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騎士団長殺し

著者 村上春樹

1Q84で失望したあと、しばらく彼の作品から遠ざかった。僕にとっての春樹は、「海辺のカフカ」までで良いや、とぼんやりと思っていた。1か月以上前に、僕が昔春樹を大好きだったというのを知った妻が、数冊彼女なりに選んでくれて、一緒に読む羽目になった。そのことについてはホワイトデーの惚気で書いている。

余談だが、妻(ロシア人)はツルゲーネフオタクであり、彼女にとってはこれが初めての村上春樹である。僕の稚拙な解説混じりの読み聞かせで、何度かエロ描写で感動しながらも、村上春樹を好きになった模様。彼女的には楽しめたらしい。(正直言って、もうそれだけで充分に個人的には価値があったのだが)

序盤から懐かしい春樹ワールド全開で、単純に面白い。良くも悪くも、相変わらずの春樹だった。
現役ハルキストの方々に当たり障りのないように感想を言うとすると、(僕は旧ハルキスト)

羊三部作、ねじまき鳥、そして少しふらついての1Q84と展開させてきた春樹の自分探し集大成であり着地点。 旧大日本帝国の戦争責任に関して何かしら言及したがりながら傍観者スタンス(彼自身の戦争中の日本軍に対する個人的な思いというのは恐らく強いはずだが)なのも相変わらず。 面白いか?面白くないか?で、言ったら面白い。 春樹ワールド全開なので。 ただ、少しがっかり感は否めなかった。 全編を通して、サルトルの嘔吐とドンジョバンニを器とし、オーウェルの一九八四年へのオマージュ的なものを感じた。加藤典洋が生前に批評したように、積み残しを建て増した(-村上春樹の世界より)というのも賛同できる。彼にとってカラマーゾフの兄弟は体に染み付いているほどだし、彼自身の言葉で1Q84においてはサルトルへの対抗テーゼ(考える人2010夏号)と言っているとおり、そこはかとなく今作品でも取り入れているように感じた。


以下は、かなり嫌な思いをさせ、何様?!的な謙虚のケの字もない独我論的な感想になる為、ハルキストの人たちは読まない事を勧める。

ただ、誤解されたくないからはっきり断言しておくが、面白いし、春樹の集大成的な作品である。そして、僕は、今でも、彼の短編と、「海辺のカフカ」までの長編は好きだ。そして、大衆文学者として彼は間違いなく、頂点にいると思う。



※ネタバレ含みます
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キャラ考察

オーウェルの一九八四年サルトルの嘔吐、フィッツジェラルドのグレートギャッツビーと若干のカラマーゾフの兄弟を絡めて稚拙な考察を少しだけする。
私(僕)
うだつの上がらない肖像画家
妻とは別居中
春樹自身
アリョーシャか、イワンか不明

彼女1号二十代?人妻
彼女2号40代人妻主人公 私と彼女2号の関係はオーウェルの一九八四年のウィンストンとジュリアを彷彿させる。1号はウィンストンの別居中妻

免色
インサイダー取引か何かでしょっ引かれた経歴の持ち主で白髪だが容姿端麗。
私に肖像画を依頼する。
死んだ恋人の娘の秋川まりえの実父ではないかと自身で思い、まりえの家が見える場所に豪邸を構える。
グレートギャッツビーのギャッツビーを彷彿させる。
イルカになれない男(イルカホテルかよっ)
私にとっての対他自存在
イワン的な位置付け

雨田具彦ともひこ
私の同級生雨田政彦の実父
日本画家
戦前ドイツで油絵を学ぶ為に留学していたが、ナチ絡みで日本へ強制送還。
帰国後、日本画家へ転向し、騎士団長殺しの絵を屋根裏に残す。
私にとっての対自かつ対他自存在
アリョーシャ的な位置付け

雨田政彦
私の同級生
父の住んでいた空き家を私に貸す
暗殺計画露見、婚約者もいたが、当時の彼女はマウトハウゼン強制収容所にて命を恐らく落とす。
私にとっての対他自存在

ユズ
私の妻
私にとっての対他自存在

コミ 実妹
13歳で病死

秋川まりえ
13歳の美しい少女
グレートギャッツビーのデイジーか?
その場所はそのままにしておくべきだった、その穴を開いたりするべきではなかった(p233)と言う
私にとってのスーパービジョン
団長がゾシマならまりえはアリョーシャ的な位置付け

