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終末のクレオ

 かつて音楽は才能だった。技術の巧拙は努力がものを言う。だが、持って生まれた声やセンスは、持たざる者には絶対に超えることのできないものだった。
 僕の祖父は古い時代の人間で、オペラ歌手だったが才能の差に挫折し、音楽の道を諦めて故郷で喫茶店を始めた変わった人だった。
 その祖父が今の時代の音楽の在り方を見て、憤慨するやら嘆息するやら忙しい。店に遊びに行くと、いつも「お前もなのか」と僕のこめかみの辺りを確認される。
 今の時代、声や演奏技術は特別な人のものではなくなっていた。
 技術の進歩によって、頭にメモリを差し込むことによって、口から歴史上の人物の歌声や、一般人には手の届かないストラディバリウスの音色を再現することができるようになったからだ。たとえパバロッティだろうと、マリア・カラスだろうと。自由自在だ。
 あるとき、歴史の影に埋もれていた十四世紀の男性歌手、シゼリコの存在が明らかになった。
 彼はイタリアの生まれで、モーツァルトのように音楽遍歴の旅を生涯に渡って続け、オーストリアで五十年の一生を閉じたという。彼の歌声を絶賛する古い文献が発見されたことから、オーストリアの政府はシゼリコの墓所を特定し、墓を掘り返し、彼の頭蓋骨から声のメモリを作り出した。
 それは男性ながら、まさに天上からの福音とでも言うべき天使の歌声であり、世界の音楽シーンにはシゼリコの歌声が溢れた。オペラ歌手は勿論、有名なロックバンドのボーカルも、街角のシンガーソングライターも、みなシゼリコの声だった。
 そして流行には必ず終わりがくるように、シゼリコの声に大衆は飽き始め、異なる声を求めだした。
 世界はその流れを憂慮し、各国でメモリの作成数を定めることに合意した。希少な歌声や楽器の演奏には希少価値を。例えば祖父の時代には日本にAdoという稀有な歌手がいたそうだが、今Adoのメモリは世界に三枚しか存在しない。内一枚は日本政府が厳重に管理し、一枚は日本の音楽チャートのトップを走るシンガーソングライターが所持し、もう一枚はイギリスのロックバンドが所持している。
 だが、希少価値をつけたことで、貴重なメモリは高額で取引されるようになり、資産が豊富な富裕層が音楽まで独占するようになった。そんなことは数の制限を決めたときに分かりそうなものだが、各国の政治家たちは天地がひっくり返ったような意外なことのように、大仰に嘆いて見せた。
 僕が知る限りでは、ルネ・フレミングやエリザベート・シュヴァルツコップの歌声を手に入れようと思ったら、自治体の年間予算ぐらい簡単に吹っ飛んでしまうほどの金が必要だと聞いたことがある。
 僕は音大の学生だが、まだメモリを入れていなかった。
 メモリを入れたことがないわけではない。授業で楽器のメモリを入れる必要があることもあるし、昔の歌手のメモリを入れて最新の歌を歌うのは、結構面白い。合う声合わない声もあるし、声や歌い方にも年代の差が感じられておかしいのだ。
 でも、まだこれだという声には出会えていない。
 ちなみに大量に溢れていたシゼリコの声のメモリは各国で回収されて破棄され、今では世界に十枚存在するかしないかと言われていた。その一枚が僕の手の中にあることは、周囲に秘密にしてある。どうしても自分がこれだと思う声が見つからなかったとき、僕はシゼリコになろうと考えている。

 ある日教授から、旧音楽堂の地下にある倉庫の整理を頼まれ、僕はダンボールを抱えて地下におり、レコードやCDという過去の遺物を棚に並べて整理をしていた。
