ハードボイルド書店員日記⑤

私は過去の自分に興味がない。
だから昔の職場に足を運ぶこともない。自分がいたときよりも賑わっていてもいいし潰れていてもかまわない。それでも半年に一度はグラスの中のアーリータイムズより年季の入った中古のノートでツイッターを覗く。

前回は写真で見る限り、雑誌のコーナーが広くなっていた。あれなら大量に入荷して一気になくなる芸能誌を展開しやすい。だが今は元に戻っている。カレンダーと手帳、家計簿が矢継ぎ早に入ってきて浸食されたのだろう。ブランドムックを置くスペースも足りなくて悩んでいるに違いない。各店舗の事情を考えず、本部が勝手に一括注文するからだ。エクセル関数だかなんだか知らないが、劣化AIみたいな仕事をしていたら先は長くない。尤も問題は本部の人間だけではない。フィッツジェラルド「夜はやさし」を「こんなの売れない」と即返品する文芸書担当や、原氏の「それまでの明日」を他の沢崎シリーズと並べて展開しない文庫担当が実在するのだから。

「売れる本がいい本だ」「とにかく売れる本が大好き」
前の職場の店長の口癖である。売れる本が好きで、好きな本を売って儲けるのが好き。だから売れる。実存主義でもない私がカフェのオープンテラスで吐き気を覚えるほど見事なサイクルだ。大型書店の経営者は大概こんなものである。文芸書の棚を一望してふふんとマーロウ気取りで鼻を鳴らせる店は個人経営に限られる。

「売れない本を売る」「面白くて売れない本が大好き」
私という職場の店長の口癖である。だから売れない。私の人生は永遠のマイナーリーグだ。前の職場の年収が3Aよりやや上だった。今は2Aクラス。その分自由が増えた。ハンバーガーリーグ? けっこうなことだ。脂の多いサーロインステーキは胃がもたれる。ハンバーガーの方がすぐに消化されて時間を有効に使える。無意味な掌編を平日の深夜に書き飛ばしてひとりで遊ぶこともできる。

日本プロ野球で三冠王を達成したある選手が、著書の最後に「仕事を終えたら一杯の白飯を食べられればいい。それに焼き鮭でもつけてもらえば十分に幸せ」と記している。私はチーズバーガーにオニオンリングをつけてもらえば生の僥倖を存分に噛み締められる。あとはヘミングウェイの原書があれば十分だ。今を全身全霊で楽しめる。私は成功者だ。あの偉大な三冠王と同レベルで人生に幸せを感じているのだから。

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