まりえの母
スズメバチに刺され死亡
イワンとアリョーシャの若くして亡くなった母

秋川笙子
まりえの叔母
こちらがグレートギャッツビーのデイジーかもしれない。

秋川まりえの父親
怪しい新興宗教の食い物にされているかもしれない(p146)描写が非常に少ないが、フョードル的な位置付け

雨田継彦
ともひこの弟
芸大ピアノ科に在籍していた二十歳の時に南京へ兵として行く。帰国後、間もなくともひこの家の屋根裏で手首を剃刀で切り自殺。
自殺のみが人間性を回復するための唯一の方法だった。3度にわたる軍刀での首はね練習(p100)遺書に南京でのことが記されていた。(p99)
ミーチャかあるいはイワン的な位置付け

騎士団長
雨田ともひこの絵から抜け出してきたようなイデア。誰にでも見えているわけではない。
私には鈴の音で存在を知られる。
私にとってのスーパービジョン
ドストエフスキー カラマーゾフの兄弟でいうならばゾシマ的な存在

鈴とペンギンのストラップ
雨田ともひこの敷地の古い井戸跡から免色さんが見つけ出す。
第二部序盤で行方がわからなくなる。
現実と虚構の境界線を行き来させる。
ロカンタンの嘔吐的な存在。
トレブリンカ叛乱の最後でサムエルヴィレンベルクはサイレンを思い出すのだが、警鈴として、または前述のように嘔吐のようなトリガーとしての役目も持つのかなと思う。


ペンギンのストラップはスーパービジョンの中への突入代金

白いフォレスターの男
私が妻から離婚を切り出された後、旅の途中岩手県三陸沖海岸?でちらっと出会った人物。
一夜を共にした見ず知らずの女と何か関係あるのか不明
旅から戻り、雨田ともひこの家で免色さんの肖像画をかきあげたのち、この男の肖像画に取り掛かる。
強い何かを持つ絵となる。
おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ(p322)ビッグブラザーみたいな?
内側にある深い暗闇に、昔からずっと住んでいた(p376)私の二重メタファー
私にとってのまなざし

旅中、寝た女
誰かに怯えたような女
ファミレスで出会い、そこで白いフォレスターの男とも出会う。
嘔吐ロカンタンにとっての宿屋のマダムでありアリーでもある

顔なし
まなざし、スメルジャコフ的な位置付け

顔のない肖像画依頼者=渡し船の船頭
虚構の中の私であり、真実の私自身

と言ったところだろうか。
ロカンタンよろしく最後に自身の在り方は現在にあるとし、営業肖像画家の道へ、家族という希望も彼の背を押して力強く歩き出して現実を生きているところで締め括られる。

今回勉強になったこと

この作品を通して、本編とは逸脱して、いくつか勉強になった。

トレブリンカ叛乱
アンシュルス
クリスタルナハト
南京虐殺
サルトル 嘔吐の再読、想像力の問題と存在と無を部分的に再読
グレートギャッツビー 村上春樹版再読

このうち、第二次世界大戦前後のことに関して少し記述しておくとする。

トレブリンカ叛乱
トレブリンカ叛乱に関しては過去の僕の記事を見ていただきたい。第一部の最後に引用だいぶ長くされているが、無論ホロコースト当事者の方々にとってトラウマを処理するのはこうであろうというのはかなり稚拙な使い方だと思う。彼らは後世に語るべきことを出来るだけ語ろうとしてきた人たち、もしくは、そういう思いを持っていたと思う。絵の中で単に処理するだとかではなく。(もちろん強い意志を持って絵、音楽や文学として表現されてきているものは除く。)

誰のために私は闘っているのか?
目の前を何人もの像が通り過ぎる――もう生きてはいない人々の顔、顔。私もベルリンに向かって動きはじめた。だが私の母国のためにではない。トレブリンカで惨殺された犠牲者たちの血の復
ればならない義務がある。私の抹殺された民族の血の⋯⋯。
声がした。私を物思いから呼び起こす。
「イゴ、どうしたの?とっくにサイレンは聞こえなくなったわ」
あたりの陰うつな気配がゆっくりと消え、太陽が目の前のテル・アヴィヴの通りを燦々と照らしている。ホロコーストと英雄たちの記念日が始まった。
トレブリンカ叛乱 サムエルヴィレンベルクより引用

