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「生きづらい私」の問題を考えてみよう。今こそ、自分と対話するべきなんだ

こんにちは、レイです。

今回は「生きづらい」「生きる希望がない」
という状態にならないために、一歩踏み込んで考えてみようと思います。

自分の生きづらさを解決する方法は、実はたくさんある。その中の一つに、「自分だけの自分の人生を生きる」というものがある。ただ、自分の現状を正しく把握できていないと、何が課題なのか分からず対策できません。

大事なのは、『今の自分の問題を把握する』ということです。
自分で考える習慣と癖を身につけておきましょう。「生きづらいなぁ」とか、「なんで生きるのかな」を思うのは、感じているだけです。

今日こそ、そこから一歩踏み込んで課題を明確にしていきましょう。

楽しくない、生きている理由がわからない。
何が悲しくて、私は生きないといけないのか。
そんな疑問を持ったまま、当てもなく彷徨う人生を今日で卒業しましょう。

これ以上、不要に自分の幸せの搾取をされることをやめましょう。それは、あなたの人生の時間を、一番無駄遣いしています。それくらいなら、SNSをして、YouTubeを見てるほうが、まだ価値がありますよ。

せっかくの一度きりの人生なんです。自分らしく、自分の人生を生きる覚悟を持とう。そして、自分のために、今この瞬間に一歩踏み出しましょう。

息の詰まるような、呼吸できなくなるこの生きづらさを捨てて。
見栄や、他人依存の人生をかなぐり捨てて。
誰かから見た自分とか、誰かのための自分とか。そんな、不要なベールを脱ぎ棄てて、自分のために生きていきましょう。そして、誰にも邪魔されない、自分だけの幸せな物語を紡ぎませんか?

充実した、自分だけのオリジナルの人生で、
ほかの誰にも譲られない、誰よりも幸せな物語を書きましょう。

もう、人間関係に縛られて苦悩するのは終わりです。
人に不用意に傷つけられて、いやな思いだけをして一方的に反省会をするのも、終わりです。
大嫌いな人に囲まれて、苦痛な人生を送ることも今日でおしまいです。

今回のnoteは、生きづらさを感じたり、生きる意味を見失っているあなたに向けて書いています。このnoteでは、環境を改善することの大切さを伝えていきます。

自分でできることをしてみて、やはりだめなんだ。
そうなったときには、このnoteを読んで環境改善をしてみましょう。
そのために、少しだけ自分の時間を使用してみよう。


人生って思い通りにならない


人生は、非常に不条理だ。正直、自分の思いで変えられることや、自分の価値でどうにかできることなんて、本当に少ない。思い通りになる人生って、「無難」で、楽しくないのだろうか。
でも、「無難」でつまらない毎日でいいから、この生きづらさを解決したい。そう思う日もあります。

でも、自分の人生で自分がコントロールできるものが、たった一つだけあります。それは、「自分自身」のことです。他人をどうにかしよう、他の人を誘導しようと思うと、かなり面倒。正直、そんな傲慢な思考や心は速攻で捨てたほうがいいですよ。

他人に期待しない

「きっとこうしてくれる」「何かしてもらえる」「行動してもらえる」
「気を使ってくれる」「彼だけがわかってくれる」

そんな、根拠もなく他人に期待していませんか?
他人へ強く期待すると、その期待に応えてもらえなかったときに「裏切られた」と思ってしまいます。そして、人に裏切られると僕らは大なり小なり、「裏切られた」という、精神的なダメージを負うことになります。

このダメージは、大なり小なり僕らを容赦なく傷つけます。例え小さな心の傷だとしても、容易には回復しない傷です。心の傷って、気が付かない割にダメージが多く、救いようもないです。

だから、その小さなダメージを減らす工夫が必要になる。そのためには、自分の事をもっと意識して、行動していく必要があります。

君だって他人に興味ないだろ?

悲しいかな、日本人の国民性として「誰もが危険を嫌う」のです。
表面上は「優しい人」でも、実は事なかれ主義ってことがあります。といか、僕の人生観に基づくと、8割以上の人が事なかれ主義でした。

最初だけ手を差し伸べて、少しだけ期待させて、問題が深刻化していくと放置。そして、きっとその現象はありふれていて、当たり前になっています。
例えば、街中で困っている人がいたとして。あなたは、サッと手を差し伸べますか?人の荷物を持ってあげたり、道を譲ってみたり。

一人ならするかもしれません。でも、周りに人がいたら?そして、誰もが見て見ぬふりをして行動していたら、どうでしょうか?
そもそも、その困っている人が、あなたの視界に入っていますかね?
きっと、認識すらできてないことが多いのではないでしょうか?

