンナ・アーレント
カッサンドラ ギリシャ神話
トルストイの引用
幸福とは寓話であり、不幸とは物語である。(p273)
海辺のカフカ 作中人物 佐伯さん作詞
イエーツの引用 
夢の中で責任が始まる(p352)
オイディプス王の参照
ヘーゲルの引用自己意識について
ただ観察する離籍から行為する理性へと飛び移ること。
自己と客体との投射と交換(下巻p81)
チェーホフの引用
もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない (p102)
ロルカとヘミングウェイ
ロルカが死んでヘミングウェイが生き残った。
スペイン戦争へ行きたいと言い出した大島さん
ベートーヴェンとその時代

作中に出てくる音楽

大公トリオ ベートーヴェン
シューベルト
探し物はなんですか 井上陽水の歌
KidA Radiohead
グレーティスト・ヒッツ プリンス
マイ・フェヴァリット・シングズ ジョン・コルトレーン


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