 地下倉庫はほとんど人が足を踏み入れないから埃っぽくて、歩くだけでそこに足跡が残り、舞い上がった埃を吸い込んで何度もくしゃみをした。すると棚に積もっていた埃がくしゃみの風圧に舞い上がり、更に僕の鼻腔を襲って繰り返しくしゃみをする羽目になるのだった。
 倉庫はレコードなどをまとめた棚と、古いモニター(ブラウン管テレビなんて歴史の資料でしか見たことがない!)をまとめた棚、楽譜をまとめた棚に分かれていた。
 僕はブラウン管のモニターが珍しくて、しげしげと眺めて回っていたのだが、そのときモニターとモニターの間に、無理矢理差し込まれるような形で小さなケースが挟み込まれているのに目を止めた。
 取り出してみると、それはチタンのケースで、ラベルも何も貼っていなかった。開けると中は真新しく、白い梱包材の中に一枚のメモリが収められていた。
 僕は胸が高鳴った。こんなところに隠されていたメモリだ。ひょっとしたらすごい発見かもしれない。僕の選ぶべき歌声になるかもしれない。
 メモリを取り出すと、それは古い規格のものだった。体に入れられなくはないが、うまく作動しないかもしれない。
 僕はそれでも恐る恐るメモリをこめかみに差し込んでみた。頭がメモリのデータを読み込む、超音波のようなノイズが走る。やはり古い、と片目をつぶって顔をしかめると、すぐに読み込みが完了した。
 期待に胸を躍らせた。埃や過去の遺物たちだけが観客の倉庫というステージなのは不満だったが、誰にも聴かれないのは正体不明のメモリの試運転としては相応しいのかもしれなかった。
 息を大きく吸い込み、僕は試しに流行のポップソングを歌おうとした。
 だが、喉をついて出たのは、目を、耳を塞ぎたくなるような生々しい恐怖の叫びや呪詛、そして銃声だった。
(なんだこれは)
 僕は慌てて口を噤んだ。そして息を飲んで、今度はそっと囁くように歌ってみた。結果は先ほどと一緒だった。
 とんだものを引き当ててしまったと後悔した僕は、メモリのリジェクトボタンを押した。だが、メモリは古い規格のものだったせいか、リジェクトボタンの信号にうまく反応せず、出てくる様子を見せなかった。指で無理矢理取り出そうと思っても、メモリまで指は届かない。物理的に取り出すことはできなさそうだった。
 助けを求めて、僕は倉庫を飛び出し、階段を駆け上がり、他の学部の研究棟の間を抜けて、研究室の建物を上がって教授のいるフロアまで辿り着いた。
 廊下には何人かの女学生が談笑していた。その中に僕も親しくしている蔵前がいた。彼女はレイーネという十年くらいまえに活躍した日本人歌手のメモリを差していた。
 レイーネはメモリを駆使した音楽と、メモリに頼らない音楽をミックスしたいわば変わり者だったが、その異色さがうけて、一時期は一世を風靡した。蔵前が持っているのは、レイーネ本人の歌声のメモリだ。いくら彼女の家が資産家だろうと、メモリの入手には骨を折ったに違いない。
 レイーネはロックバンドで、バンド名とリーダーの女性の名前がレイーネだったが、三年ほど活動し、人気絶頂の最中に突如解散を発表し、音楽シーンの表舞台から姿を消した。リーダーのレイーネ以外のメンバーは演奏の腕を買われて有名ミュージシャンのバックバンドを務めたりしていたが、レイーネだけは、旧メンバーたちもその行方を知らなかった。そのため、マニアの間では、レイーネは新しいメモリの開発の被験者となり、それが失敗して死んだ、などの本当かデマか分からない噂が飛び交った。