多分、僕らの他人への興味関心なんてその程度です。
それなのに、他人に対して過度に期待している自分がいませんか?
それは、酷く歪で変なことですよね。

比較したところで得るものはない

さて、不思議なことに「誰かに興味がないくせに、他人の輝き」にはひどく関心を示します。それは、多くの人が抱えているものでしょう。

簡単に言うと、SNSや動画配信です。他人のキラキラとした毎日の瞬間を切り取ったものに、憧れを抱くのは仕方ないでしょう。人によっては、「自分もそうなりたい」と真剣に考えるかもしれません。
考えるのは、大きな問題でも、悪いことでもありません。

でも、不要な劣等感を感じていませんか?そこにあるのは、ただの事実であり、貴方が悲観するようなことではないはずだ。今の自分の位置が把握できただけで、そこから変わることもできるでしょう?

貴方が人何かを比較したところで、何も得るものはないのです。それは、事実確認をしているだけ。それ以上、そこに何かを求めるのは傲慢ですね。だって、興味関心ないのだから。少し目撃した、ちょっとだけ意識したことに、過剰に反応しても、もったいない時間ですよ。

そして本当に、「変わりたい」「あこがれる」「自分もこうなりたい」と思うのであれば、行動できるはずなんだ。行動してから、何か動き始めてから。劣等感でも、何でも感情を抱けばいいんだと思う。そして、動いた先では『完コピ』で満足できないだろう。

その完コピを選ぶのではなく、自分の道を選んだ瞬間。その瞬間が、君の物語を紡ぐときなんだろう。思い通りに自分をコントロールして、自分だけの人生を歩き始めるんだ。

自分の問題を把握してみよう


様々な「生きづらさ」があるなか、その原因を正しく認識できている人は、かなり少ない。実は、「何が原因」なのかを、自分自身で認識できている人って、本当に少ないみたいなんです。

自分にとって、何が嫌なのか。もしくは、何を自分は守りたいのかを、しっかりと吟味して考える必要が、今一度あります。このnoteを読んでいる今のうちに、しっかりと考えて問題を可視してみませんか?

何故問題を見ていないというのか?

何故僕が「問題を可視化できていない」と断言するのか。それは、「生きづらい」という問題があったときに、そこで終了するからです。「あー、今心が病んでるなぁ」とか、結局はそこで思考停止します。

もっと酷い時には、「病んでる 対処」みたいな感じで、検索していませんか?なんで、自分の問題をインターネット上で検索するのでしょうか?しかも、その中に表示される内容で問題が解決できる、そう信じ切っていることが非常に残念です。

動画媒体でも一緒です。多分、その一瞬の意識だけであれば、一時的には解決できるでしょう。ちょっとした言葉に救われたり、その日だけ心が軽くなるかもしれない。でも、その先に何かあるのでしょうか?多分、数日後にはまた同じ問題にぶつかっていませんか?

それは、『自分の中にある問題を見ないから』ですよね。自分自身の、真の問題を考えるときに、誰かの中にいる自分で、答えを探しているのです。
それは、永遠に答えが見つからなくて当たり前なんですよ。だって、自分の中にしか自分がいないのだから。

だから、あなたは、自分の問題をいつまで考えても可視化できないのです。

人に依存しすぎな問題

自分の人生を考えるときに「他人の評価」や「他人の視線」を気にしていませんか?僕は、「無駄」と切り捨てることも多いですが、実際問題としてだれもが「他人」を気にして生きています。

それは、SNSの発展により「相互監視社会」になった現代では、『悩むな』という人が異常なんでしょう。でも、誰もが「我を行く人に引き付けられる」のは、なぜだろうか?そこに、自分にない何かを見ているのではないだろうか?

そして、そこにこそ問題の本質が隠れているように思う。他人には大した興味がないくせに、他人からの評価を気にして生きている。
もう一歩だけ踏み込んでみると、「他人を通して見れる自分」に興味があるんだ。

そして、その他人を通してみた自分。その自分に対して、更に他者評価を当て嵌めて考えていませんか?だとすると、相当に生きづらくて、当たり前ですよね。監視社会の中で、監視されている自分を過剰に意識して行動しているのですから。

自分が、誰かかからどう見えているのかを考えて。
その自分の、ありたい姿を考える。
ありたい姿に対して、周りがどう評価を下すのかを考える。
そのうえで、行動を決断していく。

なんだろう、常に監視されている有名芸能人か何かですか?
そう思わずにはいられないような、そんな行動です。
そこまで、誰かに束縛されていなければ、自分を保つことができないのだろうか?

