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イステリトアの空(第10話)

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■本編

 家老国宗心徹の武家屋敷がある場所までは、まず商家の立ち並ぶ大通りを北に抜けて、いくつもの武家屋敷を通り過ぎる必要があった。武家屋敷と言ってもその規模や建物や庭の豪勢さはピンからキリまであり、その者が藩で担う役職によって左右されるのだった。とはいえ、正宗の邸宅と比べればどの屋敷も天と地ほどの差があると言えよう。
 そもそも正宗は今住んでいるような邸宅に住める身分ではなかった。古くは大名家の重臣を務めた先祖もいたというが、今では没落し、その頃の栄華など影も形もない。母と妹を食わせていくにも四苦八苦するような立場だった。それを国宗心徹の目に留まったことで、家族三人が暮らしていくのに十分すぎるほどの邸宅を与えられ、下男下女までつけてもらったのでは、家老に頭が上がるはずがない。
 袖に手をして町中を歩いていると、図らずもというか、やはりというか、頼蔵の姿を見つけて、正宗はそば屋の屋台に近づいて頼蔵の背中を叩いた。
「こんな時間からそばとはいい身分だな、頼蔵」
 頼蔵は咽て口の端からそばを覗かせながら振り返り、そこにいたのが正宗だと分かると険悪なしかめ面を引っ込めてにこやかに笑ってみせた。
「こりゃあ旦那。奇遇ですなあ」
 奇遇なものか、と腕を組んで目配せすると、さすが頼蔵も心得たもので、すかさず立ち上がり「親父、お勘定ここに置いとくぜ」と銭をばらばらと置いて正宗の後を追う。
「で、今度はどんな御役目で」
「いや、まだ分からんのだ。だが、嫌な予感がしてな」
 頼蔵は正宗の後ろを半歩遅れてついて行く。周囲への警戒も怠らない。
「旦那の勘は馬鹿にできないですからな。気をつけるに越したことはないでしょうが」
「ああ。だから頼蔵、お前には私たちの後をつけてもらいたい」
「曲者などが他にいないか、でやしょ」
 そうだ、と正宗は頷く。
「私たちの行き先や任務は三の地蔵のところに残しておく。いつもの通り、それを読んだら燃やせ」
「分かりやした。手下を二、三人使ってもよろしいので」
「任せる。だが、あんまり目立ちすぎるな」
 心得ております、と答えると頼蔵は下がろうとする。それを慌てて呼び止め、「もう一つ頼みがあるのだが」と苦笑して言った。
「なんでございましょ」
「紫都のことだ。雨戸を直してくれだのとうるさくてな。私に代わって世話を焼いてくれないか」
 頼蔵はくくくと可笑しそうに笑って、「旦那も紫都様の前では形無しですな。ようがす。引き受けましょう」と胸を叩く。
「すまんな。これは別仕事ゆえ、給金は余分に出させてもらうぞ」
 かたじけのうございます、と正宗を拝んで、頼蔵は商家と商家の間の路地へとするりと入り込み、姿を消した。
 頼蔵に働いてもらう機会などないとよいが、と思案しつつ、正宗は国宗家の屋敷へと急いだ。

 長屋門のところで名を告げると、すぐに中へと通される。玄関では中間の若者が待っており、先に立って案内をする。幾つもの間が立ち並ぶ廊下をぐるりとコの字に回り、中庭を望む渡り廊下を過ぎる。奥の御殿に入り、正面を右に曲がって三つ目の間に通される。
 中では既に家老国宗心徹が座して待っていた。その正面に一人の男が座っている。年の頃は正宗と同じ程度で、切れ長の鋭い目と高い鼻が鋭利な印象を与えた。浅葱裏の羽織を羽織っており、半袴を履いていた。与力か、と正宗は当たりをつけた。
「遅れまして、申し訳ございません」
