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ピリオド

 こん、こん、とキッチンに卵をぶつけて片手で開き割り、フライパンの中に落とす。
 油がちりちりと喜びの声を上げている中に落ちた卵は、瞬く間に白身を泡立たせ、外の方からじわりじわりと白く濁っていく。黄身を覆った白身はまばたきをするように震えていた。
 私はフライパンに蓋をすると、まな板の前に立って玉ねぎを切り始めた。涙が込み上げてきて、唇が震えた。泣きたいときには、玉ねぎを切るといい、と母が言っていたのを思い出す。流した涙も、玉ねぎのせいにできるからと。
 夫が死んで、一か月が経った。
 一か月経った今も、私は夫の毎朝の習慣だった目玉焼きを焼くことを止められない。私自身は目玉焼きが好きではなかったけれど、夫の喜ぶ顔が見たくて、毎朝焼き続けた。
 夫は目玉焼きを前にすると、まるで子どものようにぱあっと顔を明るくした。普段は眉間にしわを寄せて、難しい顔をして常に考え事をしている彼だったが、目玉焼きを前にしたときだけ、眉間に刻まれたしわも緩やかにほどけ、目じりが下がって口角が上がり、まるでお地蔵様か何かのように穏やかで安らいだ顔をするのだった。
 その夫の死から一か月が経ったというのに、もう誰も食べる者も、喜ぶ者もいないのに、私は目玉焼きを焼き続ける。
 浮かんだ涙を掌で拭うと、力を込めて、どこまでも包丁がまな板を叩く音が響くように、私は玉ねぎを刻み始めた。
 夫と結婚したのは、五年前だ。二十五で、就職して三年ほどが経ち、社会人としても慣れてきたという矢先のプロポーズだった。
 夫は私と同い年で、大学の同窓生だった。彼は卒業しても就職という進路を選ばず、小説家になった。まるで彼の目には作家になる道が見えているように、息をするように自然に、彼は小説家になり、瞬く間にテレビや雑誌で取り上げられる存在になった。
 私は地元に帰り、地方の出版社に勤めていた。とても小さな出版社で、地元の情報誌や郷土の資料、その地域で本を出したい人の自伝やらを取り扱う会社で、私は経理事務として働いていた。だから、事務のことは分かっても、編集や営業の仕事がどんなものであるか、漠然としか知らなかったし、それは今でもそうだ。
 会社には編集一人、営業一人、経理事務二人に社長の五人しかいなかった。会社は雑居ビルの中の一室で、四人机を並べると手狭になってしまうため、社長と営業にはデスクもなかった。もっとも、社長も営業も常に外を飛び回っているような仕事だったので、特にそれでも支障はなかった。
 夫はその頃東京に住んでいたから、私たちのやりとりは電話かLINEだった。私から会いに行くこともあったけれど、私の給料もいいとは言えず、余裕はなかったから月に一度行けるかどうかだった。彼が来ることもあったけれど、東京に比べれば何もない田舎なので、彼は退屈してしまうらしかった。何より、本屋の品揃えが悪いことが、彼は不満らしかった。
 鍋にバターを引いて火を点け、溶かしてふつふつと泡がたってきたところで、刻んだ玉ねぎをすべて流し入れ、木べらでかき混ぜ、炒める。
 バターと玉ねぎが焼ける甘い匂いが鼻をつき、私は空腹を感じていなかったけれど、腹がぐうと鳴って、体の方が正直に声を上げた。私はそれに思わず苦笑してしまう。
 夫はクラシックが好きだった。コンサートに足繁く通っていて、私もお供したことが何度かある。けれど、何度目かに一緒に行ったとき、私は仕事が忙しく昼を抜いてしまっていたので、空腹に耐えかねてささやかな腹の音を演奏中に鳴らしてしまい、夫に凄い目で睨まれたことがあった。それ以来、お腹が鳴ったらどうしよう、と気が気でないので、一緒に行くことは遠慮するようになってしまった。
 玉ねぎが焦げ、色がキャラメルのような色になってきたので、火を弱める。目玉焼きのフライパンの蓋を上げ、黄身の半ばほどにまで火が通っていることを確認し、火を止める。そして白い無地の皿に目玉焼きをするりと落とすと、フォークで突っついて白身を口に運ぶ。