 そうしたある意味伝説的なロックバンドであるため、レイーネのメモリは数少ない。なぜか日本政府は早い段階から彼女のメモリの生産数に制限をかけ、市場に流通しないよう妨害をかけた。今でも現存するレイーネのメモリの多くは、政府が所有している、と噂されるほどだ。また、レイーネのメモリを持っていると不審死する、という都市伝説もあるが、眉唾だ。だって蔵前はあんなに元気だ。
 レイーネは反戦を謳い、各国の内戦や紛争地域でライブを行ったため、政府から目をつけられている、というのがマニアたちの持論だ。
 僕は助けを求めて蔵前に向かって叫んだ。だが、口から迸り出たのは、悲壮な命乞い、嘲笑、絶望し神に祈る声、死への恐怖と嘆き、相手への呪詛、そして銃声と悲鳴だった。
 蔵前は耳を塞いで金切り声を上げ、その場にへたり込んだ。一緒にいた女子学生たちは魂の抜けたような虚ろな目をして、何が起こったか理解できないという無表情さで蔵前を見下ろしていた。
 僕と彼女たちの間には、硝煙で煙る灰色の壁ができてしまったようだった。
 再び僕の口から断末魔の、内臓を芯から凍らせるような恐ろしい叫び声が響き渡る。
 女子学生たちは絶叫し、痙攣したように震えながら頭を抱えてしゃがみ込んだ。
 僕にもこのメモリが何なのか、理解できてきた。声はすべて日本語だ。そして、何らかの処刑の現場ということ。銃声のけたたましさや、叫びが無数に上がっていることを考えれば、処刑というよりも虐殺の現場だろう。
 今から十年前、某国のタカ派の将校が率いる部隊が日本の沿岸都市に潜入し、都市内部で破壊工作を行った後、廃校になった学校跡地に人質千二百名を監禁し、日本の政治家たちが右往左往し、自衛隊がじれながら出動の合図を待っている間に、その千二百名全員を銃や刀剣によって虐殺するという歴史の教科書に載るような事件が起こった。そしてその映像は動画配信によって瞬く間に広まり、日本国民の心に深刻なダメージを与えた。
 僕も動画を見てしまった一人だ。恐らく反応を見る限り、蔵前や女性学生たちも見てしまったのだろう。動画はすぐに削除されたが、大きなニュースになっていたから、ほとんどの日本国民が見たに違いない。
 騒ぎを聞きつけた教授がやってきて、僕の口からこぼれる銃声や悲鳴を聴くと青ざめ、「メモリを抜きなさい!」と叫んだ。
 僕は首を横に振ってできないことを訴えた。教授は青白い顔のまま、教室の中にいた男子学生を呼び、三人がかりで迫ってくると、僕を廊下に組み伏せた。
 身動きができない僕に、教授は一人の学生に差し出された工具箱から鉄のハンマーを取り出すと、「それならやむをえん。破壊するしかない」と振りかぶった。
(ちょっと待ってください。メモリを破壊したら、僕はどうなるんです?)
 予想もつかなかった。メモリスロットは音声機能だけでなく、体の各神経とも結びついていた。よく交通事故でメモリスロットを破損し、首から下が機能不全に陥ったという話を聞く。それと同じ状況に、僕もなるのではないだろうか。
(破壊はだめです。なんとか取り出す方法を)
 訴えることすら、僕にはできなかった。口を開けば怨嗟や呪詛の言葉、絶叫しか出てこないのだから。
 教授はハンマーを振り下ろした。平たい鉄の頭がメモリスロットを過たず捉え、愛用のプラモデルを父が踏み潰してしまったときのような、哀れで、痛々しい音が響いた。
 僕は激痛に意識が遠のきかけたが、必死で暴れた。暴れられるということは、四肢の機能は失っていない。
 声の限りに叫び声を上げた。その叫びは、この世のすべての絶望をかき集めてきて詰め込んだら、そんな声になるんじゃないかという、声を発した僕自身ですら恐怖に体が震えて止まないような、そんな恐ろしい叫びだった。