他人からの評価、他人に認められる。
この二つに、ひどく敏感で依存しているようだ。

一番見てほしいのは、本当の自分

実際に「孤独」を感じている人の話を聞いてみると、更に問題は深刻化していく。はじめは、「演じている自分」が認められて、評価されると嬉しいようだ。そして、その「認められている自分」に寄り添って、さらに「求められる自分」を追求する。

ただ、ふとした瞬間に思い返して絶望する。「え、誰も私を見てくれないじゃん?」というように。
そう、最終的に見てほしかったのは「自分自身」であるはずだった。だが、だれもが興味を持つのは、「作り出した自分」なのだ。
その事実に気が付いたとき、突然襲ってくる虚無感と空虚な自分に対して対応ができなくなる。すべてが無駄で、無意味で無価値なものに感じるからだ。

それが、孤独感を感じる原因になる。
どれだけ有名になっても。誰も、「本当のわたし」というのを、直視してくれる人がいないんだ。見て、考えて、寄り添ってくれる存在が、何処にもない。

有名人になると、確かに「自己表現の場」が限られてくるのかもしれない。
でも、一般人でソレを気にして行動するのだろうか?それは、少し変だと思う。なんだ、君は友人つくり一つさえ、「印象商売をしなければ作れないのか?」という、単純な問題に行き着くだろう。

この答えというのは、本来であればNOでいいはずなんだ。
でも、現実問題としてはNOと答えつつも、実際にはYESな人が多い。無意識に、反射的に、「有用である自分」「相手に求められる自分」「評価される自分」を、演じてしまうからだ。

まず、あなたが本当にしなければならないことは、明確だ。
「本当の自分」というのを、周りに見せてみることではないだろうか?

自分を見失い喪失する問題


今、話てみたのは、よくある問題の一つに過ぎない。実際には、種々様々な問題があって、それは自分でも可視化できていない場合がある。
正直言って、それを知るには「自分と向き合う」しかないんだ。そして、一つ一つの問題に対して、真摯に自分なりに向き合って回答を得ることが重要だ。

自分を検索する

信じれないという人がいるかもしれないが、「自分の問題を検索している」人がいるのだ。生きづらさの改善方法や、自分が生きづらい理由を検索して、解決する方法を探すらしい。
そこには、何もないというのに。

インターネットは確かに便利だ。正直な話、君のSNSでの投稿などから、心理学に精通して、行動を分析すれば、君の問題を的中させて回答を得ることができるだろう。ただ、そんな優秀は心理学者は多忙だし、研究で忙しい。

さらに言えば、君のためだけの記事を書いてピンポイントであなたに届けるような努力もしないだろう。厳しい言葉だが、ネット上で君が検索してヒットする範囲で得られる回答なんて、よくある答えで、何も参考にならないだろう。

なぜなら、君が抱える問題というのは君の中にしかないからだ。ゆえに、どれほど目を逸らし、楽に解決しようとしても、その答えはどこにもないのだ。
あるのは、自分の中だけである。自分で問題を可視化して、自分で答えを探すしかない。

一人で自分を探すのが難しければ、何か利用すればいいだろう。それは、相談所でもいいし、友人でもいいし、本を読んでもいい。大事なのは

「自分自身と向き合う時間をゆっくりととること」

これだけなのだから。
数時間向き合ってみて、何も進展しないのであれば。それは、まだ君自身が自分のことを何も理解できていないあかしだ。自分のことをインターネットで検索している、そんな場合ではないんだ。

自分の中で、自分のことを検索して、模索する必要がある。
自分自身のことを、しっかりと検索してほしい。

必要な人間がいるという勘違い

自分のことを考えているときに、「私は必要な人間ではない」という勘違いをしている。「自分が必要か」という問いかけをしたときに、即座にある回答としては、「必要な人間なんて一人もいない」ということだ。

規模にもよるが、結局のところ「その人がいなければならない」理由など、何一つない。どうせ、世の中の人間は何かの歯車で、パーツなのだから。変えなんて、無限にある。でも、面白いことが分かっている。
それは、「他人の必要な理由」であれば、君は沢山こたえられるということ。何故か知らないが、生きる理由を考えたり、何か価値を見出すとき、他人には、思いのほか、すんなりとそれを見出して認めている。

自分が自分にだけ、それを認めることができないのだ。
これが、莫大な自己嫌悪を生み出している。そして、自分の存在を否定して、自己肯定感を阻害していく。

その自己肯定感の欠如を補うために、何が必要なのか。それは、これまでのnoteで紹介してきたが、自分が自分の物語を歩くことだけだ。
これが、唯一無二の自己肯定感を得る方法だ。