 玉ねぎに完全に火が入ったら、水を入れ、顆粒のコンソメを振り入れて、塩コショウを適当に振って、弱火にする。目玉焼きの黄身を割り、とろりと流れた黄身を掬って白身に絡め、食べる。ねばつくような黄身の食感は、夫の潰れた眼球を口にしているようで気色悪く、私は流しに吐き出すと、三角コーナーに目玉焼きを落とし、口を濯いだ。
 リビングに戻り、掃き出し窓や出窓など、すべての窓を開けていく。リビングだけでなく、和室や寝室、それから夫の書斎も。
 書斎には、夫が死の前に最後に書き残した遺作の原稿が積まれていた。夫のものは処分したが、この書斎だけは手をつけることができなかった。机の上には資料が山と積まれ、本棚には古今東西の小説がぎっしりと詰まっている。入りきらないものは床に積まれ、それがどこか侘し気に見えた。夫の著作はデスクの下に無造作に放ってあり、折れたり破れたり、ぐしゃぐしゃになっていたが、夫は頓着しなかった。彼は書き終えてしまったものにもう興味はなく、それを誰がどう扱おうが構いやしないのだった。
 夫のペンネームには、私の名前の一字が使われていた。それは何も夫が愛妻家であったからというわけではなく、夫は私を共著者と見なしていた。勿論、私は夫の作品の成立に何も口出しをしたことはない。けれど、ただ一点。その一点だけは必ず私が書いた。
 それは、どんな作品も最後に書くであろう一字。最後の文末の句点。それだけは、私が必ず書き入れた。
 夫には拘りがあり、絶対に最後の句点だけは自分で書かなかった。よく建築物で柱を逆さまにして欠点を残すことで完成させずに保ち、完成の後にくる衰亡を避けるという話を聞くが、それに似た験担ぎのようなものであったのかもしれない。
 編集との綿密なやりとりの末に出来上がった完成稿を、夫はダイニングテーブルの上にどんと置いておく。私はその中身は読まず、最後のページだけをめくって、句点を書き入れ、書斎のデスクの上に戻す。そうして原稿は完成する。だから、暗に私がいないと自分は原稿を完成させることもできない。私が必要なのだ、と阿られているような気がして、句点を、ただの丸を書き入れるだけなのに、私の心の中には様々な感情が嵐のように吹き荒れていた。
 だから、出版社に第一稿を提出するとき、末尾の句点がないために、編集が書き入れたりして戻ってくると夫はひどく不機嫌になった。その辺りよく心得て、うまく立ち回ってくれたのが、K社の高橋さんだった。
 高橋さんは若い女性だが、気配りが細やかで、前任の編集の進藤さんから引継ぎを受けると、初日から進藤さんと同じように振る舞い、気が短く、常人とは異なる思考回路をもつ夫のこともうまく手なずけてしまった。
 高橋さんは初めての訪問の後、帰り際に見送りに出た私にこう言った。「先生がピリオドを打たせるのは、最大の信頼、親愛の表現なのだと思います」
 そうかしら、と苦笑して首を傾げた。すると高橋さんは微笑んで、「先生は不器用な方ですから」と言って、失礼します、と踵を返して暗闇の中をヒールの音を高く響かせて去って行った。私は胸を鷲掴みにされたようで、ただ扉の向こうに消えて行く、彼女の背中を見送ることしかできなかった。
 その高橋さんが、夫の遺稿を読んで、その作品を完成させることを私に求めた。夫の遺稿は未完成だった。物語の結論の部分に差し掛かったところで、夫は病に倒れ、あっという間にこの世を去ってしまった。ただ句点を書き入れればいいのとはわけが違う。これまでは句点を書き入れなければ完成しないとはいえ、物語としては完成しているものだったのだ。だが今回は違う。高橋さんは、夫が書き残した物語を、私が夫の足跡をたどり、言葉を拾い集めて完成しろと言う。そんなことは到底出来っこない。私は夫のような小説家ではないからだ。
 私は夫の遺稿を手に取り、書斎の床に座り込むと、手近なところに積まれていた本の山の上に原稿を載せた。原稿は左右に垂れ下がり、それがなんだかしょげて耳が下がった犬のように見えて可笑しくなり、ふふっと笑い声をもらした。