 全員の動きが止まり、僕を押さえていた手がすべて離れた。その隙に立ち上がり、逃げ出した。メモリスロットは潰されてスパークし、火花が散っていたが、メモリは生きている。逆にメモリスロットが潰れた以上、僕はこのメモリと一生を過ごさなければならなくなった。
 こんな形で生涯のメモリが決まってしまうなんて、僕は思わなかった。
 この日から、僕の世界から音楽というものは消えた。

 日常生活は何とか送ることができた。筆談と、手話が非常に役立った。
 僕への心労が祟って、両親は早くに亡くなった。僕は転がり込んできた遺産を使ってNPO法人を立ち上げた。世の中には、僕のようにメモリが破壊されたり、機能しなくなった機能不全者や、メモリの適合手術に適合できず、メモリを与えられなかったメモリ不所持者などがいて、それらの人々を総称してメモリ障がい者と呼んだ。
 僕はメモリ障がい者の生活や就労を支援する事業を展開する一方で、特別な研究チームを作り、僕の叫びのメモリの解析を試みた。嬉しいことに、この噂を聞きつけた蔵前が、主役が内定していたミュージカルを蹴ってチームに参加してくれたのだった。
「わたしの中のレイーネが命じるの。不思議な話だけど。わたしの中にあるのは彼女の声のメモリであって、彼女の心じゃない。でも、声が言うの。あなたを手伝えと」
 白衣を着た蔵前は清々しそうに笑ってそう言った。
 解析の結果、僕の中にあるメモリの音声データの核は、一時間きっかりだということが分かった。新しい世代のメモリは核にある音声データを元に、所有者が喋ろうとする音声などをAIが判断して作成するのだが、旧世代のメモリはそれが十分ではない。恐らく僕のメモリは意図的にか過失か分からないが、AIが排除されている。それゆえに音声を自動生成する機能がなく、昔存在したラジカセのように決まった音声を流し続けるのだ。
 つまり一時間、あの惨劇の音声記録を耐えれば、記録されているものの全貌が見えるということになる。
 記録されているのはただの虐殺の場面だけかもしれない。だが、僕はそうではないと信じていた。理屈ではなく、このメモリとはそういう巡り合わせだったのだと、そう強く信じていた。
 一時間、耐えるのは僕だけでよかった。それ以外の研究チームの面々は、時間を計って頃合いを見て戻ってくればいい。けれど、蔵前を始めとして、チームの全員が迷うことなく、一時間の惨劇に立ち会ってくれることを決めていた。僕は彼らを誇りに思わずにはいられない。
 そして一時間後、現実というのは僕たちの想像の遥か上をいくのだと、思い知ることになる。

 一か月後、僕らは国会議事堂の前に立っていた。
 各種情報媒体で大事な情報を開示するから、集結してほしいと呼びかけた甲斐あって、数多くの人でひしめきあっていた。これ以上時間をかければ、警察が本格的に動き出すだろう。動き出すときには、真実の開示に辿り着いていなければならない。警察も自衛隊も、真実を知るべき国民の一人に違いはないのだから。
「お集りのみなさん。これからわたしたちがみなさんにお聞かせするのは、十年前の惨劇の記録です。あの恐ろしい記憶を呼び起こしたくない方もいらっしゃるでしょう。もしかしたら、遺族の方もいらっしゃっているかもしれません。でも、わたしたちは知ってしまったのです。あの惨劇の奥に隠れた真実を。それをこれから開示いたします」
 蔵前がレイーネの凛とした美しい声で、呼びかけると、群衆にざわめきが波のように広がる。だが、それが引くのを待っている余地はない。僕は記録の五十五分までを移動のワゴン車の中で喋り終えた。
 ここからが、国民が聴くべき五分間だ。
 僕は蔵前の前に躍り出ると、空を見上げ、太陽の美しさに目を細め、口を開いた。

