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ボーカルトラック

 人生で初めて、一人カラオケなるものに挑戦してみた。
 大勢で来たことはある。この辺は夜の娯楽も少ないし、飲み会の後行くところがなくてカラオケに雪崩れ込むことも多い。だからカラオケは歌う場所、というよりも、みんなで騒ぐ場所、といった認識が強い。
 一人で、歌うために来る、なんてことはこれまでの私なら考えられないことだ。私がカラオケに一人で来ることを決意するまでは、紆余曲折が、まあ、そう多くはないがある。
 私の職場では定期的に仕事や家庭のストレスが大きな負荷となっていないか確かめる、マークシート方式のアンケートがあるのだが、私はそれで高ストレスと判断されてしまい、産業医と面談することになってしまった。その面談のときに言われたのが、ストレスの発散法を見つけることで、何も思い浮かなければカラオケに一人で行って、思い切り歌ってみてくださいと言われたのだ。
 何が悲しくて一人でカラオケに、と私は内心鼻を鳴らして産業医の意見を一顧だにしなかった。カラオケボックスで一人孤独に声を張り上げている姿を想像するだけで、その情けなさと侘しさに逆にストレスがかかりそうだった。
 私は歌が得意ではない。音程が完全にズレるわけではないのだが、要所要所で微妙に音を外す。自分では歌手が歌っているのと同じ音程で歌っているつもりでも、採点機能をつけて音程のバーを表示させると、ズレているのだ。なぜだか分からない。
 そんなこともあり、自分の下手な歌を自分だけが聴いていても虚しいな、と考えて私はカラオケのことなど忘れて日常生活を送っていた。
 歌は得意ではないけれど、好きだ。家で洗濯物を干したり、洗い物をしたりするとき、鼻歌を歌いながらする。トイレに入っているときまで鼻歌を歌っていて、はっと我に返って一人恥ずかしくなったりもする。歌はいい。日常の中でさりげなく口ずさむ歌は心の扉を解放し、淀んだ空気を出して新鮮な空気を取り入れるようだ。
 ある日リビングでフローリングにクイックルワイパーをかけていたときのことだ。私は最近流行の歌を口ずさんでいたのだが、ソファに座って本を読んでいた娘がため息を吐いて本をローテーブルに置き、睨みつけるように私を見て、「パパ、歌下手すぎ。めっちゃズレてるじゃん。聴いててしんどいからやめてくれる」と吐き捨てるように言ってリビングを出て行ってしまった。
 私は心を根元からへし折られたような心地がした。娘は反抗期とはいえ、同僚や先輩から聞く反抗期の様子よりもだいぶ穏やかなので、ほっとしていたところだったのだが、その娘からああもきつく睨まれては、とても平静ではいられない。
 その夜、ビールを飲んで冷奴を摘まみながら、妻に娘から歌が下手だと言われた件を話すと、妻はああ、と苦笑し、「確かにいつも音程ズレてるものね」と私の心にとどめをさす。
「でもさ、いいんじゃない。ちょうど産業医の先生からもカラオケを勧められていたんだし、練習のつもりで行ってみれば」
 私は苦り切って唇を噛み締めては、「君は一緒には?」と訊くと、妻は「無理。仕事が忙しいもの」と言って、まだ仕事が残ってるから、とビールの缶を片手に書斎へと引っ込んでいく。
 ため息を吐くとその息の酒臭さに我ながら辟易して、下の息子が夢中になって見ている、幼児番組の歌を口ずさんでみる。音程がシンプルな、子どもでも歌いやすい歌なのに、自分の耳で聴いても分かるほどズレていた。
 そういうわけで、私は今、生まれて初めて一人でカラオケボックスの前に立っている。平日の午前中に有休をとり、というのも、午前中だと料金が安くなるカラオケ店が今多いのだ。それに平日なら、職場の人間と鉢合わせすることもあるまいと思った。
 自動ドアをくぐると、正面にカウンターがあり、若い女性店員がにこやかに客の対応をしていた。既に五人ほど並んでおり、朝一番というのは結構込み合うのだなと感心しつつ、知り合いがいないか視線を巡らせて並んでいる客を観察する。ほぼ全員が年配で、知った顔はいないようだ。ほっと胸を撫でおろすと、列の最後尾に並ぶ。