「なに、刻限にはまだだ。わしらが早かっただけのことよ」
 失礼します、と正宗は若者の隣に敷かれた座布団の上に腰を下ろす。
 若者はちらりと正宗を眺めると、含みのある笑みを浮かべて一礼し、後は澄まして前を向いていた。
 先ほどの中間の若者が入ってきて、浅葱裏の羽織を手に正宗の後ろに回る。正宗は羽織を脱ぐと中間に渡し、差し出された浅葱裏の羽織に袖を通す。
 それを眺めていた国宗心徹はうむと頷き、中間に目配せする。中間は一礼して襖を閉め、去って行く。
「我ら『剣杖』が幕府内に組織されてまだ十年に満たぬ。活動自体は遥か昔から我が国宗家が中心となって行っていたとはいえ、正式な組織となったからには、結果を出せませんでしたでは済まぬ。幕府からは相当の金が出ておる。それに、柳沢様の面子を……今では間部(まなべ)様の、か。それを潰すわけにもいかぬ。だが、この十年目立った成果はない」
 剣杖は表向き、治安維持組織だ。幕府直轄の組織ながら、本拠は藩の中にある。それゆえ藩の中にありながら、藩の干渉を受け付けない、複雑な立場の組織となっている。だがその構成員は多くはなく、各藩の与力、同心の中から選りすぐった手練れのみを所属させている。そのため、日頃は藩の役人として町の治安のために働き、必要なときには藩を超えて奔走する。それが剣杖だった。
 だが、剣杖には裏の任務があった。歴史の影で長く続けられてきた本来の目的だ。それは、いつどこに現れるかも分からない存在、猫人間を討伐すること。また、猫人間に関する記録を捜査し、発見し次第押収する。時に猫人間を目撃したという人間を斬る汚れ仕事もあった。徹底的に猫人間の存在は隠匿する。それが国宗家の、ひいては剣杖の方針だった。
「だが、有力な目撃証言を得た。猫人間がどうやら出現し、一所に生息しているらしい」
 目撃者は、と冷ややかに隣の若者が問う。
「真偽が定かになるまで、この屋敷の地下牢に勾留しておく。少しは騒ぎになるかもしれん。なにせ宇都宮藩の寺社奉行だからな」
 寺社奉行といえば藩の重臣だ。そんな人間がなぜ猫人間の目撃者となったのか、正宗が訝しんでいると、国宗心徹は言葉を続けた。
「日光の寺社領へ視察に赴いた際に遭遇したそうだ。東照宮よりさらに西進し、上野の国との境の近くにある山間の村に逗留していたところ、供の者数名と猫人間に遭遇。供の者が応戦したが取り逃がしたとのことだ。本人含め全員が軽傷で済んでいる」
 恐らくは、とは思ったが、それでも正宗は訊ねた。「供の者は始末されたのですか」
「ああ。事は既に済んでいる。片岡ら腕利きを数名向かわせたからな。間違いなく全員始末した」
 若者は詰まらなそうに鼻を鳴らすと、「では行き先は」と口にする。
「日光だ。寺社奉行が襲われたという村、名前は細尾というらしいが、そこで猫人間の捜索を行い、発見し次第討伐してほしい」
 かしこまりました、と正宗と若者との声が重なる。二人は一瞬視線を合わせ、国宗の方へ戻す。
「言うまでもないことだが、掟は覚えておろうな」
「はい。猫人間を討伐した後、死体は埋めて隠し国宗家の者が到着するまで待つこと」
 若者が正宗の言葉を引き取って答える。
「剣杖の者は猫人間の死体の一欠けらでも手にしてはならない。また、猫人間を目撃した者はたとえ何人であろうとも抹殺すること」
 よろしい、と国宗は頷く。「ああ、そういえば紹介がまだだったな」
「こちらは与力の長曾根殿だ。我が道場の門下生でない上、金沢藩士ゆえにお主は知らぬかもしれんが、かなりの凄腕だ。今回お主は長曾根殿と一緒に任務をこなしてもらうことになる」
 国宗からの紹介を受けて、正宗は長曾根に向き直って拳を突いて、「正宗と申します。若輩者ではございますが、どうかよろしくお頼み申します」と頭を下げた。