アンシュルス
1938年ナチスドイツによるオーストリア併合
これにより、オーストリア全土で約19万人いたユダヤ人たちの多くは国外亡命やホロコーストに晒され、1945年5月を迎えられたのは僅か約五千万人であった。

https://www.afpbb.com/articles/-/3168224

104歳のホロコースト生存者、アンシュルスについて語る
2018年3月21日 14:46 
発信地:ウィーン/オーストリア [ ヨーロッパ オーストリア ]
AFP通信記事
ファインゴールドさんは、偏見との闘いの現状についてどう思っているのだろうか?聞くと、「反ユダヤ主義は今も存在する。人々が、なぜ自分が反ユダヤ主義なのかわからなかったとしても。でも複数の都市ではその数は減ってきていると思う」と語った。

クリスタル・ナハト

水晶の夜とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害である。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。 暴動の主力となったのは突撃隊のメンバーであり、ヒトラーや親衛隊は傍観者として振る舞った。 ウィキペディア

南京虐殺
僕の祖父の父は満州で騎馬兵として出兵しており、祖父がその当時の事を曽祖父から聞いたことを僕に教えてくれた。旧陸軍の残忍さ、また、上官の命令=天皇の命令とし、叛くことは許されない。非常に人間性を失いかけないこともしてきたこと。曽祖父は左右の指を2本ずつ爆撃により欠損し、帰国。爆撃にあった時、何としてでも生きて帰るという思いと同時に日本に残してきた曽祖父のお母さんの顔をいつも思い出しながら苦悩しつつも従事していたとの事。祖父に曽祖父は、旧陸軍のしてきた事は日本は反省しなければならない。特に731部隊のしてきたことをなかったかのように戦後の日本が扱っているように見えていたとのこと。第二次世界大戦中、ナチスドイツと旧日本帝国は同盟国であり、ナチスドイツのしてきたことも含めて後世へ戦後のドイツのように、日本も教育の一環として、繰り返してはならない歴史の事実を知らなければならないこと。
などをたまに話ていたらしい。

感想


相変わらず春樹のブレブレ感否めなかったし、案の定、第二次世界大戦前後の話題を持ち出すくせにそれに対する彼の明確な主張が見出せないし、そうした歴史的事実を掘り下げてポリフォニーの根底を支える一つのテーマに仕上げるということも放棄されていた。
「きみは見ない方がいい。まだ早すぎる」
「でもほんとのことだよね」
「そうだよ。遠くでほんとうに起こっていることだ。でもほんとうに起こっていることをみんな、きみが見なくてはならないというわけじゃないんだ」(第二部p532)
理解することと、見ることは違う。
確かに子どもの成長過程に合わせて見るのが早いものというのはある。彼がこれを持ち出した意図は素直に受け取れば、東日本大震災という悲劇的な事実と室の誕生と成長=希望とが対象的で、希望ということや、前進するといったことがより明確に印象付けられる。しかし、これを言い訳に体よく彼は今回も自身の考え、主張を明言することを避けたようにも僕は感じた。

羊三部作、ねじまき鳥、かなりのブレブレを見せた1Q84の着地点=春樹自身の在り方をもがきながら模索し続けてきた集大成的な作品と感じた。
サルトルやモーツァルトらを器として、少しギャッツビー風味なオーウェルの一九八四年へのオマージュ的なものを装って、春樹の小説家としての2017年時点での在り方が連ねられている。
大衆文学の頂点に君臨する村上春樹。1000ページにおいてまだ自分探しをさせ、自分の今までの在り方をのんべんだらりと彼独特の言葉のリズム感でのみ語るにとどまってくれていた。従って、オーウェルにもサルトルにも器を都合よく毎度ながらに借りながら、何の進歩も見られず、両者の足元にも及ばない。(及ばないとしたのは、主に、文学者としての社会的責任を行動で示しているか、自身の主義主張をテーマで明確に、読み手に委ねる事なく、しているかどうかという点において。)
しかし、大衆文学としては、それでこそ、といった感じはわからなくもない。