 しばらく並んでいると、前にいたニットの帽子にチェックのシャツを着た男が振り返って、にいっと奥の金歯を覗かせて笑い、「あなたもあれですか」と訊いた。
 あれ? あれとはなんだ。
 私は首を傾げ、「あれとはなんですか」と訊くと、ニット帽の男はまばらに伸びた白い顎髭を摘まんでぷちぷちと抜きながら、「嫌だなあ、とぼけちゃって。あれですよ、あれ」と声をたてて笑い、抜いた髭をふっと息で飛ばして散らせるものだから、私は思わず顔を顰めた。
「私はあまりカラオケに来ないので、詳しくないんですがね」
 腕を組み、つっけんどんに返す。すると男は私が本当に知らないのだと分かって、驚愕の表情を浮かべ、そして顔を小刻みに左右に震わせて、恐る恐る「本当にくるいくるを知らないのかい」と上目遣いに私を窺う。
 ええ、知りません。と返すと、男は「そうかい」と言って前を向いたが、ちょっと失礼、と私に断ってからトイレの方向に向かった。そしてそれっきり、男は帰ってこなかった。
 男の受付の順番が来たので、にこにこと愛想のいい女性店員に順番待ちをしていた男がじきに戻ってくるから、と私は待つことを伝えたのだが、店員は表情を動かぬ一枚の絵画のように保ったまま、「ご心配なさらず。どうぞ」と耳に心地のよい声で言ったので、私も誘われるようにカウンターの前に立ってしまう。
 女性店員は店の制服と思しき真っ赤なシャツの上に黒いエプロンをかけていて、名札には「中村」と書かれていた。手書きのネームプレートで、中村のものには名前がポップな丸い字体で書かれていて、名前を囲むように小鳥や花やクマなどの動物が可愛らしいイラストで描かれていた。だがその中に、一つだけ何なのか判別しかねる絵があった。動物なのだろうか。球体の上に逆さまにした三角柱が浮かんでいて、柱の左右には天秤棒のようなものが渡され、その先端に妙に生々しい手のようなものがぶら下がっている。その言いようのないグロテスクさに、私は背筋がすっと寒くなるような気がした。
 中村は二十代前半くらいの女性で、赤いプラスチックフレームの眼鏡をかけていた。髪の毛は茶色がかかったポニーテールで、身長は平均的な成人男性の私と同じくらいだから、目線がほとんど一緒だった。まつ毛が長く、目鼻立ちもはっきりしていて、形がよい曲線を描く眉が凛としていた。
 中村は声に強弱と緩急をつけながら、私が聴き取り、理解しやすいように説明した。重要なところでは顔を上げて私の様子を確認し、理解しているかを判断した上で説明を進める。まるでアナウンサーのような声で、私はカラオケボックスの説明を聞いているだけなのに、明るいニュースや凄惨な事件のニュースなどを一緒くたにして聞かされているような錯覚を感じた。
 私は説明を聞きながら、中村が提示してくれる料金プランやカラオケの機種などをその都度選んでいき、受付を済ませる。すると最後に中村は顔を上げて、説明の中で一番の、とびっきりの笑顔を浮かべて「くるいくるはいかがしますか」と訊いた。
 またその謎の単語か、と私は臆したい気持ちを抑えながら、中村に向かって「くるいくるってなんですか」と訊いた。
 中村は心底驚いたように目を丸くして、手で口元を押えた。そして困ったように笑いながら、「いえ、なんでもないんです」と曖昧に言ってごまかしながら、レジスターのボタンを操作した。すると一瞬こちらに向いた長方形の窓のようなモニターに、「くるいくる×1」というメッセージが表示されたように思えたが、それは一瞬で消えてしまった。
 あの、とモニターを指さして言いかける私を遮るように、中村はレジのボタンを叩いてレシートを出力させると、「十四番のお部屋です」とレシートを留めたバインダーとドリンクバー用のグラスを押しつけながら、「ごゆっくり」と頭を深く下げて、私がどれだけ声をかけても決して顔を上げようとしなかった。
 私は諦めて、ドリンクバーでアイスティーをグラスに入れ、十四番の部屋に入る。室内は照明が最小限になっていて、薄暗い。カラオケの画面を映し出す大画面のモニターだけが煌々と光り、曲の宣伝や歌手へのインタビュー映像などを流していた。