「ははは、堅苦しいのはよそうじゃないか、正宗殿。おれは与力で、立場としては同心を指揮するものだが、剣杖ではあなたより新参だ。剣杖では藩での序列など無きもの。気軽に行くとしようではないか」
 長曾根は相好を崩し、気軽そうに笑って言う。正宗もつられて笑うが、内心では油断できないぞ、と改めて見た。気さくな振舞いは奥に潜む冷徹な本性を隠すための蓑かもしれないと本能的に感じたのだ。
「では、各々支度を整えて落ち合うことにしようか。場所はどこがいいかな」
「三の地蔵の先の大橋ではいかがですか」
 長曾根はちらと正宗の目を窺って、「うん、いいんじゃないかな」と頷いた。
 では、と立ち上がったところで国宗に呼び止められる。
「すまんが、中庭に行ってくれんか」
「中庭に? なぜでしょう」
 国宗は珍しく穏やかだが困った顔になっている。「まあ、その、桜華がな」
 なるほど、言いにくいわけだ、と正宗は納得して、「分かりました。すぐに向かいましょう」と頭を下げると、「色男は辛いな、正宗殿」と長曾根がからかうので苦笑を返して部屋を出る。
 桜華は国宗心徹の一人娘で、正宗と同い年ということだった。武家の一人娘とあれば、しかも家老の娘となれば、相応の家柄の男を婿にとっていておかしくない年なのだが、桜華が断固として縁談を受け付けないのだという。心徹は桜華が五つのときに妻を亡くしており、男手一つで育てられた桜華は剣の稽古に勤しみ、それは美しく育ったのだが、花より茶よりやっとうと言わんばかりだった。
 中庭には紫陽花が咲いていた。昨夜は雨で、今はからりと晴れている。前夜の雨露が花の上に名残のように残り、陽光を受けて虹色の色彩を加えていた。庭の花の香りに包まれながら進んで行くと、隅の桜の木の前に桜華はいた。桜は既に散って花はない。
「お呼びとのことで、正宗、参上いたしましたが」
 桜華は振り返ると庭の花たちも色あせるような鮮やかな笑みを浮かべて、こくりと頷く。白い花弁を散らした桃色の着物は桜華によく似合っていた。「もっと近くへ」
 正宗は桜華の言葉に従って近づいて彼女の前で膝を突く。「桜華様におかれましてはご機嫌麗しく、ご壮健そうで……」
 桜華はくすくすと笑って、「そんな型通りのあいさつはいいのですよ、正宗殿」と言った。
 ですが、と首を振って顔を上げ、「今日は私に何用でしょうか」と馬鹿正直に訊ねた。
「そうね、御役目でしばらく遠くへ行くということでしたから、会っておきたかったのです」
「はあ、左様でございますか」と正宗は頬を掻いている。その朴念仁ぶりが可笑しいのか、桜華は袖で口元を隠し、笑い声を押し殺していた。
「正宗殿のところに貝津家のさよさまから縁談の話がきていらしたでしょう。なぜお断りになったの。さよさまは家格の上では上とはいえ、藩主の覚えもめでたい正宗殿ならば許可は下りたはず。それに、さよさまはとても美しい方ではありませんか」
 桜華の口調はいささか責めるような棘を含んでいた。
 貝津家ではかつて誘拐事件が起こった。当のさよが攫われたのだ。下手人たちはさよの身柄と引き換えに多額の金銭を要求してきた。
 正宗にも捜索の命が下り、頼蔵たち目明しを方々に放って情報を入手し、盗賊の塒(ねぐら)を二つ突き止めた。同時に藩の方でも情報を掴んでおり、二手に人員を分けて盗賊の塒を襲撃した。引っかかるものがあった正宗はこれに加わらず、もしものときのことを頼蔵に任せて、目付の白羽家に向かった。