「次の者、立て」
 銃を構えた軍人とは別の、通訳士が額に脂汗をにじませながら手を縛られた女性に言う。
 通訳士は日本人だった。顔面は蒼白で、命じながらも祈るような口調だった。
 命じられた女性は監禁の疲労も見せず、すっと立ち上がって、その真っ赤な髪を揺らして通訳士に微笑みかけた。
「あなたも殺されるわよ、すべてが終わった後に」
 女性の声に議事堂前がざわめいた。音声の中の生き残りの人質たちも同じようにざわめいていた。「レイーネの声だ」
「大人しく殺されてあげてもいいんだけどさ、最期に訊かせてよ。岸岡大臣。一体いくらで日本を某国に売ったの?」
 聴いてるんでしょ、とレイーネは上方に設置された監視カメラの方に向かって挑むような調子で言う。
 軍人が母国語で何か言う。恐らく跪け、などと言っているのだろう。だがレイーネは分かりませんとばかりに肩を竦めてみせ、通訳士も軍人から目を逸らした。
「大臣はこんな血なまぐさい殺戮の現場などご覧になりませんよ」
 スピーカーから若い男の声が降ってくる。聞き覚えがあるぞ、と議事堂前の群衆と音声の中の人質たちがざわざわと言い交し合う。
「そうだ! 議員の為川真三じゃないか。若手の。遊説に来た時に聞いた声とそっくりだ」
 人質の中からその名が上がると、議事堂前の群衆も確かに、と驚愕のざわめきがさざ波のように広がっていく。
「愚民の中にも少しは賢いものがいるようで」
 なんだと、と人質の中から叫び声が上がると同時に銃声が響く。
「で、レイーネさんでしたか。なぜ岸岡大臣が売国奴だと誹るのです」
 レイーネはからからと笑って、「自国の軍じゃないとはいえ、情報統制ぐらいまともにしておくことね。言葉が分からないと思って、彼ら言いたい放題だったから」と銃を構えた軍人を一瞥し、ウインクする。
「通訳士さん、今のを訳してください」
 通訳士は困惑したように首を振ってカメラを見た。「いや、しかし……」
「通訳士」と為川は有無を言わせぬ冷え冷えとした声で言い放った。
「そんなことはいいわ。で、あんたたちは何を見返りにこの国を売ったの」
 レイーネの声は歌うようでありながら、怒りに満ちていた。
「『我々は国を売った』ことはありません。自国の利益を最優先に考えていますよ」
「なら、今のこの状況はどう説明するわけ? 彼らをここまで引き入れたのもあんたたちなら、自衛隊の救助を引き延ばしているのもあんたたち。これが売国行為じゃなくてなんなの」
 ふふ、と笑っていながらも感情のこもらない笑い声をもらすと、為川は「歌手なんぞにしておくのは勿体ないですね」と可笑しそうに言った。
「某国は常々我が国の領土を狙っていました。放っておけば戦争が始まりかねないほどに情勢は緊迫していたのですよ。そのため、大臣は某国の首脳と取引をしたのです」
「取引?」
「ええ。あなたたちの街は、水産資源や水産加工物の工場が豊かです。その地を明け渡す代わりに、我が国全土への攻撃は行わないようにと」
 レイーネは信じがたいものを見たように目を丸くし、そして腹を抱えて笑った。
「あんたたち馬鹿なの。一か所明け渡したら、そこを橋頭保に領土を奪われるに決まっているじゃない」
「そうですよ。だから我々も明け渡す気なんてないんです。いいですか。我々がした契約は、『明け渡す』ものです。ですが現実はどうでしょう。『明け渡す』前に虐殺が起きている。国際社会はこれを看過するでしょうか」
 レイーネは顔を真っ赤にして叫ぶ。
「わたしたちは、そのための人身御供だと言うの!」
 彼女は続ける。
