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レクイエム②フィクションのなしうること

レクイエム
著者 アントニオ・タブッキ
訳 鈴木 昭裕
出版 白水社

はじめに

再読のきっかけ

少し前にレクイエムを再々読していた。
再々読のきっかけは、まきさんのとても素敵な記事だった。

きちんとさよならを告げられなかった愛おしい不在者たちのためのレクイエムを彷彿させてくれる素晴らしいエッセイでもあり、また、読書についても、読書のみならず、芸術や、現代のもつ問題についても再認識したり考えるきっかけを作ってくださるような、とても素敵なエッセイです。
再読のきっかけを作ってくださったことに感謝します。

レクイエムのあらすじ

暑いポルトガル、リスボンの街、死者たち含めて今ここにいない不在者たちを主人公が会うために彷徨い歩く。
タブッキ作品群でお馴染みの登場ポルトガルの国民的詩人ペソアや、作中人物タデウシュ、タデウシュの彼女だったイザベル、主人公の父親の若い頃。
主人公と彼らとの束の間の邂逅。
レクイエムのあらすじ

タブッキらしい作品で、虚構の幾つものガラスの回転ドアをくぐりぬけ、その度にどんどん何もかもが曖昧になる感覚を読んでいると覚える。

『レクイエム』と『イザベルに ある曼荼羅』は連作なのでもしレクイエムを読んだらぜひイザベルも読んでみて欲しい。

──
ここからは、少し僕がカトリック教徒であることもあり宗教じみていて、読むのが嫌なひとたちもいらっしゃるかもしれない。
それに、僕は長文で傲慢なエゴイストつまり、未熟な人間でもあり面白みもないかもしれない。
また受容体とする思想家たちの思想の解釈もかなり間違えているかもしれない。
これは僕の日記でしかない。
──

芸術としての小説が提示してくれるもの

現実世界の大切な構成要素としてのイマージュ

僕の好きな思想家、サルトルは人間というのは、自身の責任をもって選び取る自由があり、その選択は常に、引き裂かれるかのような裂目=意識とのせめぎ合いでもあり、他者の中でこそ自身の実存を作り上げていくものであると考えていた。僕もそう思う。
そうした中で何が1番大切か?というと、希望なのだ。
希望というのは、生者の中に死者たちが託していくものでもある。不在者たちの追憶は時として、その希望を忘れかけたとき、思い出させてくれることもある。

また、サルトルは『想像力の問題』にて、現実世界はそのレイヤーの上に像を持つ構造として存在することを発見している。
これは、想像力というものの志向性が虚無へ向けられているという想像力の特性のひとつを考えると、小説のみならず、フィクションとしての芸術が、現実世界の大切な構造要素のひとつであるということにも思える。
そして、この第三の特徴は不在の中でこそ顕著である。

タブッキのこの作品の重要な訴えは──不在者たちとの邂逅そのもの──像の志向的構造の第三の特徴をよく準えてもいる。

僕個人の思いだが、良い小説は大なり小なり、この特徴を小説の中で伝えてくることがあるような気がする。

ひとまとまりの偶然としての必然


さて、生きていると、当たり前だけれど、歳を取る。
年を重ねていく中で、大なり小なり偶発的な事件のようなものをいくつも経験する。
乗り越えられるものもあれば、迂回したり、あるいは、記憶の底に沈めたり。

内容は人それぞれであろう。

最も多くのひとたちが共通して経験するのは、自分自身含めての誕生、自我の目覚め、死など極めて動物的でシンプルなものだ。

とりわけ、近しいひとの周辺での生死は喜びも悲しみも大きい。
人間以外の動物も勿論、喜び、悲しむことだ。
人間はとりわけ、他の動物と比較すると、死に対して意識する。
生よりも死に対してである。
死は祝祭、復活への祈りでもある。
カトリックの信仰では、復活はとても重要である。
死を受け入れ、復活を祝福する。
生は連続性を持つが死はその生の連続性を分断するものだ、と考えるひとたちもいるであろう。
僕は、生と死という二項対立に対して、連続と分断とは捉えないようにしている。
それはカトリック教徒だから、とか、それだけではない。