 白羽家の当主は正宗よりも二つか三つ年上だったが独り身で、貝津家のさよに執心しているという噂があった。頼蔵が聞き及んだところによると、白羽は執着が高じると過激な行動に出ることがあり、流れの商人が所持していた刀に一目ぼれし、大枚叩いて買おうとしたが、買い手のアテはあるからと断られ、三日三晩悶々と頭を抱えた挙句、町を去ろうとしていた商人を無礼があったとして斬り捨て、刀を奪ってしまった。
 藩もこれは黙認することができず、白羽から刀を取り上げはしたものの、商人に咎ありとして白羽には短い謹慎が申し渡されただけだった。
 このときと同じことを繰り返そうとしている。正宗はそう直感した。すると、さよの身の安全には幾許の余裕もないのかもしれない。藩の沙汰を待っていては恐らく手遅れだろう、そう踏んだ正宗は単身白羽屋敷に乗り込んだ。無論、頼蔵らを巻き込んでしまわないためにである。
 同心が目付の屋敷に藩の許可もなく踏み込めば、重罪に処せられる。しかもその嫌疑が間違いだったとなれば、最早言い逃れはできない。首が飛ぶのは間違いないだろう。何の確信もない。だが、正宗の勘がここだと告げていた。
 門は固く閉ざされていて、声をかけてみても人がやってくる気配はない。ぐるりと塀を回り、人気がない辺りで、頼蔵から借り受けた鍵縄を放って塀の向こうの屋根に引っかけ、外れないことを確かめて縄を上っていく。
 下りると、そこは塀と建物の間の狭い場所だった。恐らく下表の長屋だ。息を殺して身を低くし、建物と塀の間を抜けると、開けた場所に出る。左手にもう一つ長屋があって、正面には門と屋敷が見える。
 長屋沿いに進んで行くが、長屋の中に人の気配はなかった。まだ寝静まるには早い時間だ。藩の討伐隊に人員を多く供出しているのではないかと正宗は疑った。それは自分の行いへの後ろめたさによるもののように思えた。
 屋敷を囲む木塀に辿り着くと、よじ登って中を覗き込む。そこは小さな庭園になっていて、鯉が泳ぐ池があり、幾つかの植木が植えられていた。
 中に降りて、縁側を上がり、手近な襖に耳を当てて人の気配を探り開く。手当たり次第に部屋を巡ってみたが、さよの姿はおろか、家人の一人とも遭遇しない。いよいよこれは尋常ではないぞと正宗が額に汗をかきながら南側の廊下を歩いていたとき、屋敷から外れた場所に蔵が立っていることに気づいた。そして蔵の前には藤色の小袖を着流した浪人風の男が立っている。
 怪しいな、と屋敷の裏木戸から出ると、蔵の方へ向かって行く。浪人風の男が気づいて抜刀して向かってくるが、男が刀を振り上げたところで、すかさず刀を握る拳を打ち、痛みに男は刀を握る手を離し、振ることができない。間髪おかず懐にもぐりこんで刀の柄頭で鳩尾を突くと、男は崩れて膝を突き呻いている。呼吸がままならないのか、苦しそうに喘いでいた。
「この中に誰がいる」
「俺は知らねえ……ただここの番をすりゃ一両くれるっていうからやっただけだ」
 一両もらい損なったな、と言いながら正宗は男を後ろ手にして、袖から取り出した縄で締め上げる。
 蔵の入口には錠がかけられていた。男を振り返ると、力なく首を振る。流石に鍵を流れの浪人などに預けるはずがないか、とため息を吐くと、刀を抜いて柄頭で錠を力いっぱい叩く。
 甲高い衝突音を上げて打たれる内に、錠は形が歪んで外れ、地面に落ちた。閂を外し、重い開き戸を押し開いて開けると、暗がりの中に一人の人間が寝そべっているのを見つけた。
 質素な色合いの小袖や羽織を床に敷き詰めて、その上に寝転がされているのは、間違いなく貝津家のさよだった。藩内でも有名な美貌を、正宗も遠巻きながら見かけたことがあったのだ。
 猿轡を噛ませられていたので、すぐに外してやり、手足を縛っていた縄も解く。やつれてはいたものの、外傷や着衣の乱れはなかった。さすがの白羽も、狼藉は働かなかったらしい。