「彼らに通訳士を通じて嘘の命令を伝えさせて、虐殺を起こさせたのもあなたたちね。そして、彼ら軍人も、生かしてこの街を出す気がない。つまり、広範囲を殺戮できる兵器で街を薙ぎ払う」
 為川はカメラの向こうでゆっくりと手を叩く。
「本当に聡い人だ。兵器の使用責任は総理にとっていただくことになっていますからね。岸岡大臣が今後の日本の舵取りをします。我が国は安泰ですよ」
「国民を守るのがあなたたちの仕事じゃないの」
「守りますよ。でも、あなたと私たちでは国民の定義が違うようだ」
 違う、と疑問を口にすると、そうですよ、と為川が答える。
「我々に金や地位や名誉を運んできてくれる方を国民と呼ぶのですよ」
「なら、それ以外の人間はなんだって言うの」
 為川はふふ、と堪えきれずに笑い声をもらす。
「さしずめ寄生虫でしょうか。国という巨大な生き物に寄生し、それだけでは飽き足らず様々な権利を要求してくる厄介な寄生虫。だから寄生虫がどれだけ死のうとも、国という生物に支障はないのですよ」
 クズね、とレイーネは唾とともに吐き捨てる。
 安泰になんてさせるものか、とレイーネは叫び、カメラの方に彼女のメモリスロットを見せる。
「わたしはあるメモリプロジェクトの被験者だった」
「メモリプロジェクト? それがなんだと」
「核となるメモリをマザーネットワークとし、同じ音声メモリを持った者同士の記憶などをマザーに集約し、編集して洗練されたデータを各メモリに配布する、メモリデータの共有化実験の被験者」
 カメラの向こうで為川が息を飲んだのが分かった。
「まさかお前が、あの実験の被験者だと。だが、中止された実験だ。お前が母体であるマザーだったとしても、データを配布することはできないはずだ」
「残念。こんなこともあろうかと、実験が中止されるまえに、ダミーの共有サーバーを用意してそれを削除させたわけ。だからわたしたちの間では今この瞬間もデータのやり取りがされていて、彼らはすべてを聴いているの。だからわたしがここで死んでも、わたしの意志は死なない。いつか必ず後を引き継いだ誰かが、あんたたちの悪事を暴いて、正すべきを正してくれる」
 レイーネはそう言って、足でリズムを取ると、歌を歌い始めた。彼女の代表曲『クレオ』。
 バンドもないのに、彼女は意に介さず美しくもパワフルな声で歌声を響かせる。
 為川は通訳士に向かって「殺せと命じろ!」と叫び続けていたが、通訳士ははっきりと拒絶して首を振った。
 軍人たちも戸惑っていた。レイーネの歌声を聴いたことがある者も多かったのか、戦意を喪失して銃を下げた。
 人質たちの間に一縷の希望の糸が見えた。彼らにはレイーネが天使にでも見えていたかもしれない。
 ここまでで、四分三十秒。終曲はここから転調して訪れる。
 人質の中から、サラリーマン風の男が突然立ち上がり、懐から銃を抜くと、レイーネの胸を撃ち抜いた。
 彼女はそれでも最期まで歌いながら、地に倒れた。
 撃たれたレイーネを見て、某国の若い兵士が激昂し、サラリーマン風の男を小銃で何度も撃ち抜いた。レイーネを撃った男は四肢がちぎれるほど撃たれて絶命した。
「議員。総理が決断なさいました」
 興奮していた為川は激しく息を吐きながら落ち着きを取り戻し、「よし、すぐに発射準備だ」と指示を出した。「それから、世間に出回っている共有化されたレイーネのメモリを回収しろ。所持者は必ず殺せ、いいな」
 愛しい世界よ 平和は翼を得て空へ去る わたしたちは空に焦がれても 世界 あなたを捨てはしない
 囁きのように弱弱しい声だが、レイーネは最後まで曲を歌い切った。けたたましく銃声が響いている。
 音声データはここで途切れた。レイーネが死んだのだろう。