 とりあえず受付を済ませられたことに安堵して、座ってアイスティーを一口飲む。ぼんやりとグラスをぐるぐると手首だけで回転させながら中の氷を揺らして、モニターに表示される、若い男性歌手のインタビューを眺めていた。
「……今回の曲は、歌詞に注目してほしいですね。絶望を歌いながら、その中に芽吹く希望や未来が徐々に花開いていくのが感じられる詞になってます。メロディもそれに合わせて急激な転調をするのが特徴で」
 ふうん、とさして関心もなく眺める。絶望やら希望やら未来やら、そうした輪郭のはっきりした、強い力をもった言葉を多用すれば、それは途端に安っぽいものになる。絶望を絶望と歌わないからこそアートなのであって、それが作れる、我がものとして歌えるからアーティストなのだ、と思う。
 自分が歌わなきゃしょうがないな、とソファから腰を上げて、曲を入力する端末とマイクを台座から外す。すると、一瞬モニターの音声が途切れて、静かになったように思えた。おや、と思ってモニターを見ると、男性歌手は「くるいくるです。すべてのきっかけは」と真剣な表情で語った。よく見ると、男性歌手のパーカーの胸元には、中村の名札にも描かれていた謎の球と柱の物体が描かれていた。
 私があっと思ったときにはもう画面は切り替わっていた。五人組の可愛らしい女性ばかりを集めて、ふわふわとしたドレスを纏わせた、男受けしそうなアイドルグループが映し出されていて、インタビューに舌ったらずな声で答えていた。
「もう一度だ、もう一度!」
 この手の映像は大抵繰り返し同じ映像が流されるものだが、どれだけ待ってもあの男性歌手は二度と登場しなかった。ダンスボーカルグループの賑やかな曲宣伝が終わると、アイドルグループのインタビューに飛んでしまっていた。
 くるいくる、なんてどうでもいいじゃないか。私は、ここに歌の練習をしにやってきたのだ。気を取り直して、端末から曲を探す。久しぶりのカラオケだし、高音が多かったり声を張り上げる歌は喉を傷めやすいから、まずは穏やかで音程もとりやすい曲がいいな……と端末を操作しながら曲を選んでいると、扉がノックされる音が響いて、「失礼します」と言いながら中村がスナックやチョコレートの盛り合わせを運んでくる。
「あ、曲を選んでいる最中でしたか」
 中村はテーブルに盛り合わせの皿を置くと、私の手元の端末を覗き込んで、「ああ、その歌懐かしいですね。いいですよね」と感心しながら私の隣に腰かける。
「あ、あの、これは一体」
 私は頼んでもいない盛り合わせがきたことから、中村がまるで自分の席のように腰を下ろして落ち着いてしまったことに困惑しながらも声を上げる。
「ああ、それはくるいくるからですよ。召し上がってほしいそうです」
 私が呆然として中村の顔を眺めていると、彼女は端末へとするりと手を伸ばし、曲の予約ボタンを押してしまう。
 画面上部に予約が完了したメッセージが表示され、やがて画面が切り替わって曲のタイトルが表示されると、中村はポテトチップスを口に放り込んでばりばりと咀嚼しながら、マイクをひらりと拾い上げ、立ち上がった。
「あの、中村さん?」
 私の戸惑いをよそに、中村は始まってしまった曲を歌い始める。彼女の歌はとてもパワフルなのに、声が澄んでいて美しかった。音程の正確さは言わずもがな、ビブラートやしゃくりなどによる加点も連続して獲得し続け、それは私が見たこともない数だった。
 私は歌に聴き惚れていたことに気づいて我に返り、くるいくるからの差し入れという盛り合わせに手を伸ばして、スナックをかき分けて、中に何か手がかりが入っていないか確かめたが、器もそれが載ったバスケットも何の変哲もないもので、参考にはならなかった。
 中村は最後まで歌い上げると、すっきりした顔でマイクを置いた。モニターには九十点台後半の点数が表示され、コメントにプロ級と書かれていた。カラオケ屋の店員は、みなこんなにも歌がうまいのだろうか。採用試験に歌唱でもあるのではないか、と疑いたくなるほど、中村の歌は堂に入っていて、見事だった。