「御無事ですか」
 正宗の言葉にさよは弱々しく頷いて、「あなたは?」とやや警戒した怯えた声で問うた。
「もう大丈夫です。私はあなたを助けに来た同心のものです」
 さよを助け起こすと、しばらく寝かせられていたためか、立ち上がってふらついた。正宗は手を貸してやり、さよが落ち着くのを待った。
 ふと背後に人の気配を感じて、正宗は振り向く。そこにはにやにやと嫌な笑みを浮かべた白羽が三人の供を連れて立っていた。
「困るんだよなあ。そんなことされちゃあ」
 白羽を囲む供の者が一斉に刀の柄に手をかけた。
「貴殿は以前にも刀欲しさに罪のない商人を斬り捨てたな。今度はかどわかしとは、恐れ入る」
 正宗の言葉に白羽の眉がぴくりと吊り上がる。顔がほんのりと紅潮する。
「無礼な商人を斬った。それの何が悪い。僕になびかない無礼な女を攫った。それの何が悪い」
 そして、と白羽は手を上げる。供の三人が揃って抜刀する。
「僕の屋敷に忍び込んだ無礼な小役人を斬った。それの何が悪い?」
 正宗はやれやれと首を振ってため息を吐くと、刀の柄に手を掛けた。
「おいおい、同心風情が目付の僕の屋敷で抜刀したらどうなるかぐらい、分かるよな。誰か一人でも傷つけてみろ。首が飛ぶぞ」
 正宗は振り返ってさよに「お下がりください」と微笑みかける。そして前を向き、供の三人に向かって「貴公らは主の行いを肯定する、そう受け取ってよいのだな」と問いかける。
 三人は複雑そうな表情を見せた。恥じ入る、戸惑う、主への忠誠、そうしたものが入り混じってぐちゃぐちゃになり、最早何の色でもなくなったただ黒いだけの負の感情だった。
「分かった。ならば私も何も言うまい」
 正宗は懐から一枚の細長い札を取り出すと、それを四人に向かって突きつけた。札には丸の中に剣と杖が交差するように描かれており、その下に斬捨免状と書かれていた。
「同心ではなく、剣杖として幕府の名の下に治安を乱した罪人に刑を執行する。各々覚悟はよいか」
 剣杖はその職務において必要とあれば何人であろうとも斬り捨てることができる特権を持っていた。たとえ藩の重臣であろうと、幕府の老中であろうと。それゆえに、剣杖に任じられるには厳しい審査を潜り抜けなければならない。ただ腕っぷしが強いというだけでは剣杖にはなれない。任務に対する忠実さ、分を過ぎた野心をもたないことなどが求められた。
 白羽は「剣杖!」と叫んで慄いたが、すぐに気を取り直して、「四対一で何が出来る。ええい、早く斬ってしまえ」と三人に発破をかけた。
 正宗は左に飛び退いて、向かって左側の男が刀を振り下ろすより早く潜り込み、体当たりを食らわせる。よろけたところを蹴り飛ばし、居合抜きに腰から胸にかけて斬り上げ、左手で脇差を抜くと後方に向かって突き出す。脇差は後ろから正宗を斬ろうとしていた男の胸に突き立ち、男は仰向けに崩れる。
 残った一人は裂帛の気合で刀を八双ぎみに構えて突っ込んでくるので、守りが空いている左胴を斬ると見せかけて剣先をぐるりと巡らせ、疾風のような速さで男が刀を握る小手を斬った。指の何本かが地面に落ち、遅れて刀が転がった。膝を突いて呻く男の首筋を素早く斬り裂くと、血飛沫が上がった。
 正宗は血に濡れた剣先を白羽に向ける。「後は貴殿一人だ」
 白羽は恐怖に慄いて震えていた。刀に手をかけようとしても震えてままならない。歯がカチカチと音をたて、足も震えて動かない。死んだ三人は白羽の朋友であり、忠臣だった。そして家中きっての剣の腕の持ち主だった。その三人がかりでも一筋の傷をつけられない相手に、自分などが勝てようはずもない、白羽はそう考えて何とか逃げる算段をつけようとした。