 こうして座っていると、自分も山積みにされた本のような気がしてくる。人間一人分、三十年という歴史を綴じた物語。それが私だ。
 私は懸命に手を伸ばしてみた。でも、伸ばした先には何もない。夫という本は、どこへ行ってしまったのだろう、と思う。夫が書き残した本なら埃をかぶって山積みになっている。けれど、夫そのものを書き残した本は、どこにあるのか分からない。彼がどんな人生を生きて、どんなことを考えていたのか、その断片は私の体に食い込むようにして残っているけれど、断片でない、存在したはずのすべては失われてしまった。少なくとも、私のそばからは。
 ひょっとしたら、何十年後かに、彼の生涯を記録した本が出るかもしれない。でも、私は今見たいのだ。彼の声が、匂いが、肌の感触が、この身に残っているうちに、それを内側に留め置くために、彼の記録が欲しかった。
 私は伸ばした手を下ろし、膝を抱えた。今この家には、私一人しかいない。夫が生きていたときも、彼は書斎にこもりっぱなしだったから、一人と変わらなかったけれど、彼が生きていたときにはこの家も脈動していた。生きている、ということが感じられた。だが、夫が去ってみると、家も生気を感じさせず、枯れ果てて死んだかのように黙っていた。
 原稿を手に立ち上がり、キッチンに向かって鍋の火を止める。そしてリビングに置いてあったバッグに原稿を押し込んで詰めると、家を出る。初夏のアスファルトの上を歩きながら、進藤さんに電話をかける。暑い。汗がぷつぷつとにじみ出て、溢れて流れる。ハンカチでそれを拭う。
 進藤さんはK社で編集者をしていて、夫の担当だったが、激務が祟って心を壊し、夫の担当を高橋さんに譲り渡し、その後間もなく退職した。彼は几帳面で、真面目で仕事をきっちりとこなすタイプだったため、都会のささくれだった生活は心が限界を迎えて悲鳴をあげてしまったのかもしれない。
 進藤さんが担当でなくなってからも、夫は彼のことを気にかけ、定期的に呼び、時には高橋さんを交えて三人で夫の作品について議論することもあった。高橋さんもそれに疑問を抱くことなく、自然と受け入れていたのだから、彼女の度量の大きさが窺える。当の進藤さんの方が戸惑っていて、恐縮していた。
 進藤さんは電話に出なかった。うつ病の症状も落ち着き、新しい環境で働き始めたというから、忙しいのかもしれない。私は鞄の中にスマートフォンを押し込んで、街区公園と神社が並んだ木陰の道を歩いた。弁当屋が開いていて、中には観光客と思しき、大きなリュックを背負った外国人が立ってメニューを眺めていた。
 私は弁当屋のガラス戸に貼られたスポーツ少年団の勧誘チラシに目を留めた。野球のチームのようで、子どもが書いたらしき拙いけれども温かみのある、バットを持った野球少年の絵が描いてあった。
 私と夫の間には子どもはいなかった。一度妊娠したことがあるけれども、ちょうど十週目を迎えたところで流産してしまった。夫はそのとき珍しく私を労わって慰め、私が悲しみを表現する術が分からず、当たり散らすのも黙って受け入れてくれた。
 もし子どもがいたのなら、野球をしていたかもしれないし、サッカーをしていたかもしれない。それとも、夫に似てインドアで、部屋でずっと本を読み耽っているような子どもだったかもしれない。
 もう叶わないものだ、と思うと、きゅうっと胸を締め付けられる思いがした。それは悲しくも甘い痛みだった。
 顔を上げて、水から浮かび上がって息継ぎをするようにふうと息を吐くと、こめかみの辺りから滲んだ汗が頬から頤にむけて流れ落ち、私は手の甲でそれを拭った。
 蝉しぐれの降る、夏の道はぬるま湯が揺蕩っているように、空気が質量をもっているように感じられた。私はその中を流れる得体のしれない流れに足を絡めとられつつも、ゆっくりと足を運び、前に進んだ。
