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虚構日記〜5月31日〜

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■本編

 五月三十一日(金)
 紫をおもちゃ屋に連れて行ったら、棚に並んでいたコルクでできた積み木を気に入ったので、少し値は張ったが買って帰ってきた。
 コルクで軽いので、普通の木の積み木よりも危なくないと思ったのだ。……私が。
 なにせ紫は鬼の子だけあって膂力が強く、鉄鍋でさえ軽々と持ち上げ、振り回すのだ。おまけに投擲能力も高く、狙った獲物を外すことはない。おかげで私の顔には生傷が絶えない。
 積み木を三つ四つと器用に積んでいくと、拍手をして喜んでいた。それだけを見れば可愛らしい光景なのだが、次の瞬間には手に持った棒状の積み木を振り抜いて打ち抜き、ジャイロ回転をした積み木が私の顔面めがけて飛んでくる。私の身体能力ではそれを避ける術はない。
「相変わらず痛々しいな」
 シャルが苦笑いをして、テーブルの上にレモネードを並べながら言う。グラスについた水滴が涼しげな雰囲気に一役買っていた。
 紫が「あうだうあ」とテーブルに近寄って叩き、自分の分は、と要求する。シャルもさすがに勝手知ったるもので、「紫はこっちだ」と麦茶が入ったマグを差し出す。
 紫は麦茶が気に入らなかったのか、「あーだうー!」と駄々をこねてマグをひっくり返す。シャルがやれやれ、と肩を竦めているので、ここで怒るのが私の役目かと思った。
「こら、紫。せっかくシャルがくれたのに、そんなことしたらだめじゃないか」
 私が顔をしかめて少し大きな声で叱ったので、紫は顔をみるみる歪めて目から涙をぽろぽろとこぼし、口を大きく開けてわんわんと泣き出した。
「いいんだ。叱らないであげてくれ。駄々をこねるということは自我がある、健全な証だ」
 だが、と言ってシャルは紫を抱き上げ、頭を撫でながら、「ありがとう。私のために叱ってくれたのだろう?」と紫と一緒に頭を下げた。紫はしゃくりあげて不承不承ながらも頭を下げた様子だった。
「お前が怒るなんて珍しいから、紫も驚いてしまったのだな」
「紫が来てまだ6日くらいだぞ」
 そうだったか、とシャルは空とぼける。
「そういえば、お前が子どもの頃はどんな子どもだったんだ」
 テーブルについてレモネードを飲み始めた私に、シャルはわざとらしく話題を変えて訊ねる。
 レモネードは口中を刺激する酸味の上にとろんとした甘さがあり、喉が渇いていたこともあってか一気に飲み干してしまった。
「別に。どこにでもいる子どもだよ。引っ込み思案で、虚栄心が強くて、空想癖のある地味な子ども」
 シャルはグラスにレモン水を注ぐと私に差し出す。レモンの酸っぱい香りがするが、香りはレモングラスでつけているので、味はしない。
「引っ込み思案というのは頷けるが、虚栄心が強いというのは意外だな」
 意外でもないさ、と私は思う。虚栄心が強いから、シャルのような美しいパートナーを選び生み出すのだ。
「お前は勝ち負けから離れたところで生きているような印象をもっていた。勝とうが負けようが無為自然といったような」
 恐れ多いね、と苦笑いしてレモン水を口に含む。シャルはまだレモネードをちびちびと飲んでいた。紫も駄々をこねるのは諦めたのか、ストローをくわえて麦茶をちゅうちゅうと吸って飲んでいた。
「負けず嫌いだよ。ただ、負けるのに慣れてしまっただけさ」
 勉強でもスポーツでも。私が勝ちたいと願ったことで勝てた試しがない。私はいつでも付属物だった。優秀な誰かの。おまけでついて回る水瀬。あいつ、なんでいるんだっけ。そう言われたときの悔しさ。目標だと思っていた相手に歯牙にもかけられていなかったときの虚無感。
 負けず嫌いの私の心を打ち砕き、勝負の土俵から引きずり下ろすには十分だった。
「じゃあ、戦わないことだ」
 シャルのその言葉は、私には冷たく突き放す言葉として届いた。
 シャルは両手で頬杖をついて、花のように開いた手に顎をのせて微笑んだ。
「戦わなければ負けない。代わりに、私が戦おう。お前を苛むものとは」
「シャル……」
「私は負けない。戦っても。一度負けても、勝つまで立ち上がって挑み続けてやる」
 シャルは本気だろう。目を見ればそれが分かった。赤い瞳の奥にめらめらと燃える焔が見えるようだった。
「私も負けず嫌いだからな」
 そう言ってにっと不敵に笑った。私もつられて笑みを浮かべてしまう。
「だうあっ!」
 紫も麦茶のマグを掲げ、そう叫んだ。そうだそうだ、と言っているように私には思えた。
「ところで、写真とかアルバムはないのか。子どもの頃の」
 シャルは目を輝かせて手を差し出していた。
 あったかもなあ、と頭を掻きながら立上り、和室へ向かって押入れの中を探る。すると押入れの奥の奥にしまいこまれていた段ボールの中に古びたアルバムが数冊入っていた。
 これだ、とテーブルの上に広げると、シャルは食い入るように写真を見つめた。
「お前にも可愛い時期があったんだな」
 失敬な、とささやかに抗議すると、シャルはアルバムの中の、父親の車の前で撮った写真を指さして「可愛いな、これ」といつもよりもオクターヴ高い声を出した。
「もっとこまっしゃくれた子どもだと思っていた」