「す、素晴らしい腕前だな。藩中、いや、幕府全体で見てもそこもとのような使い手はそうはおらんのではないか。名を、名を教えてはくれんか」
「これから死にゆく者に名を教えて何になる」
 白羽は悲鳴を上げる。「い、いや、待ってくれ。殺さないでくれ。罪は償う。だから殺すのだけは」
 正宗は無表情に、「商人もそうやって命乞いをしたのではないか」と言い放った。白羽の顔が歪む。泣いているような笑っているような顔だった。
「まあいい。質問に答えてもらおうか。目的はさよ様か、金か」
 白羽は慌てて首を振る。「ぼ、ぼくは知らない。ただ、流れの占い師にそうすればうまくいくと言われたのだ」
「白羽家の当主とあろうものが流れ者の意見を容れたと?」
「だって、あの方が……」と言いかけて白羽は真っ青になり、慌てて口を噤む。
「あの方とは誰だ」
 言わない、と白羽は叫ぶ。「たとえ殺されようともそれだけは言えない」
 正宗はじっと白羽を睨むように見つめたが、やがて諦めたようにふうと息を吐く。
「貴殿の性はねじ曲がっている。ここで見逃せば、必ずまた泣く者が出てくるだろう」
 正宗は刀を青眼に構える。「武士として死にたくば抜け。二度は言わぬ」
 白羽は言葉にならない叫びを上げて刀を抜く。抜いたものの片手に持って掲げたままで、構えることも覚束なかった。目には涙が浮かんでおり、袴には染みができていた。失禁したのだ。
「さよ様、しばらく目をお瞑りください。すぐ済みますゆえ」と振り返って微笑みかける。
 正宗は一歩二歩と白羽の瞬きの間に踏み込んだ。白羽にしてみれば、突然正宗が消えて目の前に現れたようにしか見えなかっただろう。正宗が刀を一文字に振うと、白銀の軌跡が走り、白羽の首を深く斬り裂いた。鮮血が噴き出し、白羽の首はかくんと糸の切れたからくり人形のように折れてたたらを踏み、そのまま後ろ向きに倒れた。
 正宗は白羽の羽織で刀の血と脂を拭うと、懐紙で刀身を拭き上げ、鞘に納めた。
「旦那、奉行所の連中を連れてきましたぜ」
 頼蔵が蔵の入口からひょっこりと顔を覗かせてにいっと歯を剥いて笑う。
「さすが、手回しがいいな。おかげで仕事が減りそうだ」
 正宗は振り返ってさよに向かって一礼し、「ここを見ていてくれ。奉行所の連中に説明してくる」と蔵を出ようとするが、それをさよが呼び止める。
「お待ちください。あの、お名前だけでも」
 正宗は振り返って首を振り、「私は勤めを果たした一人の同心に過ぎません。それでは」と蔵を出る。
 その後合流した奉行所の与力たちに一連の出来事を説明し、後の処理を頼んで正宗はそのままその屋敷を後にして以来、さよとは会っていなかった。それなのに唐突に縁談の話が舞い込んだものだから正宗は面食らった。
 貝津家といえば、かつては藩の祐筆を務める人材を輩出したこともある家だ。今は奉行職などを務め、家格はやや下がっているとはいえ、正宗の家とは天と地ほどの差がある。認められるはずもないだろうが、藩の反応は好意的だった。恐らく正宗が剣杖であることが大きく作用したのだろう。事件の捜査に限っては並みの幕臣を優にしのぐほどの権限が与えられるのだから。藩としても強力に内側に引き入れておくべしと考えたのかもしれなかった。
「正宗殿、聞いておられますか」
 目の前には不機嫌そうな目つきの桜華がいる。正宗は狼狽して「聞いておりますとも」と取り繕った。
「なぜ、さよさまとの縁談を断ったのです」
 正宗は困り果てて頬を掻いた。何と言ったものか、いい文句が浮かばない。どうして桜華はこうこの縁談話に拘るのか。拘ったのは彼女だけでなく、母と妹もだった。これ以上ない良縁、とあの手この手で断ろうとする正宗を説得しようとして辟易したものだ。最近二人の機嫌がとみに悪いのは多分そのせいだろう。