 私はそれより、と「くるいくるって人なんですか」と中村に問うた。
 中村は怪訝そうな顔をして小首を傾げた。心底不思議そうな顔だった。私がなぜそんなことを問うのか理解できない、といった表情。
「くるいくるはくるいくるですよ」
 中村はテーブルの上にあった私のドリンクを取ると、喉を鳴らしてうまそうに飲み干す。
 私は呆気にとられてしまい、ただ茫然と中村にドリンクを飲み干されるのを見ていた。そしてグラスがテーブルに置かれ、その衝撃で氷がからんと涼しげな音をたてると、中村は濡れてつやつやとした唇をそっと蠢かせ、「ごちそうさまでした」と囁くように言うと部屋を出て行った。
 気を取り直して次の曲を入れようと思ったが、グラスを空にされてしまったことを思い出して、グラスを手に立ち上がって部屋を出る。
 廊下では有線でよく流れる流行歌が流れていた。英語だらけで、私には到底歌えそうもない、まあ、縁がないと言える曲だ。そういう曲を完璧に歌いこなせるとかっこいいのだろうが、私には無理だ。
 ボックスは半数が扉が閉まっていた。つまりは在室、というわけだ。平日昼間にも関わらず、結構客が入るものなんだなあと感心しながらドリンクバーコーナーに向かうと、何だか子どもっぽいものを飲んでみたくなって、メロンソーダを注ぐ。炭酸は喉によくない、と前にカラオケに来たとき、同僚の誰かが言っていた気がするが、私はプロでもないし、ましてや下手なのだから、気にすることもない。
 ドリンクを入れてボックスに戻ると、若い女性が座っていて、歌っていた。私は部屋を間違えたと思って慌てて飛び出し、部屋番号を確認するが、私の部屋で間違いない。部屋の中に戻ると、女性は歌を途中停止して、マイクを持ったまま私が戻ってくるのを待っていた。
 女性は黒髪のショートカットで、耳にはリングのようなピアスがいくつもつけられていて、アイシャドーが濃くて目が暗闇のなかにぽつんと浮かんでいるような寂しさが感じられた。革のジャケットを羽織り、デニムのスカートを履いていて、足元は幾つも鋲が撃たれたブーツだった。
「あの、ここ、私の部屋なのですが」
 私は一回りくらい年下の女性に、恐る恐るといった体で訊ねる。女性は「うん」と頷くと、マイクを口元に近づけて、「あたしもここの部屋」とマイクを通して言う。声がわんわんと頭の中に共鳴するように響き、語尾がハウリングして甲高い耳障りな音を響かせる。
 ほら、と女性は言いながら自分のレシートと私のレシートを並べる。確かに、両方とも十四番の部屋になっていた。
 私は慌てふためきながら、「それじゃあ、私部屋を変えてもらいます」と部屋を出て行こうとすると、女性は私を引き留め、「別にいいんじゃない。一緒の部屋でも」とぽんぽんと自分の隣の席を叩いた。座れ、ということだろうか。そこで初めて、私は彼女の耳にさげられたピアスの一つが、中村の名札に描かれていた謎の絵にそっくりであることに気づく。
「あたし友丘。おじさんは」
 私は自分の名を名乗りながらも、「おじさんでいいよ」と笑ってメロンソーダを飲んだ。実際、彼女から見れば私はおじさんと言っていい年だろう。それに変に名前で呼ばれるより、おじさんと呼んでもらった方が安心する部分もある。
「おじさん、メロンソーダって子どもっぽすぎ」
 そうだね、と苦笑してグラスに口をつけ、テーブルに置く。炭酸の泡が浮かぶ氷をすり抜けて水面に顔を出し、弾ける。氷で汗をかいたグラスを、雫が一滴滑り落ちる。
「ま、いーけどね。お酒飲んでうざく絡んでくるおっさんに比べたら、子どもっぽい方が全然」
 友丘はマイクを通しながら喋る。癖なのか、まるでインタビューに答える歌手のようにマイクを握って、メリハリのある喋り方をする。音量もマイクを通して大きすぎるということはなく、聞き取りやすいちょうどいいものだった。
「職場の飲み会とか行くといるんだよね。急に説教始めてくるのとか、セクハラ発言をするおっさん。しょーじきキモいし、あんたなんかどうだっていいよって感じ」