 あながち間違いでもない、と思う。子どものくせに世の中を知ったふりをして、斜め上から世間を、人を見下ろした気になっていた子ども。見下ろしているか、見上げているのかすら理解していなかった、愚かな子ども。
 それが私だった。賢くないのに賢いと思っている、哀れで始末に終えない質の子どもだった。
「これはお前の母親か?」
 そういってシャルが差し出した写真は、今の紫くらいの私が母に抱かれている写真だった。写真の中の母は笑顔で、私は梅干しみたいな顔をして泣いていた。
「優しそうな母親だな」
「どこが。苛烈にもほどがある性格の母親だったさ!」
 シャルは目を丸くして他の何枚かの写真を見比べ、「そうは見えないが」と訝しそうに私と写真とを交互に眺めた。
「小学生の自分の子どもに10キロの米を背負わせて、10キロ離れた家に歩いて届けに行かせるような鬼婆だ」
「なにかの訓練だったのではないか」とシャルは大真面目な顔で言う。どこの世界にまだ一桁の年の息子に訓練を課す母親がいるというのだ。
「この人が父親か?」
 今度差し出した写真には、冬の一面銀世界の中で、車の前に立って、やはり紫くらいの私を抱いている父が写っていた。父は緊張しているのか、ぎこちない笑顔で、今度は私が満面の笑みを浮かべていた。
「ああ、そうだ」
 こうして見ると、父も年をとったなあと思える。
「鬼婆に連れ添えるくらいだから、輪をかけた悪鬼なのか、それとも聖人君子の類か」
 後者だな、と言うと今度はシャルも腑に落ちたのか深々と頷いた。
「お前に磨きをかけたような人の良さが顔ににじみ出ている」
「別に私は人が良くなんかは」
 言いかけると、シャルは人差し指を真っ直ぐに突きつけて、「人が良い奴は決まってそう否定する」とにやりと笑んでみせる。
「お二人とも壮健か」
「ああ、幸いにしてな。あちこちがたは出ているらしいが」
 家と同じだ。長く過ごしていると、表面上は恙無くても、内側にダメージが蓄積し、ある日水が出ないだの、柱がシロアリに食われただのといった不具合を生じる。家と違って人間の体は代替が効かないことも多いから、余計に難儀だ。いつか足腰が弱くなってきたから、じゃあ取り替えましょうね、という時代がくるのだろうか。今のところそれはSFの領域だろう。
「なら、お二人がお元気なうちに、挨拶に伺いたい」
 シャルは姿勢を正して咳払いし、改まってそう言う。
「紫はどうする」
「もちろん連れてくが? 私たちの子です、と」
 シャルは何が問題なのだ、と理解できぬ怪訝な様子で首を傾げた。
「父さんたち卒倒するぞ。嫁どころか孫までがやってきたと」
 私はため息を吐いて、妙にやる気を出して張り切っているシャルを横目に、アルバムをめくった。
 紫はシャルが楽しそうなので、一緒になって喜んで騒いでいた。まあ、これもいいか、と苦笑すると、アルバムの中の一枚に目を止めた。
 そこには小学生くらいの私と、幼馴染のクロウとキキョウが写っていた。夏休みに、近くの沢でマスの掴み取り大会をやったときの写真だ。私はマスに逃げられて尻尾で水を引っ掛けられ、クロウは要領よく片手でマスを掴み取っている。キキョウはそれを笑いながら見守っている、という写真だった。
 懐かしいな、と目を細めて眺める。今でも三人で過ごした日々は、ありありと脳裏に浮かぶようだった。
 二人とは進路が違ったので、高校に上がる辺りから疎遠になってしまった。二人とも県下トップクラスの進学校に入学したはずだから、さぞ順風満帆な人生を送っていることだろう。
「お前でも、そんな顔をするのだな」
 シャルに言われて我に返る。今、自分がどんな顔をしていたのか、まったく分からなかった。それほど一枚の写真に流れる濁流のような記憶の流れに飲み込まれていた。
 シャルは唇を軽く噛む。「記憶は、もっとも美しい刺客になる。時として」
 シャルは手を伸ばしてひったくるように私の手からアルバムを奪うと、ぱたんと閉じた。
「今を生きてくれ。目の前にいる私と、紫と一緒に」
 シャルの目は真剣だった。まるで私が記憶に囚われて二度と帰らないところに行ってしまうような口ぶりだった。
 はは、と私は渇いた笑いをこぼして、そこで自分の喉が異様に渇いていることを知った。暑く広大な砂漠の中に一人放り出されて、彷徨っていたような錯覚を覚えた。
 忘却の砂に満ちた記憶の砂漠は、確かに私から現在という潤いを奪っていたのだ。シャルに呼ばれるまで、私は囚われ人であった。
「大丈夫だよ、シャル。私はどこへも行ったりしないから。ここが、私のいるべき場所だから」
 私はそう言いながらも、そう言っている自分を俯瞰して見ている別次元の自分の存在を感じていた。そこにいる私は警告を発している。安寧な時間は、いつまでも続くものではないと。平穏とは、闘争の次の闘争までの、束の間のものにすぎないのだと。
 私は無意識にシャルの手を固く握っていた。シャルは驚いていたが、私と同じように手を握り返してくれた。
「お前は私が守る。絶対にな」
 言うべきセリフを奪われて苦笑していると、シャルは私の手を握ったまま引いて額に押し当て、「だから一緒にいてくれ」と祈るように言った。
 願わくば、神様がその願いを聞き入れてくれるように、と私は祈った。

〈後日に続く〉


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