 僕はこの音声を届けるために、レイーネのメモリに選ばれたのだと思う。恐らく僕のメモリはマザーではなく、子端末の一つなのだろう。しかもご丁寧にレイーネのメモリだとバレないようにレイーネのデータを削除し、代わりに事件の一部始終のデータを残した。そして回収されることを恐れた誰かが、苦し紛れにあの倉庫に隠しておいたのを、僕が見つけた。
 岸岡はあの事件後間もなく総理大臣の地位につき、今もそこにいる。為川は法務大臣に収まっている。彼らはその笑顔の裏で、自分以外のどうでもいい国民たちを欺き、裏切り続けているのだろう。
 集まった人たちは混乱の渦中にあった。警察や自衛隊が介入し鎮圧しようとしたものの、彼らの中にも音声データに心を動かされた者があり、武力制圧を放棄し出したためだ。
 デマだ、偽物のでっちあげだ、としきりに叫んでいる者がちらほらと現れ始めたが、恐らく岸岡の手の者だろう。
 僕の隣に蔵前が立つ。お互い顔を見合わせ、蔵前は口を開き、歌い出す。レイーネの『クレオ』を。
 群衆がどよめく。「レイーネだ」と。
 そして僕は音声データを最初から再生する。死の坩堝、僕らが目を背け続けてきた現実に存在する地獄を歌う。レイーネが目を逸らさなかった、後を僕らに託した、この世の地獄を。
 天国と地獄を同時に目の当たりにした群衆はパニックに陥った。警官や自衛隊の隊員の中には議事堂へと雪崩れ込む一群が現れ、群衆がその後に続いた。勿論その場から逃れるために逃げ出そうとするものもいた。
 そんな混乱を切り裂くように、二発の銃声が響き、蔵前がゆっくりと崩れ落ち、それを抱きとめて僕も倒れた。
「嘘だ。父さんが、そんな」と震える手で拳銃を握りしめた若い警官には為川の面影がどことなくあった。
 為川の息子は別の警官に射殺され、殺した警官は議事堂へと向かって行った。
「蔵前、無事かい」
「あなた、声が」と蔵前は驚いて僕の頬に手を伸ばした。
「きっとレイーネが、最期に声を返してくれたんだ」
 自分の声を久しぶりに聞いた。何だか裸の自分を見られたようで気恥ずかしいような、複雑な気分だった。
「ああ、あなたの声だわ。なら、私も」
 蔵前はメモリを取り出すと、それを血に濡れた手で固く握りしめ、そっと僕の唇に震える唇を重ねた。「愛しているわ。ずっと言いたかった」
「君の声だ。レイーネのおかげで、僕らは大切なものを取り戻せた」
 体の中から血が失われていく感覚がはっきりとあった。穴の空いた風船から水があふれるように、命が失われつつあることを本能的に理解した。
「でも、残念だわ。あなたもわたしも、自分の本当の声を取り戻したのに、ここでお別れなんて」
 蔵前は痛みに顔を歪めた。眉間に深いしわが刻まれている。顔が白く、呼吸が荒い。
「でも不思議ね。どうしてわたしのレイーネのメモリは回収されなかったのかしら」
「簡単なことさ。実験の前に製造された初期型だからだよ。データの共有はされていない。奴らも過剰にレイーネを排除して疑いを抱かれるのを嫌ったんだろう」
 蔵前の息が苦しそうなものから、ゆっくりと落ち着いたものに変わっていく。
 僕は彼女の顔を記憶に留めようと一心に見つめながら、彼女に「歌おう」と囁いた。
 彼女は微笑んで頷いて、途中だった『クレオ』を歌い出す。その歌声に、僕の声を重ねる。僕らを取り巻く、救いを求める声も、確固たる意志で走り続ける靴の音も、戸惑い慌てるだけの群衆のざわめきも関係ない。
 僕らは僕らのためだけに、『クレオ』の最後の一節まで歌う。それが、僕らの自由だ。

〈了〉

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