 私の職場にも説教好きな上司がいる。しかも普段は注意も何もせずにこにことしているのに、酒が入ると鬱憤をすべて部下で晴らそうとするかのごとく、くどくどと説教を始める。自分は正しく、部下が間違っていると一方的に苛めるものだから、誰もその上司の周囲には座りたがらない。それでいつも犠牲になるのが私だった。
「マジでさ、くるいくるの爪の垢でも煎じて飲めよってハナシ」
 友丘もくるいくる、と言った。彼女なら教えてくれるかもしれない。とくるいくるとは、やはり生き物なのか。
「あのさ、くるいくるって、なに?」
 友丘がキモいおっさんについて文句を続けようとしたところに差しはさむように私が訊いたので、彼女は些か気分を害したように眉をひそめ、次いで私の質問の内容を理解すると、中村がしたように怪訝そうに小首を傾げた。
「おじさん、知らないの」
 知らないんだ、と頷くと、友丘はますます驚いたようだった。そしてあはは、と声を上げて笑い出すと、笑い転げてお腹を抱えた。その笑い声すらもマイクに向かって発せられていて、笑い声は幾度もハウリングして響き、その音の不規則な波に平衡感覚が奪われるような気がした。
 友丘は涙を流して笑い、やがて笑いの波が収まってくると、化粧を崩さないようにそっと指で目を擦って、「そっかそっか、知らないんだ」と納得したように頷いた。
 私は正直そこまで笑わなくても、とむっとしていたが、ここで友丘の機嫌を損ねて訊き損ねては、と思ったので、笑顔を引きつらせながら「そうなんだよ」とおもねるように言った。
「それじゃあ、あたしが教えてあげようか」
 いいのかい、とようやくくるいくるなるものの正体が知れる、と好奇心による興奮が私を急き立てて前のめりにさせると、友丘はマイクをそっとテーブルに置いて身を乗り出して、「でもいいのかなあ。おじさん、奥さんいるんでしょ」と濡れた艶やかな吐息を孕んだ声で私の耳元に囁くと、私の太ももに手を伸ばし、蜘蛛が這うように指先を動かして沿わせる。
「く、くるいくるって、生き物じゃないのか」
 私はその甘い指使いに抗し切ることができず、視線を逸らして彼女の顔を見ながら訊いた。
 友丘はくすくすと耳元で笑う。その笑い声の吐息が私の耳朶にかかり、背筋がぞくぞくとする。
「くるいくるは、くるいくるじゃない」
 友丘の手が、一度膝の方まで撫でまわしたかと思うと戻ってきて、太ももの先へと伸びようとするので、私は友丘を跳ね除けて立ち上がる。
 友丘は微笑みを浮かべ、首を傾げている。声を発さずに何かを囁く。私には聞くまでもなく分かった。彼女は「くるいくる」と囁いた。
 私は友丘と同じ空間に入れば、彼女の放つ空気に飲み込まれ、道を誤るのではないかと恐怖心が鎌首をもたげたので、部屋を走って出た。高鳴っている心臓を落ち着かせ、小窓から部屋の中を覗くと、友丘の姿はなかった。どこか死角に隠れたのだろうか、とも思ったが、もう一度入ることは恐ろしくて躊躇われたので、とりあえずカウンターの方に向かおうと歩き出す。
 先ほど見たときは半分ほど埋まっていた部屋は、すべての部屋の扉が閉じられていた。小窓からこっそり覗いてみると、モニターが歌詞を流し続けているが、歌っている者の姿は見えなかった。どの部屋でも、そのような状態だった。
 建物の入り口に辿り着くと、扉に赤いペンキで中村の名札や男性歌手のパーカーに描かれていた、恐らくくるいくると思われる絵が描かれていた。ぎょっとしながらもドアノブを掴むと、手にぬるりとした生温かい感触があった。ドアノブにまでペンキが飛んでいたらしい。気色悪いが、構っている場合じゃない、と扉を開けようと試みるが、扉は一向に開く気配はなかった。鍵がかかっているのかと思ったが、鍵はすべて開錠されていた。なら、何が扉を閉めているのか、と考えて不吉な予感を覚えて手を放し、三歩後ずさる。
「無駄だよ。くるいくるだから」
 振り返ると、眼鏡の青年が無表情で立っていた。私がどういうことか訊き返そうと声を上げかけると、ふいっと踵を返してトイレの中へと消えて行く。慌てて追いかけてトイレに駆け込むと、中には誰もいなかった。個室はおろか、掃除用具の部屋まで開けて確かめたが、姿は見当たらなかった。他に隠れられそうなところはない。ぞっとして、トイレから飛び出す。