 アスファルトの道が途絶え、石畳の歩道だけの道に足を踏み入れる。そばには保育園があって、子どもたちがきゃあきゃあと歓声を上げる声に交じって、水が跳ねる音が響いていた。水遊びをしているのだな、と思って柵に近寄ると、ふわりと冷たい風が私の頬を撫でた気がした。
 裸の子どもたちがビニールプールの中で走り回り、保育士の先生に水をかけたりしていた。先生も悲鳴をあげて逃げ回る。それを見て子どもたちは一層楽しくなって、張り切って水をかける。
 夫の小説には、子どもがよく登場した。
 私は夫がいないときを見計らって書斎に入り、夫の著作を持ち出しては読むことを繰り返していた。堂々と読ませて、と言えばよかったのかもしれないが、何となく気恥ずかしかったし、夫も私が読むことを快く思わないのではないかという懸念があった。
 作品の中では、子どもが重要な役割を担うことがしばしばあった。誘拐された、犯人を唯一見た子ども、親に虐待され、逃げ出して一人になった子ども。そして、生まれてくることができなかった、生者でも死者でもない、儚い存在の子ども。この生まれざる子ども、というモチーフは繰り返し夫の作品の中で登場する。恐らく、流産してしまった我が子のことが、彼の心にも言いようのない悲しみとしてこびりつき、彼はそれを受け入れるために、作品の形に昇華しなければならなかったのだろう。
 最初読んだ時は腹が立った。自分の子どもの死でさえ、創作の糧にしてしまうのかと思うと、夫が血も涙もないような怪物に思えてきた。でも、そうではなかった。彼にとって書く、ということは叫びなのだ。自分の中で抑えきれない、行き場のない感情を解き放つための唯一の手段。だから彼は、悲しみに圧し潰されないように書き、叫ぶしかなかった。
 私は柵から手を放し、後ろ髪を引かれる思いがしながらも、その場を後にした。
 その先には緩やかな坂が広がり、道の左右には昔ながらの古い住宅が並ぶ。天気がいいせいか、どの家にも洗濯物がはためいていた。開け放たれた窓からは、回っている扇風機が覗いた。扇風機の真ん中には緑色のスズランテープが巻かれていて、巻き起こす風になびいて揺れていた。
 書斎には三台扇風機があった。夫の後方に一台、デスクの上に一台。そして頭上の壁に一台。夫はエアコンが苦手で、エアコンをつけていると頭痛がしてきてしまうので、常に扇風機をフル稼働して暑さを凌いでいた。
 今度はその扇風機の駆動音が騒音になって、夫はヘッドホンをしてクラシックを聴きながら執筆していた。よく聴いていたのはバッハだった。それからリスト。気分によって聴き分けているらしく、不機嫌なときや執筆が乗らないときにはリヒャルト・シュトラウスを聴くと決めているようだった。
 夫の死後、CDプレーヤーを開けたとき、中に入っていたのはリヒャルト・シュトラウスだった。
 坂を上りきると、その先にかつての大名屋敷跡が広がっていて、建物の中に入ることはできないが、外の庭園は無料で開放されていた。私は大きな木の門をくぐると、砂利敷きの敷地の中に入って行く。
 夫も執筆に行き詰まったり、気分転換したいときにはよくこの庭園にやってきた。私も大体一緒だったが、夫は物思いに耽っているので、基本的には声をかけず、私は私で季節の花を目で愛でたりして過ごしていた。
 砂利敷きの坂道を上りきると屋敷跡があり、その屋敷をぐるりと回り込むようにして庭園に入ることができた。庭園の中には観光客や地元の人間が散歩をしていて、静かに賑わっていた。
 私は庭園を、夫に倣って物思いに耽りながら歩く。
 夫は作品を完成させられなくて無念だっただろうか。ひょっとしたら、あの世で続きを書いているのではないか、とも思った。夫は小説を書くこと以外、何にも興味を示さない人だった。趣味なんか勿論ないし、日常生活でさえ、私が管理しなければ、食事も入浴も睡眠もおろそかになって、ままならなかったに違いない。けれど、ままならない自分に苛立ちや不満を感じることはない。ただ小説を書いていればそれで満足という人だった。だからこそ、短い人生だったにも関わらず、あれだけの著作を残すことができたのだろうと思う。