 さよからも縁談を断った後、彼女自身の手による文が届いた。自分を救ってくれたことへの感謝と、あなた様を諦めません、という一文が力強く書かれた文だった。まこと女子というものは恐ろしいものだ、と正宗は改めて認識した。
「私には勿体ないお方でしたゆえ」
 桜華は「そのような建前を聞きたいのではありません」とぴしゃりと撥ねつける。それぐらいで引くお方であれば、楽なのだがと空を見上げる。トンビが鳴きながら思いの他低いところを飛んでいる。一雨くるかもしれない。早めに出立したいところだ。
「正宗殿には、心に決めたお方がいるのではありませんか」
 桜華は意を決したように真っ直ぐと正宗の目を見つめて問う。これは迂闊な言い逃れはできんぞと正宗は視線を逸らさずに正面から力強く返す。
「はい。おります。ですが、私がその方の名を明かすこと、その方へ想いを申し上げるようなことは、生涯ありません」
 では、と桜華は人差し指を遠慮がちに一本立てて見せる。武家の姫君らしからぬ所作だった。
「勝負をしませんか?」
「勝負、ですか」
 ええ、と桜華はこくりと頷く。「わたしと正宗殿の一対一の勝負です」
「それはどのような内容の勝負ですか」
 桜華は視線を正宗の腰の二刀に落とし、再び上げて微笑む。それは挑戦者のものとは思えない花も恥じらうような可憐な笑みだった。
「一対一の立ち合いです。それも真剣で」
 桜華が父である国宗心徹の手ほどきを受けて、並みの侍では敵わないほどの腕をもっていることは知っている。だがそれでも自分とは相当の開きがあるだろうと正宗は見ていた。正宗は今では国宗心徹から五本勝負で二本は取れる。だが桜華では一本も取れないだろう。それに真剣での勝負は腕もそうだが、真剣での勝負に慣れているかどうかも争点になる。正宗自身は幾度も修羅場を潜ってきていて、嫌な話だが人を斬ることに慣れている。だが、そうではない桜華は、まして女人だ。真剣をもてば太刀筋が鈍る恐れがある。そうなれば彼女に万に一つも勝ち目はないだろう。それが分からない桜華とも思えず、正宗は訝しく思わずにいられなかった。
「わたしが勝ちましたら、あなたの心の中にいる方を忘れて、わたしの夫になってくださいまし」
 桜華は微笑んでいたが、目は笑っていなかった。怖いほどに真剣だった。
「家老である国宗家の姫君と、貧乏同心の私では、藩も認めますまい」
「いいえ認めます。あなたには同じ家老格の配川家に養子に入ってもらいます。紫都さんにはよい婿殿を探してさしあげますし、そうすれば婚姻に何の支障もありません」
 恐らくはもう配川家に手が回してあるに違いない。配川家にも相当の見返りが約束されているだろう。だがそれも、桜華が勝つという前提の話だ。よほど自信があるということなのか。
「恐れながら、真剣の勝負でこの正宗に勝てると?」
 桜華は逡巡することなく頷き、「ええ、勝てます」と断言した。
 そこまではっきりと言われては、正宗としても退くことは武士としての沽券に関わった。
「いいでしょう。その勝負、お受けします」
 正宗の承諾の返事を受けて満足そうに頷き、「では勝負はよき時に」と微笑んだ。
「御役目の邪魔をしてはいけません。あなたが御役目を終えたとき、立ち合いに参ることにいたしましょう」
 それでは、と桜華は淑と頭を下げて背を向けて去って行く。
 まこと女人とは恐ろしいものよ、と嘆息しながら正宗は屋敷を後にする。

〈続く〉


■サイトマップは下リンクより


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