 中村なら、何とかしてくれるんじゃないかと思った。そう考えてカウンターの前へと飛ぶように駆けて行き、呼び出しのブザーを何度も鳴らしたが中村は出てこなかった。苛立ちともどかしさが勝って、私はいけないことと知りつつ、カウンターの内側に入って事務所や厨房を覗き込んだ。事務所ではパソコンの画面の灯りだけが真っ暗な部屋の中で光り、じりじりと音をたてていた。厨房では電子レンジが加熱する音を響かせていて、水道の蛇口から一定間隔で水滴が垂れ、シンクに当たっていた。
 中村の姿はどこにもない。私は救いを求めて一階も二階も駆け回り、開く部屋や人がいないか探したが、何も見つからなかったし、開くのは私の部屋だけだった。友丘が隠れているかもしれない、と考えると戻るのも憂鬱だったが、やむを得ないと自室に帰り、中に入ってみる。
 部屋の中には友丘はいなかった。隠れるような場所もない。私は安堵してソファの上に深く腰掛けると、テーブルに肘を突いて頭を抱えた。
 どうして私はカラオケに来ただけなのに、こんな目に遭わなきゃならないんだ、と来たことを後悔した。視界の端でメロンソーダの泡がふつふつと弾けている。グラスの縁には滑らかな楕円を描いたように、口紅の後が残っていた。私はグラスをテーブルの端に遠ざけた。
 一人でカラオケなど、来るべきではなかったのだ。カラオケがこんなにも恐ろしい魔窟のような場所だとは、私は知らなかった。きっと大勢で来るときはカラオケはその牙をひそめて受け入れ、油断してまんまと一人でやってきた者を餌食に食らうのだろう。
 私はどうすることもできず、曲検索の端末に店員呼び出しなどのボタンがないか探したが、特に見当たらなかった。ため息を吐いて、画面を元に戻そうとしたときに、どこか違うボタンに触れてしまったらしく、突然この部屋で歌われた曲の履歴が表示された。そこには先ほど中村が歌った、私の選曲していた歌は残っておらず、すべて曲名くるいくる、アーティスト名くるいくる、という曲が表示されていた。
 くるいくるは人なのか、そうでないのか、ますます分からなくなった。
 私は逡巡した後に、その曲を選んでみることにした。選曲ボタンを押し、予約情報を端末から送る。モニターに予約が完了した旨のメッセージが表示され、モニターが暗転する。
 やがてモニターが白一色の画面になると、そこにじわじわと炙り出しのように中村の名札などに描かれていたくるいくるらしき絵が現れる。
 くるいくるの絵の、天秤棒の先にぶら下がったような妙にリアルな手が、動いているように見えた。ゆっくりと、おいでおいでをしているように。私はその手に引っ張れるように立ち上がった。グラスを倒し、メロンソーダがこぼれ、グラスが転がり落ちて割れた。
 私はモニターに向かって手を伸ばす。手が触れると、ぬるりとした。冷たくも温かくもない、だけどなぜか柔らかな感触だった。弾力があって、押せば押すほど跳ね返ってくる。手を放すと、画面に私の手形が映っていたが、何のことはない、先ほどついたペンキが画面についただけだった。もう一度画面に触れると、硬質な液晶画面で、振れた瞬間にばちっと静電気が走った。画面には、何も表示されていなかった。
 私は何か書くものがないかと探したが、ペンも何も持参してなかったし、部屋にも備え付けがなかった。そうだ、と閃いて落ちて割れたグラスの破片を拾い上げて指先を切る。血がぷくりと膨れてくると、指先をテーブルに走らせる。血がかすれると傷を増やし、深くして血を絶やさないようにして、テーブルに一つの絵を描いた。
 上出来だ、と感心して額に滲んだ脂汗を腕で拭い、絵を見下ろした。そこには赤いくるいくるの絵が描かれていた。
 その絵を残し、部屋を出た。視界がぼやけて、揺れる。顔は全力で走った後のように熱いし、足は疲れ切ったように重い。傷つけすぎてずたずたになった指先からは血が滴り落ちていて、廊下に点々と血の跡を残した。
 私は尿意を覚えて、トイレに行きたい、と思った。

〈了〉


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