 主人公である私は商業的絵描きから芸術家としての絵描きに、免色を通して、具彦をとおして、そして自画像であろうスバルフォレスターの男を通して、エピファニー的に転向しかける。
しかし、それはまだ早すぎたようだ。
結局は、嘔吐ロカンタンがブーヴィルの港町をある決意を持って出るように、主人公も営業的な絵描きとして、平凡な、しかし彼にとってはかけがえのないもの、生活が、今の彼にとっての在り方であると決定づけ、ユズと娘と共に生きていく。
その先にもしかしたら、いつか芸術家としての絵描きになるかも知れない。
そしてそのような二重思考的な、大衆や営業相手の絵描きと魂=芸術家としての絵描き、どちらも自身の中に在ると信じた。
今は、家族らと営業的な絵描きをしながら生きることに強い確信も持った。
二重思考、メタのバランスの中で生きる免色とは違う。

彼の短編はとても好きだし、サルトルに僅かながらの対抗心を燃やしているのも見てとれて人間臭いなと思う。

その見事な芸術作品は私の心の中に今もなお実在している。(第二部p540)

サルトル 想像力の問題から
ここで注意しなければならないのは、わたしたちがイメージするとき、それは知覚した映像の残像のようなものがイメージではない、ということだ。
それは具体的な映像の記憶ではなく、抽象的なあるいは透明な像である。

サルトル 想像力の問題から
芸術作品とは非現実的存在である。                 

サルトル 嘔吐にて
すべて現在でないものは存在していなかった。

僕はこの作品は彼の集大成であり、村上春樹の大衆文学者としてのスタンスの表明のように思えた。2017年に出版した当時の村上春樹は、まだ大衆文学を描く村上春樹に留まったままであり、サルトルらがしたような人々に進むべき理想の方向性を指し示し、生きる希望を与えるような文学を描くスタンスへは舵を切らなかった。

僕がサルトルを愛してやまないのは彼が文学者として、また、哲学者、思想家として、ブレることなく首尾一貫して言動、そして行動したからだ。
彼は、自身で「これは俺の戦争だ」と引き受け社会へ立ち向かった。もちろん生涯を通してポストに爆弾を仕掛けられたり色々あったわけだが、彼は怯まなかった。
村上春樹はサルトルへの対抗テーゼとして1Q84を書いた。(考える人2010夏号でのインタビュー)彼は出来るだけ目立たない普通の人として、傍観者スタンスで平穏無事な平凡な生活を望んでいるし、その意志はこれまでの作品に脈々と現れている。だから、戦争、サリン事件などといった歴史的な事実や社会的問題に対しても傍観者的なスタンスなのか?サリン事件に関して、アンダーグラウンドでは作文的なものを彼は書き上げたにとどまった。何がしたいのか、何が彼の意志なのかはっきりと提示する事をあえて避けるのは何故なのか?非常に疑問である。単に、サルトルを何となく意識してイデアや現象を実験的に取り入れるのであれば、現象を否定しイデアを肯定し自身の思想と文学と社会へのスタンスをエキセントリックなまでに明確に訴えた三島由紀夫の方が明らかに文学者としての美学を貫いている。しかし、そういう時代なんだろう。文学者に社会的責任やら美学を追求せよというのは時代遅れなのかもしれない。

そういう意味で、僕は少しがっかりした。
次の長編作品を出版するとしたら彼は70代中盤から後半になっているかも知れない。
どのようなジャンルかというのは関係なく、文学者として社会的責任をもう少しはっきりと提示した彼の作品を期待したい。
個人的には、2019年に肺炎で亡くなった彼の作品の批評家として加藤典洋が好きだ。僕のこのような記事の百万倍価値ある記事を書いている。村上春樹作品に寄り添うように彼への尊敬の念を持ちながら厳しい批判の目も保ち常に素晴らしい村上春樹作品の批評をしてきた加藤典洋の批評を読めないことに、喪失感を覚えたのも事実だ。

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全く読者の方々には関係ない話だが、妻は今、頑張って一人で「風の歌を聴け」を読み始め、すくすくとハルキスト王道を歩み始めつつある。


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