 庭園の中央には小川が流れていた。小川は庭園の外まで続き、いずれ川に合流する。その流れを確かめたわけではないが、夫が言っていたから、何かで調べたのだろう。
 私は小川の緩やかな流れのそばにしゃがみ込んで、バッグの中から原稿の表紙を一枚抜き出して、折り紙の要領で舟を折った。
 白く大きな舟を、そっと小川に浮かべる。舟はゆらゆらと揺れて、今にも沈没しそうに見えたが、バランスをうまく保ちながら小川を走っていく。私は次の一枚を取り出すと同じように折り、舟を流した。
 夫が火葬されて、骨だけになり、遺骨を骨壺に詰めたときも、夫を弔っているという気はまるでしなかった。だが、こうして夫が精魂込めて書き上げた原稿を舟にして川に流していると、夫の死が身近に横たわって、私はそれに対して悲しみではなく、悼む気持ちをもてているのだ、という実感が宿った。
 原稿は夫の骨の一つ一つで、それを流すことは彼に対する敬意と愛情を示す唯一の行為に思えた。
 電話がバッグの中で鳴った。きっと進藤さんだろう。でも、私は電話に出ることはしなかった。夫が死んだ今、もう彼の電話に出ることも、彼に電話をすることもないだろう。それを伝えたかったが、電話に出ないということが、言葉以上に雄弁にそれを物語っているように思えた。
 高橋さんは葬儀の席で、私以上に泣いていた。メイクは涙で流れてぐしゃぐしゃで、目の周りは黒くパンダになっていた。彼女が「先生の形見に」と夫が署名をするときに使っていた万年筆を所望したときには、やはりと思った。だが、私は何も言わずに彼女にそれを渡した。
 進藤さんは泣いていなかった。ただ青い顔をして幽霊のように佇み、思い出したように私や高橋さんを慰めた。葬儀が終わり、人が会場からいなくなった後、進藤さんは夫の遺影に向かって固く目を瞑って手を合わせていた。それを見て、私も進藤さんの隣に並び、夫に向かって手を合わせた。
 進藤さんが私に気づいて、こちらを見たことには気づいたが、私は何も言わなかった。ただ目を閉じ、手を合わせた。次に目を開けたときには進藤さんはいなくなっていた。
 高橋さんは、なぜ私が作品を完成させるべきと考えたのだろう。彼女の性格なら、夫の遺稿には誰も手を入れさせず、そのまま出版するよう主張しそうなものなのに。私にはできない、と考えてのことなのか。いや、あのときの、夫の原稿を発見したときの、爛々と燃える彼女の目は、それとはまったく別の感情を語っているように見えた。やれるならやってみせろ。いや違う。そう、あの目は、自分ならできるのに、だ。
 彼女の思惑も、夫の考えも、もう私には関係のないことだ。
 遺された私は、現在を生きて、明日に向かって歩き出さなければならない。夫の遺稿という過去の産物に、いつまでも縛られているわけにはいかない。だから、私は紙で舟を作り、夫の紡いだ言葉を水に流すのだ。
 私は最後の一枚を引き抜いて、バッグからペンを出し、書きかけの文末の最後に句点を書き入れると、それを折って舟にし、水に浮かべた。
 その最後の舟はしばし波に抗うように流れの上に浮かんでいたが、私が頬杖を突いてゆっくり息を吐くと、それを待っていたかのようにゆっくりと動き出し、流れに浮き沈みしながら流れて行った。
 私は庭園を後にすると、近くにあったコンビニに入り、残った原稿をゴミ箱に突っ込んで顔を上げた。ガラスに浮かび上がった疲れた顔の女を睨むと、乱れた髪を整え、深呼吸して指で口角を吊り上げて笑顔を作り、張っていた肩を、息を吐き出すと同時に落とし、店を出た。
 道を歩き、信号を待ちながらスマートフォンを開いて、高橋さんからメッセージがきていることに気づく。そこには夫の遺稿のことで、相談したいことがあるという内容だった。
 私はただ一字、句点を打って返信し、スマートフォンをバッグに突っ込んだ。

〈了〉


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