魂や精神の浮遊する3次元空間を思い浮かべて欲しい。
そこにはいくつものシルクの布のような波があり、互いに干渉し合っている。
精神がひとつ、偶然ある日その空間に現れる。
偶然別のある日、その空間にまた別の精神が現れる。
偶然、それらの精神が共鳴し、偶然の事象を共有し、その空間でふたりだけの共犯者になる。
偶然と必然、これも二項対立的だが、二項対立ではない。
偶然と偶然のまとまりが、振り返ると必然になるのだ。

ひとまとまりの偶然と愛

愛とは、そのような共犯者たちによって波紋が広がるようにその空間にさざなみを生み出していく。
決して同一のものはない。
ある日、共犯者たちのひとりの肉体が朽ちる、
けれど、精神は、愛の中、他者の共犯者たちの中で、円環上を滑らかに滑りながら、惑星が太陽の周りを回るように、他の生の内に形を変えながら浮遊する。
愛がなくなり、誰からも思い出される余地がなくなったとき、消滅する。

だから、それまでは、生と死は連続と分断ではなく、あくまでも、死は生の通過点なのだ。

と、僕は考える。

肉体の喪失に悲しみに打ちひしがれ、肉体の在りし日の愛するものたちを追憶することもある。追憶することで、彼らの精神と、自分以外のものは立ち入り禁止区域の領域で、邂逅する。

まるで過去を準えるかのように、追憶してしまうこともある。

それは僕の弱さであり、死を受け入れられておらず、彼らの精神の復活を見ていないのだ。
彼らの声や表情を思い出して、彼らと心の僕だけの領域で対話できたら、彼らの精神は復活するのに、だ。

わかっていても、できないのは、時間が足りていないのかもしれない。
時間は淡々と近似的に同一のリズムを打ちながらこの4次元の時空空間のひとつのファクターとして機能している。
われわれの認識し得る次元の時空空間が4次元なだけで、広大な宇宙は11次元以上の次元から成り立つ。
素粒子のような非常にちいさな世界では多次元を確認でき、そのような空間は非常に不安定ではあるが、時間のベクトルも規則もばらばらだ。
だから素粒子くらいに小さな世界を認識できるひとは過去へも行ける、かもしれない。

僕らは残念ながら、認識できない3次元空間、時間を混ぜれば4次元の時空空間でしか、いま、生きていない。

過去を準えて生きようとするのは、存在し得ない虚数扱い、か、踏み潰されるのを覚悟でアリより小さくなって、素粒子なみの世界を認識できるよう、望んでいるのと、あまり変わらないのかもしれない。

肉体の消失で、周りが受け入れるのに時間がきかるのは、理不尽な消失の場合であろう。
当人にとっても、周囲にとっても。
病死も勿論時間はかかるが、特に、ある日突然、その不在を知ると時間がかかる。
犯罪、紛争、戦争、そして自殺。
どれも他者が介入できるように思うのだ。

介入できたのに、介入せず、これらを目の当たりにすると、本人が思っている以上に、時として、悲しみの時間が長くなり、魂、精神の復活を祝福するまでが長い道のりになる。

日常という芸術


信仰心のなき人たちもある人たちも、共通して考えられるのは、生ある側の死者たちの記憶を軽んずることなく、悲しんでいる自分を認めて、彼らのことを思い出し目を閉じて、そして、眠り、朝が来たら、目の前の生を讃歌することである。
と、僕は考える。

眠り、朝目の前の生活を讃歌する。
思い出をその讃歌の中にたまに混ぜてあげることもある。

人間はいつしか動物的強さをどこかに置き忘れ、代わりに、傲慢さを手にしてしまった。

だから、動物的強さ、逞しさ、素朴な太陽への讃歌=良い意味での愛への欲望を取り戻す瞬間を無意識的に希求する。
それは芸術の中に、日常という芸術の中でこそくっきりとその希求の痕跡を認められる。