もしもあなたが、「自分の生きる理由」「生きる価値」「自分の必要性
」を探し始めたのなら、一旦ここに立ち返ってほしい。即ち、「自分の物語を生きているのか」ということを。
そこで、本当に心の底からYES!と答えられるのであれば。それはまた、別の問題があるはずだ。

今度は、自分に対して別の問いかけをしなければならない。何か、別の要因が有るはずだ。それが障害なのか、環境なのか、自分の心境なのか。
それは、自分で考えてみなければ見つかる問題ではないだろう。

自分の幸せと他人の幸せを両立させる

悲しいことに、「他人の不幸を笑う」という最低な人もいる。笑うだけで済めばいいが、それを喜んで幸せになる人がいないだろうか?
「笑うしかない」という状況なら、まだ理解はできる。ただ、それを滑稽だというのではなく、「不幸になった。幸せだ」というのは、聊か気分が悪い。

そういう人は、恐らく一生幸せにはなれない。だって、自分が幸せだと感じた瞬間、「誰かに不幸に陥れられる」と考えるのだから。
なぜなら、自分がそれで幸せを得ているのだから。

他人の不幸を幸福だと感じるのは、自分がダメージを受けることがないからだ。若しくは、心が育っていないからで、「かわいそうだな」という同情心すらない。

そういった人が、多いからこそ僕は不幸で生きづらい世の中になると思う。
もしも、自分がそこに「幸」を見出すのであれば、改善したほうがいいだろう。著名人だろうが何だろうが、「不幸は不幸」でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

他人の幸せを祝福できずに、何か欠点がないだろうか。話題にできるネタはないだろうか。どこかに引きずり下ろせるような、穴はないだろうか。
そんな、下らないことを考えている時間があれば、もっと別のことを意識して行動するべきだろう。

それこそ、本を読んでいるほうが何十倍も有意義だ。そんなネット記事を探して、読んでいる暇があれば。一冊でいいから小説を読んだほうがいい。
そうしないと、その残念な心は一生成長しないから。

自分が幸福に感じるときに、誰かが嫌な不幸を感じている。
その状況を意識したほうが、君は幸せになれるだろう。

最後に


はっきり言って、この世界は生きづらいよ。無理だよ、簡単に生きるのは。
でも、その生きづらさって本来は感じなくていいものだよね。
その生きづらさって、考えてみれば簡単な問題だよねってことが多い。

そこに行き着くことなく終わるのは、「インターネット」の弊害だろう。自分で、問題を可視化する意思もなければ、思考回路もないのだ。
そんなの、どうやって幸せになれというのだろうか。

自分が幸せになりたければ、自分で自分を考えるしかないんだ。
それは、思考の深さが大事だ。表面の問題を見て、表面だけなぞって、その瞬間だけ救われる。それは、始めだけ救われるが、それを繰り返すうちに、救われない自分がドンドンと大きくなっていく。

自分を救えるのは、いつだって自分だけだ。
自分の物語を歩けるのは、君だけだ。今こそ、行動してみようじゃないか。
大丈夫、まだ間に合うから。今からでいいんだ。
少しだけでいいから、行動してみようじゃないか。

この世界はどうやっても生きづらいから

生きづらさは、様々なことが原因で感じてしまうものです。
現代病ともいえるかもしれません。

でも、それは自分だけの自分の物語を歩けば、改善できるものです。
もちろん、どうしようもないことはありますが。全ては無理でも、一部切除して、今まで一杯一杯だった心のバケツを、軽くすることはできるはずです。
少なくとも、僕はそうであると思います。

僕は、僅か20と少しの人生しか歩んでいません。
その中でも、何度も生きづらさに直面して、その度に考え込んで、悩んできました。時には、泣け叫んで、子供のように喚き散らして。
時には大人ぶって、旅に出て、意味もなく日向ぼっこをして。
そうして、たくさんの時間をかけて、自分と世界と向き合ってきました。
そんな僕に、常に答えとよりどころを与えてくれたのは「読書」でした。

小説でもいい、エッセイでもいい、SFでもいい。
まるで、本物の魔法使いのように、本が紡ぐ物語に救われてきました。
そして、そんな僕も今では自分の物語を自信を持って歩いています。
人からしたら、「不幸」だといわれるかもしれませんね。「寂しい人生」だと思われるのかもしれない。

でも、僕は幸せだし、今は充実した毎日を送れています。
そのために重要なのは「自分の人生を歩く」ということです。
本を読む、物語に触れるというのは、この生きづらさを意識して感じてしまう現代では、一番必要だと思っています。
もしも、生きづらさを感じているのであれば。
自分の人生を変えたいと思っているのであれば。
今からでも遅くないんです、動き出してみませんか?

レイに関して

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