日記を書く、物語を書く、音楽をつくる、絵を描く、要するに芸術で表現をするというのは、そうした不在者たちに僅かにフォーカスしながら、ひとり静かに彼らと対話できる手段でもあるように思える。


母国語以外で表現すること


母国語以外で表現すると、ある意味では、前述の多次元を想定し、視点をずらしたり、あるいは、あえて、見えなくしたりもできるかもしれない。あるいは、見えないふりをしていた表現者自身の感情を表現者自身がじっと深く見つめられるときもあるかもしれない。ぼやけた見えずらい感情や思索をクリアにしてくれたり、解像度を上げて見えやすくしてくれたりもする。
そして、見出したものの持つ二項対立的要素の曖昧さがより一層、心の中で、外で、共振し始める。

グラデーションの曖昧さ


一見、二項対立的なものであっても、そうしたもの───例えば、生死、偶然と必然、記憶と忘却、そして、タブッキのテーマでもある存在と不在など───はグラデーションが幾つものとてもナイーブな層によって境界が構成され、実に、曖昧なものである。そして、そのグラデーションはドゥルーズ的に言うならば存在の差異と反復でできており、生と愛への讃歌という欲望、生そのもののシステム、存在の一義性を永劫回帰的に反復させた結果表象するものである。と僕は考える。
また、グラデーションはそこにただ在り続ける、
と僕は最近考えている。

バイアスを取っ払い、タブッキが『遠い水平線』で訴えたように、スピノザのような水平な目で見れると、そのグラデーションがただあり、それを尊重し、抱きしめないといけないことを感覚的にわかるのかもしれない。

タブッキは『レクイエム』だけでなく、いくつかの作品で、彼の愛するひとたちに会いに行っていたのだろう。

タブッキの素晴らしさは、エーコと少し似ている。論理やデータ分析、AIによる予測や分析哲学的なものでは、提示し得ない、けれども、普遍的な独立性をもった普遍的な、真実を再認識させてくれる。
物語をいくつも読み重ねていくと、真実が如実に浮かび上がる時があるのだ。

おわりに

タブッキは無神論者でもあるが、この本にあえて『レクイエム』というカトリック的にいうならばミサを指すタイトルを付けた。
宗教的な意味合いではなく、もっと軽やかな、ポルトガル語で書いてはいても、イタリア人らしい明るさを感じる死者たちへの讃歌のように、僕は思える。

小説家に限らず、僕が好きな芸術家は、ミクロからマクロ的な「愛、生」を讃歌するための思索から自然との調和や想像力を能動的に働かせてくれたりする。
現実世界の上にある想像は、僕の目の前の現実世界の存在の真実を見出すためにも欠かせない大事な機能である。

だから僕にとっては芸術に触れていることは、魂の共振であり、それは僕の存在を僕が知る契機にもなり得るほど大きな共振なのだ。

追憶の中、存在した不在者の影を追い、僕自身の存在をほんの少しだけ認識する。柔らかい時もあれば絶望的な自己嫌悪を伴う時もある。何と言って表現したら良いのかわからない。

とにかく、おととい、この本を読んだあと、ある友人たちのことを思い出し、悲しくなって、やり場のない気持ちだった。緑の窓のカクテルとリスボンの幻想に想いを馳せて、その気持ちを少しだけ記憶の澱として沈める。時間は残酷な側面だけではない、と希望を持って、まだ誰も手をつけていない真新しい朝の湿気の中で深呼吸し、顔を洗い、髭を剃り、歯磨きをし、毎日そうして、新しい人間になるのだ。
そして、
私は太陽である
と、呟き、鏡を見る。
これはバタイユが僕に教えてくれた。

これは、僕の極めて個人的な体験に基づく感情や考えであって、他のひとに押し付けたいわけではない。

誰かにわかって欲しいというのは、どこかで願ってもいるけれど、それは僕が未熟だからなのだというのもわかっている。

日記とはそのような時に効果を発揮するのだ。

つまり、これは、僕の日記。

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